37 本当の自由
「そうだよ。何もかもぶっ壊すんだ。湧き上がってくる破壊衝動を受け入れて、素直に身を委ねればいい。たまらねぇほどの心地よさだぜ。女を抱くより何倍も上質な体験さ」
火凶星デニスが言葉を重ねると、ジェラルドは弛緩させた両腕を足下へ落とした。
戦意を喪失したのか剣先は地を打ち、吹っ切ったように晴れやかな笑みを漏らす。
まるで、見えない力に支配されたかのようだった。甘美な誘惑が鼓膜から侵入し、全身を余すことなく蝕んでいるように思えた。
「ジェラルド……殿?」
ナルシスは、信じられないものを見せられている気分だった。不安に駆られ、その背に恐る恐る呼びかけていた。
誘惑には負けないと信じている。だが、ジェラルドのこれまでを思えば、闇に墜ちても仕方がないと納得してしまう自分もいた。
手招く誘惑にどんな世界が見えているのか。ジェラルドは突然に声を上げて笑った。
「この国を潰すとは恐れ入ったね……ファビアン、サディク、モニク。僕だって、三人の仲間のことを忘れた日はないよ。仕方のないことだったとはいえ、彼らを殺めてしまったのは事実だからね……モニクさんに殺されるのなら仕方がないと思っていたんだ。でもね、彼女は君に息の根を止められたと聞いている」
死に場所を求めるような目を、猿型魔獣のデニスに向ける。当のデニスは、苦虫を噛み潰したように顔をしかめて歯を剥き出した。
「おまえの気持ちを考えず、軽率な行動に出たのは悪かった。モニクの暴走で、おまえを消されるわけにいかなかったんだよ」
「だとしたら、僕は生きなければならないね。彼らの分まで生きることが、僕にできるせめてもの償いだと思うんだよね」
「そりゃそうだ。おまえの意見は正しい。だからこそ、その恨みをこの国にぶつけろ。その先に、おまえが求める本当の自由がある」
「適当なことを言わないでくれたまえ!」
デニスの妄言を否定せんとナルシスは声を張り上げ、細身剣の切っ先を向けた。
「おまえの言う、本当の自由とは何だ? 自由とは他人から与えられるものではない。自分で考え、自らの手で掴み取るものだ」
「黙れ! 雑魚が粋がるんじゃねぇよ」
デニスが怒りに任せて吠える。体に力が入ったのか、捕らえられているエドモンが顔を歪ませ、苦しげに呻いた。
「ジェラルドが踏みにじられた人生。それを取り戻す手伝いをしてやろうって言ってるんだ。俺たちもこの世界を壊したい。互いの利害は一致してる。だろ? おまえが望む奴だけ残せばいいだけの話だ」
ナルシスは否定したい気持ちを抑え、言葉をぐっと飲み込んだ。下手に相手を刺激すれば、今度こそエドモンは殺されてしまう。
「そうだね……」
デニスの言葉に酔ったように、ジェラルドはおぼつかない足取りで近付いてゆく。
猿型魔獣は顔をほころばせ、彼を受け入れようと両手を広げて見せた。その右手には、ぐったりとしたエドモンを掴んでいる。
「わかってくれたかよ。俺たちは、喜んでおまえを迎え入れるぜ。六凶星もそうさ。ラファエルが死んで、雷凶星は空席のままだ。マルセルの爺から雷の力を授かれば、おまえならすぐに雷凶星の座に着けるだろうさ」
「へぇ。興味深い話だね」
思わぬ食いつきを見せるジェラルドに、デニスは内心で小躍りしていた。
こいつを手玉に取れば、碧色の閃光も俺たちに逆らえなくなる。この土産のお陰で、六凶星の頂点も見えてくるってもんだ。
「よろしく頼むよ」
ジェラルドは右手に持っていた竜骨剣を鞘に収め、握り拳を頭上へ伸ばした。
デニスもそれに合わせるように、エドモンを掴んだままの右拳を近付ける。
その動きを追っていたジェラルドの目に、力強い光が宿った。左手に持っていたもう一本の竜骨剣を巧みに操り、すぐさま仕掛ける。
「双竜炎舞!」
炎の中から竜が飛び立つように、華麗で荒々しい動きだった。舞い踊るような回転斬りが、デニスの右手中指と薬指を切断した。
猿型魔獣は悲鳴を上げ、エドモンの体は魔獣の指と一緒に地面へ落下した。
「僕は諦めない。この世界に絶望しない」
きっぱりと言い放ったジェラルドは、収めたばかりの右の竜骨剣を鞘から引き抜いた。
「てめぇ。よくも……」
右手を押さえ、デニスが呻いた。怒りに震える全身から、再び炎が吹き上がる。
「こんな僕でも、帰りを待ってくれている人がいる。必ず戻ると約束したからね。それに、苦しい時ほど笑うというのが僕の信条なんだ」
「ほざけ。あいにく、俺が操るのも炎の力だ。あの碧色でさえ俺との戦闘を諦めた。おまえごときが、生きて帰れると思うなよ」
デニスが声高に言い放つと、それを掻き消すようにナルシスの高笑いが上がった。
「待ちたまえ。僕のことを忘れているんじゃないのかい? 涼風の貴公子と恐れられる僕の力が合わされば、君など喋るだけの猿さ」
「どいつもこいつも言わせておけば……おまえらなんぞ、消し炭にしてやるよ」
怒りに震えるデニスが右脚を持ち上げた。その先には、倒れたまま動かないエドモンが横たわっている。
「まずは、小太りからだ!」
「エドモン君!」
ナルシスがたまらず飛び出した。
魔獣の脚が落とされようという刹那、横手から緑の発光体が飛び込んだ。
右目を潰されたデニスが呻き、脚を上げた姿勢のまま岩場に倒れた。
全身を包む炎が、林の木々に燃え移る。
巨大な松明と化したその場所が、地面に着地したレオンを浮かび上がらせた。
「よく喋る猿だ。うるさいから静かにして欲しいんだけど」
愛用の魔法剣を振るい、刃に付いた血を払った。竜臨活性の影響で銀に染まった髪が、炎を受けて紅を映し出す。
「まぁ、すぐに黙らせるけど」
「二物……おまえもまとめて消してやるよ」
怒りに震えて立ち上がったデニスを目掛け、レオンが悠然と斬りかかった。
※ ※ ※
時は僅かに遡る。
魔力結界を崩されたセリーヌは、闇の中に浮かぶ金色の猿型魔獣に目を奪われていた。
「ここは任せる。俺はあの猿を仕留めるから」
セリーヌは、レオンの声で我に返った。
「ですが、災厄の魔獣は……」
「ぬるいことを言わせるな。ここまで追い詰めたんだ。あんたたちでどうにかしろ。あの猿を野放しにしておくのも危険だ」
レオンは風の補助魔法を纏い、脚力を強化。そのまま断崖へ駆け戻ってゆく。
それと引き換えるように、こちらへ向かってくる大鷲型魔獣の群れを上空に捉えていた。
「あれは……」
セリーヌは、動きの鈍ったブリュス・キュリテールを仲間に任せ、空に注視していた。
群れの中央にいる二頭の大鷲型魔獣が、大きな箱のようなものを運んでいるのが見えた。
闇夜を滑空する魔獣からそれが離され、シルヴィやアセクルの側に落ちた。
箱は氷漬けにされていたらしく、砕けた氷があちらこちらへ盛大に散らばる。
「棺、なのでしょうか……」
セリーヌは誰に問うでもなくつぶやいた。
箱の蓋は崩れ、白銀の軽量鎧で武装した、ひとりの男性が上半身を起こすのが見えた。
黒い長髪が首裏の位置で一本に留められている。銀の髪留めが月光を受けて輝いた。
青白い顔は頬がこけ、お世辞にも健康とはほど遠い。無精髭も相まって、みすぼらしさすら感じてしまうほどだ。
しかし、前髪の間から覗く濁った目は鋭い。獲物を求めて彷徨う、貪欲で獰猛な狩猟本能を剥き出しにした顔付きだった。
「どうなっとるんだ」
「ちょっと……あり得ないでしょ……」
拳聖マルクと賢聖レリアは動きを止め、箱の中から現れた人物に目を留めた。互いに、信じられない驚きに目を見開いている。
「どうして、アンセルムさんが……」
マルクはそれだけ言うのが精一杯だった。
病に冒されながらも冒険を続け、北方の洞窟で古代の秘宝を探索中に亡くなったのを見届けている。至高の剣神という二つ名を持ち、冒険者ギルドで伝説級の扱いを受ける英雄だ。
最強の冒険者と称えられた男が、息を吹き返したように一同の前に現れた。





