42 蠢く影、迫る刃
「どうにか勝てたね」
満身創痍のジェラルドが、肺の奥に残った熱を吐き出すように息を漏らした。
勝利を口にするには、あまりにも静かな声音だ。
レオンは無言で頷き、暗い林の奥へ鋭く視線を走らせる。
デニスを倒したとはいえ、本命が残っている。
エドモンは深手を負っていたが、ナルシスが無理やり飲ませた秘薬によって、命の灯だけは辛うじて繋ぎ留められている。
呼吸は浅く、脈も不安定だ。それでも致命傷を免れた事実は、今の彼らにとって救いだった。
アンナとびゅんびゅん丸の姿が見えないことも気掛かりだった。
その事実が、胸の奥に小さな棘のように引っかかる。
だが、あの馬の賢さを知るレオンは、最悪の想像を喉元で飲み込み、判断を保留した。
今は、生き残った戦場の“呼吸”を読む方が先だ。
「俺は本隊の加勢に戻る」
低く、迷いのない声だった。
「その体で、まだ戦うのかい?」
ジェラルドが目を見開く。誰の目にも、限界は明らかだった。
竜臨活性を使い果たし、燃えるようだった髪色は黒へ戻っている。
呼吸のたび、肩がわずかに揺れるのを、レオン自身だけが隠していた。
「戦いは終わっていない……止まれない」
周囲の兵も冒険者も疲弊していた。
猿型魔獣と化したデニスとの死闘で多くが倒れ、立っている者でさえ足取りは覚束ない。
レオンに続ける者がどれほど残っているかはわからない。
「みんなは残って。疲れ切った状態で付いてこられても……足手纏いになる」
本心から出た言葉だった。
だが、抑えた声音は冷たくも響く。
レオンをよく知らぬ者たちの間に、理解と同時に、刺々しい嫌悪の気配が流れた。
その空気を、別の温度が一瞬で塗り替える。
「行かせないわよ。あなたたちは、私の遊び相手なのだから……そうよね?」
歌うような声が、戦場に残る熱気を瞬時に冷やした。
「どういうことだ……」
レオンは瞬時に魔法剣を構えた。
嫌な記憶が、否応なく引きずり出される。
「リュシアンの話では、猿型魔獣に捕まって絶命したはずだけれどね」
ジェラルドも、喉の奥で硬い音を出した。
洗脳魔法で操られていた過去。
最期を見届けられなかった罪悪感。
忘れようにも忘れられない影。
「その猿型魔獣の正体が……そこに転がってるデニスだったわけっスよね」
エドモンは恐怖を押し隠しながらも、震える手で杖を握りしめる。
彼女の底なしの闇は、数日間の同行だけで心の底を侵食していた。
「つまり、繋がっていたというわけかい?」
ナルシスが細身剣を構え、金髪を乱暴に掻き上げる。青い瞳が落ち着かず揺れた。
「失礼ね。そこの猿と一緒にしないで。利用してあげただけのこと……この私は、天才魔導師なのだから」
直後、王国軍から短い悲鳴が上がった。
レオンが視線を走らせた先で、人影が炎に包まれ、崩れ落ちていく。
「久しぶりね、ジェラルド。正気に返ったあなたを八つ裂きにする日を、どれほど待ちわびたと思う? あなたにわかるかしら」
闇の奥から滲み出すように現れたのはモニクだった。
法衣は昔のまま。だが、袖の奥から覗く“異変”に、誰もが息を呑んだ。
「両腕は……魔法の暴走で吹き飛んだはずっスよね……」
エドモンの震えた声に、モニクは愉悦を乗せた笑みを返す。
「気分がいいから教えてあげる。六凶星という組織に協力する代わりに“移植”してもらったの。土凶星のユーグが碧色のボウヤに殺されたでしょ。私はその後任というわけ」
その瞬間、モニクの下半身が異様に膨張し、甲殻を纏った巨大な蜘蛛の腹部へと変貌した。
両腕は消え、左右二脚ずつの四肢に生え替わってゆく。
人の形を、完全に捨て去っている。
「デニスが猿の力を得たように……私は蜘蛛の力を授かった。四本脚って便利なのよ。ほら、こんなこともできるのだから」
四つ脚の先で雷と風の魔力が渦を巻く。
「散れ!」
レオンの叫びと同時、全員が本能のままに地面を蹴った。
「合成魔法。雷猛暴風!」
四脚を敏捷に操り、二重に顕現した魔法が戦場を貫いた。
雷を孕んだ二つの竜巻が荒れ狂い、木々を薙ぎ払い、断崖の岩壁までも砕いていく。
悲鳴すら雷に飲まれ、景色が一瞬で地獄へ変貌した。
「あぁ……愉快。愉快だわ」
狂気を含んだ声が断崖の向こうへ吸い込まれていく。
※ ※ ※
マルクは足元へと力を叩き込むように掌を押し込んだ。
「猛狂気衝撃!」
放たれた衝撃波が周囲を一気に薙ぎ払い、黒装束たちを吹き飛ばす。
拳聖の渾身の一撃だ。至近距離で直撃した者は、その場で痙攣し、絶命した。
「合成魔法、燃盛風刃!」
レリアの杖から飛び交った真空の刃が、黒装束たちを切り裂いた。
裂け目から炎が噴き上がり、次々と灰に変えてゆく。
付近の配下は一掃された。残るはセヴランだけだ。
マルクは迷うことなく駆けた。
結界革帯の守りだけでなく、魔力結界も失われた。護りはない。己の肉体だけで戦うしかなかった。
体勢を崩した相手に跳び蹴りを繰り出す。
セヴランは体を捻って躱し、反撃の短剣を突き出した。
読んでいた。
マルクは身を沈めて刃を逸らし、立ち上がりざまの掌底を胸へ叩き込む。
「がはっ!」
セヴランの息が漏れ、体勢が揺らぐ。
その一瞬を逃さなかった。
「はっ!」
後方宙返りの蹴りが、顎を跳ね上げた。
マルクが月蹴宙舞と名付けた強烈な蹴りを受けながらも、セヴランは数歩後ずさっただけで倒れない。
装束の首元に流血が滲んでゆくも、彼の中に高まる怒りを表しているかのようだ。
凄まじい執念の光と勝利への貪欲さが、魔力灯に照らされたセヴランの瞳に灯っていた。
見上げた根性だ。
マルクには、立っているのもやっとだろうという手応えがあった。負けられない覚悟を背負っているのはどちらも同じだ。
エクトル、見ていろ。必ず仇を取る。
かつての仲間である聡慧の賢聖を想い、マルクは踏み込み、奥の手を放つ。
「猛荒気弾!」
拳から放たれたのは、成人男性の頭部ほどもある気弾だ。
大砲で胸を撃たれたような衝撃に、弾き飛ばされたセヴランは仰向けに倒れた。
決着。そう思った瞬間。
「マルク?」
レリアの声が震えた。
攻撃を仕掛けたはずのマルクが、動きを止めている。
胸騒ぎが走る。
彼は腹部を押さえ、ゆっくりと膝をついた。何かを引き抜くような仕草を見せる。
「く……そっ……」
レリアが駆け寄り、その手から血塗れの短剣を受け取った。
「これって……毒……」
嗅いだことのない刺激臭が鼻を突いた。





