50 祝福の裏側で、世界が軋む
「てめえら。動くんじゃねぇぞ」
周囲を牽制したジャメルは、リュシアンを引きずったまま後退する。
全員を視界に収められる位置で足を止めた。
「え!? 何がどうなってんの?」
駆け込んできたのは、白馬びゅんびゅん丸に乗ったアンナだ。
遅れて、青年姿のテオファヌ、炎の民ヘクター、水の民イヴォンが続く。
『戦いが終わって、気が緩む場面が一番危ないんだよねぇ……油断大敵、ってね。ギルドに帰るまでが冒険、ってわけなのよ』
危機のただ中。リュシアンの耳に、ドミニクの声が蘇る。
「くそっ……」
視界を塞がれている。
抵抗はおろか、迂闊に声も出せない。
『静まりなさい』
拡声魔法が場に継続している。
セリーヌの凜とした声が響いた。
『ジャメル、どういうつもりですか。継承戦が終わるまではと大目に見ておりましたが、あなたの素行は目に余ります。今は再び、わたくしとユリスの護衛という立場。わきまえなさい。これ以上は看過できません』
セリーヌ、ユリス、老剣士コーム。
三方向からの鋭い視線を受けても、ジャメルは睨み返す。
「継承戦でも負けた。こうして付いてきたのは、災厄の魔獣を仕留める機会があるかもしれないっていう、薄い希望からだ。それすら奪われた俺は、島に戻ったって居場所がねぇんだよ」
怒りに震える手。
短剣の腹が、リュシアンの頬を打つ。
「どうして、こんな小僧が神竜に認められた? てめぇらも、守り人としての誇りを忘れたのか? 残された手は、喜びの絶頂にいるこいつを始末して、少しでも溜飲を下げるだけだ」
『とても正気だとは思えません』
セリーヌは呆れたように小さく息を吐く。
『神竜の決定に異を唱えるのであれば、直接もの申しなさい。間接的にリュシアンさんを襲うとは卑劣です。恥を知りなさい』
「知ったことか!」
『リュシアンさんを解放してください。何が望みなのですか』
「望みだと? 大金だ。それからセリーヌ、おまえだ。おまえが一緒に来るなら、こいつを解放してやる」
「愚か者が……」
コームのつぶやきが、静かに広がった。
かつて同じ未来を夢見た同士。
だが今は、正気を失い、闇に沈んだ。
同情の余地も、救いの道も見当たらない。
「これだけの人数を前に、逃げおおせると思っているのか。友として、せめてもの情けだ。貴様には私が引導を与えてやろう」
剣を抜いたコームを見て、地の民クロヴィスは弛緩した姿勢のまま舌打ちした。
「俺にやらせろ、と言いたいところだが、ここはあんたに任せるのが筋だろうな。あんな奴が同族なんて、全身に虫唾が走る」
殺気を帯びて踏み出すコームを、ジャメルが睨む。
「コーム、てめぇは引っ込んでろ。金とセリーヌが手に入ればそれでいい。どこかで大人しく隠居生活でも始めるさ」
「本当に、つまらない男……」
この場の誰のものでもない声。
「ねぇ。あなたたちも、そうは思わない?」
リュシアンとシルヴィの背筋が凍る。
レオンが低く舌打ちした。
「闇覆天幕結界」
艶めいた声に、空気が塗り替わる。
空を飲み込むように暗黒結界が展開された。
星の光が、闇に塗り潰される。
外界から完全に隔絶された漆黒。
外の様子は、もう窺えない。
「さすが闇凶星ね……悔しいけれど、老いぼれのくせに実力は本物なのよね。視界も音も、一切を遮る高性能の結界よ」
一同から十メートルほど離れた位置に、女性魔導師が姿を現した。
足元に、重いものが落ちる鈍い音が続く。
魔法攻撃が届くかどうかという絶妙な距離で、酷薄な笑みを浮かべている。
持ち上がった右手が、ジャメルを指した。
「小物風情が、私の天才的な段取りを邪魔しないでちょうだい。あなたみたいな人を、老害って言うんでしょうね。わかるでしょう?」
「いきなり出てきて何だってんだ。部外者が離れた所から文句をたれるんじゃねぇよ」
ジャメルが吠えた背後で、殺気が膨張する。
「零水一閃」
風が抜ける。
ジャメルの頭部が地面へ転がった。
解放されたリュシアンは激しく咳き込み、呼吸を整える。
涙が毒草の粉を洗い流した。視界が戻り始め、像を結んでゆく。
「は?」
それ以上、言葉が出ない。
全員が沈黙したまま、立ち尽くす。
剣が鞘に収められる小気味よい音が響いた。
漆黒の鎧が月光を受け、冷たい光を返す。
中性的で端正な横顔。通った鼻筋。引き締まった唇。胸元まで流れる黒髪。
「ヴァレリーさん……なんですか?」
リュシアンがどうにか言葉を絞り出したその直後だ。
月光を奪う勢いで、大鷲型魔獣が結界内へ侵入した。
一頭がモニクの側へ着地し、漆黒の鎧を身に着けた男が地面に降り立つ。
「よう、リュシアン。久しぶりだなぁ……こうして会える日を待ちわびたよ」
のんびりとした、いつもの口調。
失ったはずの左手が、軽く振られる。
理解が追いつかない。
現実が、軋む。
「何がどうなってるんだよ……」
まだ目がおかしいのではないか。もしくは、既にジャメルに殺され、死語の世界で再会を果たしたのか。
リュシアンは自身の存在を疑った。
ブリュス・キュリテールを討ち果たしたことも、ジャメルが殺されたことも。亡くなったはずのふたりがいることさえも。
そのように処理しなければ、今にも頭がおかしくなりそうだった。
ジャメルを討った女性剣士が、男とモニクへ歩み寄る。
モニクの詠唱が響き、広範囲に魔力障壁が顕現した。三人の体を光の球体が包み込む。
男は女性剣士が隣に並ぶのを待ち、全員を見渡した。
「おまえらと少し話がしたくてな。さっきの老剣士には悪いと思ったが、早々に黙ってもらった」
陽気な笑みを浮かべ、足下に横たわるものを踏みつけて片膝を上げた。
持ち上がった太股に肘を突き、懐かしむように見回す。
「リュシアン、何か言いたそうな顔だな。シルヴィにレオン、アンナ。それからアクセル……みんな間抜けな顔をしやがって」
わずかに声を落とす。
「ただな。その場を動くなよ。レオンは気付いてるだろうが、俺の足元にはジェラルドがいる。体を縛って、口も塞いだ。そこを動けば……首を落とすぞ」
男は声を上げて笑い、リュシアンを見据える。
「まずは、お祝いが先だなぁ。ブリュス・キュリテール討伐、おめでとう。最高だな」
白々しい拍手が響く。
「神竜剣と神竜杖は祝いにくれてやる。代わりに、こっちは俺たちが貰う」
男の言葉を受け、傍らにいたモニクが丸い物を持ち上げた。
成人の頭部ほどもある大きな球体だが、虹色の輝きを放つ神秘的な物体だ。
「理力の宝珠……」
セリーヌのつぶやきに、リュシアンは激しく動揺した。
ユリスを始め、守り人たちが息を飲む。
「ご名答。これが現物だ。神竜が是が非でも取り戻したいと願う逸品さ」
「フェリクスさん……あなたはどこまで知ってるんですか」
混乱と疑念の入り交じったリュシアンの問いに、男は目を細めて微笑んだ。
「さてな。今なら、望むものすべてを知れる気がする。終末の担い手、最高の組織だ」
口端が吊り上がる。
「俺は導かれ、生まれ変わった……六凶星を束ねる存在としてな」
その身体が前のめりになる。
「歴史は、守られることで続くんじゃない」
視線が、全員を貫く。
「壊されることで、次へ進む」
低く、確信に満ちた声。
「俺は、その役目を引き受けただけだ」
深い笑み。
「凶王フェリクスとしてな」
その名が、世界の重さを変えた。
誰も動けない。
誰も、否定できない。
どこかで、世界が軋む。
リュシアンは理解する。
これは裏切りじゃない。
もっと深い。
もっと根源の、何かだ。
英雄が堕ちたのではない。
英雄という概念そのものが、別の側へ移された。
もしフェリクスが、あちら側に立つなら。
この世界は、どこで線を引けばいい。
守る側と、壊す側。
その境界が、静かに崩れてゆく。
誰も口にしない。
だが全員が悟っていた。
もう、以前の世界には戻れない。





