22 最強の美人メイド
「くそ……」
呼吸をするだけで脇腹の傷が疼く。買い替えた冒険服だけでなく、鎖帷子ごと斬り裂かれている。傷は思った以上に深い。
「がう、がうっ」
加護の腕輪を覗くように、ラグが側を飛んでいる。腕輪のラインは黒へ変わり、魔力障壁が失われたことを示していた。
火の海に取り囲まれ、いよいよ絶望感が増してきた。周囲から人の声が消えているが、みんな無事に非難できたのだろうか。
そこまで考えた時、こちらへ接近していたいくつもの人影の存在を思い出した。
火の海へ目を凝らすと、先程よりも数を増している。俺の視界が揺らいでいるのかと思っていたが、人影たちは酔ったように体を揺らし、奇妙な動きで足を進めてくる。
なんとかして、ここを抜け出さなければ。
膝立ちの姿勢で固まっている場合じゃない。このままでは焼け死ぬのを待つだけだ。
魔法剣を地面へ突き立て、杖の代わりにして立ち上がる。傷を気にしていられない。
「は?」
掠れた吐息のような声が漏れた。
火の海を進んでくる人影の中に、見知った顔を見付けてしまった。あの中年男性は、市場で青果店を営んでいる店主だ。
目が合った途端、男は狂ったような雄叫びを上げた。そうして獲物を狙う獰猛な狩人と化し、俺を目掛けて突進してきたのだ。
この傷では逃げ切れない。
覚悟を決めて剣を構えたものの、訳もわからぬまま知人を斬ることはできない。
逃げることもままならない手負いの獲物と、全力で挑んでくる狩人。力の差は歴然だ。
男は上体を沈め、肩から体当たりを仕掛けてきた。衝撃で、傷跡が激痛を訴える。
「ぐあっ!」
苦痛に呻いたまま、もつれ合うように地面を転がっていた。男の体が覆いかぶさり、即座に首を絞められた。
男の目の奥には赤い光が宿っている。獣のような唸りを漏らし、正気を失っている。
右手で剣を握り締め、男の左肩を突いた。刃の先が肩を貫通し、即座に血が吹き出す。
しかし男に怯む様子はない。腕に体重を乗せ、尚も本気で命を奪いに来ている。
「がうっ!」
男の頭上でラグが吠えた。こうなれば迷っている暇はない。相棒の力を再び紋章へ取り込み、無我夢中で竜臨活性を発動させた。
これで戦況は一変した。強化された肉体で男の腹を蹴り付け、すぐさま引き剥がす。
咳き込みながらも、慌てて酸素を取り込んだ。男から距離を取ったものの、辺りを数十人の街人に取り囲まれている。
これは明らかにまずい。
痛む脇腹を押さえ、群衆を飛び越えようと腰を落とした時だった。
いななきと共に、二頭の馬が人並みへ分け入ってきた。馬たちは群衆を弾き飛ばす勢いで駆け寄ってくる。
「あれは……」
前を走るのは見慣れた白馬、びゅんびゅん丸だ。その後ろへ栗毛の馬が続いている。
「そらっ!」
白馬に跨るナルシスは、惜しげもなく魔法石をばらまいた。氷の魔力を秘めた石が次々と弾け、群衆を氷漬けにしてゆく。
ナルシスに負けじと、栗毛の馬に乗っていた人影は、馬を乗り捨て飛び上がる。
「薔薇吹荒!」
激しい横回転と共に繰り出した一撃が、猛烈な風を生み出した。周囲へ拡散した暴風が、群衆たちをまとめて弾き飛ばしてゆく。
人影は何事もなかったように着地。顔にかかった黒髪を払い、妖艶な笑みを見せてきた。
「はぁい。あたしの大事な御主人様。最強の美人メイドが、お世話に駆けつけたわよ」
「助かる……」
それだけ言うのが精一杯だった。安堵と共に意識が遠のき、シルヴィさんが抱きとめてくれたのがわかった。
* * *
「ちょっと、リュシー!?」
シルヴィは慌てて彼の顔を覗き込んだが、気を失っているのは明らかだった。
彼女は自らが乗ってきた栗毛の馬へリュシアンの体を押し上げると、ナルシスを探した。
「金髪君。悪いけど、リュシーを見ていて」
「どうするつもりだい?」
「あそこのゴミを片付けてくるから」
シルヴィが顎で示した先には、ナルシスが打ち損じたふたりの剣士が身構えていた。彼らも依然として正気を失っている。
「いい。街の人はみんな凍らせて。間違っても傷付けちゃダメよ。それから、君も傷が開かないとも限らないから無理はしないこと」
真紅の斧槍を担ぎ、シルヴィは一気に加速した。氷漬けになった街人たちの間を駆け抜け、瞬く間に剣士たちへ迫る。
「すぐに逝かせてあげる」
唇へ舌を這わせたシルヴィは、繰り出された剣撃を、身を反らして軽々と避けてみせた。
斧槍の柄で敵の剣を打ち払い、底に付けられた石突と呼ばれる部位で相手の胸を打つ。
ひとりの剣士がよろめいた隙に、持ち上げていた斧槍を勢いよく振り下ろした。
真紅の一閃が闇に煌めき、もうひとりの剣士の首をはねた。その体が地面へ崩れるより速く、斧槍で体を支えたシルヴィは宙へ飛び上がる。
「咲誇薔薇!」
前転の勢いを利用して、豪快な一閃が繰り出された。
闇夜に咲いた真紅の薔薇。そこに秘められた棘は一撃必殺の殺傷力を宿し、剣士の体を真っ二つに引き裂いた。
「もう逝っちゃったの? つまんないわね」
唇へ人差し指を添え、あっけらかんと微笑む戦姫。その姿に、ナルシスは恐ろしさすら覚えて苦笑した。
「さすが紅の戦姫だ。リュシアン=バティストの片腕になるだなんて言っている自分がおこがましいよ。真に彼の支えになれるのは、あなたなのかもしれないな」
今のままでは決して届かないと、ナルシスは己の無力さを痛感していた。
先程の一撃で命を落としたと確信していた。こうして無事に生きていられたのは、ブリジットから貰ったブレスレットに癒やしの魔法が込められていたからに他ならない。その助けがなければ命を失っていただろう。
苦笑を浮かべるナルシス同様、シルヴィも寂しそうな笑みでそれに応えた。
「リュシーの支え、ねぇ……あたしもあたしで色々とあるのよ。これでも」
「とにかく、リュシアン=バティストの手当てを急ごう。姫と合流すれば傷も治せる」
「ちょっと待って。姫って、あの娘が一緒にいるわけ!? どうして?」
シルヴィの目は見開かれ、責めるような剣幕にナルシスはたじろいだ。
「いや……偶然に再会してね。今はたまたま行動を共にしているんだよ」
「そうなの……」
淋しげなシルヴィの顔を隠そうと、闇が濃さを増したように思えた。瞳に映る炎の赤は、心へ宿った妬みの強さを伺わせる。
自分の心が深い闇に飲まれそうな錯覚に、強く頭を振るった。リュシアンの力になると、いつまでも支えるのだと誓っても、心の底に燻る想いの炎は誤魔化せそうになかった。
「メイドも楽じゃないわね」
栗毛の馬に跨ると、リュシアンの体を支えながら手綱を強く握った。
街人を置き去りに二頭の馬は戦地を離れ、瞬く間に見えなくなってゆく。





