16 惨劇。はじまりの赤
「手遅れだったか……」
死後二、三日といったところか。街長の体には、肩から脇へ刃物で斜めに斬られた傷がある。奥さんは心臓を一突きだ。
やるせない気持ちを抱えて遺体から目を逸らし、先程の音の原因を探った。
「がう、がうっ!」
ラグの声に顔を向けると、相棒は割れた窓硝子の側で羽ばたいている。
慌てて窓際へ駆け寄った時、夜空に舞い上がる眩しい光の球が目に付いた。
「くそっ。信号弾か」
悔しさに舌打ちが漏れる。
街長夫婦を殺害した人物の仕業だろう。扉を開ける動作が引き金となり、自動的に射出される仕組みだったに違いない。
問題は、あの信号が誰に向けて送られたのかということだ。
全身鎧のドゥニールがこれを仕掛けたのなら、相手はモニクだ。街長の遺体が発見されたことを知らせるための信号に間違いないが、そうなれば当然、次の行動に出てくるはずだ。
「いや、そうじゃない……」
信号弾が打ち上げられた方角に気付くと同時に、嫌な予感が頭をかすめた。遥か上空からあざ笑われている気分だ。
「街の西側……サーカスのテントか」
踵を返し、玄関から飛び出した時だった。
頭上でラグが吠えると同時に、左方で殺気が膨らんだ。
突き出されてきた剣先を、上体を逸らして避ける。そうして、襲ってきた相手の腹部へ横蹴りを見舞った。
襲撃者は男だ。相手がよろめいた隙を逃さず、続け様に体当たりを仕掛けた。
仰向けに転倒した敵を馬乗りになって組み伏せる。左手で敵の喉を押さえ、短剣の切っ先を突きつけた。
「てめぇ、何者だ」
見れば、三十前後といった所だ。軽量鎧を身に付けているが、冒険者か傭兵に違いない。
「誰の差し金だ。答えなければ……殺す」
威圧に怯えることもなく、男は不敵な笑みを返してきた。
* * *
「なんだ、これ……」
レミーは掘り出したものを空へかざし、興味深く眺めていた。
測量士たちが作業していたと思しき周辺には土を掘られた跡が点在していた。そのひとつを掘り返してみると、握りこぶしほどの真紅の石が現れたのだ。
彼は無知だったという他にない。それが火の力を秘めた魔力石だと気付けなかった。
石の美しさに目を奪われたレミーは、背後へ忍び寄る気配までも見過ごしていた。
鋭い一閃が、レミーの首をはねる。
火の魔力石が転がり、遺体から溢れた赤と混ざり合う。
どこまでも深く、どこまでも暗い赤の海。
それは、これから起こるであろう惨劇を予感させる、はじまりの赤だった。
* * *
「では、このサーカスを依頼した出資者の身元は誰も知らないということかい?」
「座長なら知っているかもしれないよ。公演が終わった後で訪ねてみたら?」
「ふむ」
ナルシスは見上げるほどに巨大なテントの入口から離れ、腕組みをして夜空を仰いだ。
こうして聞き込みに来たものの、新たに得られた情報はない。彼が気にしているのは、こんな田舎町で公演をすることに何の得があるのかということだった。
テントの中からは歓声や拍手が漏れてくる。大人も子どもも一体となり、夢のような時間を楽しんでいるのは明らかだ。
娯楽を提供したいという出資者の心意気は買うが、そこには何らかの意図があるはずだと考えていた。街人、もしくは街長に恩を売ることで、どんな利益があるというのか。
「最悪の事態にならなければいいが」
危惧するのは、リュシアンの言っていた通り、街人をひとつ所に集めること。全員の命と天秤にかけられては手も足も出ない。
「ん?」
ナルシスの目に留まったのはひとつの光体。
夜空を切り裂いて迫ってきたそれは、次第に勢いを失って宙へ留まった。
小さな太陽を思わせる光体は数分程度で消えてしまうが、確かな存在感を放っている。
「リュシアン=バティストからの合図か?」
ナルシスが首を傾げたことを合図としたように、背後で悪意が膨らんだ。
黒い衝動が迸り、すべてを飲み込もうと荒れ狂う。荒ぶる力の本流は、迷うことなくサーカスのテントへ押し寄せた。
白い閃光。黒い爆発。紅蓮の炎。
荒ぶる力に吹き飛ばされたナルシスは、地面を無様に転がった。
テントが崩れ、誰のものともわからない悲鳴がナルシスの下へ届く。それはまるで、彼すらも引きずり込もうとする亡者の声のよう。
誰ひとり逃がさないとでもいうように、テントは激しく燃え上がる。
立ち上る炎は怒りの深さを知らしめるように、高く天を突いていた。
* * *
突然の轟音を耳にして、セリーヌは屋外へ飛び出していた。街の西手から上がる炎を目にして、言いようのない胸騒ぎに襲われる。
「セリーヌさん、何だったの?」
「どうやら火事のようです。お母様は中にいてください。私は様子を見てきます」
「火事? そういえば、サーカス団が来ていると聞いていたんですよ。お父さんを誘ったら行かないと言われて、忘れていました」
「サーカス団ですか。あれだけの事故では相当な被害が出ているはずです。私の魔法が役立てば良いのですが」
マリーがいないことを悔やみ、セリーヌは苦い顔を見せた。
治癒魔法においては、マリーの方が優れているのは明らかだった。こういった緊急事態にこそ真価を発揮するのは間違いない。
「知らない街の夜道をひとりで歩かせるわけにはいきません。私も行きます」
「火事なら男手も必要だろう。俺も行こう」
奥からのそのそと現れたガエルを見て、セリーヌは黙って頷いた。
「助かります。人出が多いに越したことはありません。よろしくお願い致します」
緊張した面持ちのセリーヌは、改めて燃え盛る炎に目を向けた。
* * *
「くそっ」
息の絶えた遺体を見下ろした俺は、胸の中にわだかまる苛立ちを吐き捨てた。
結局、なにひとつ情報を得ることができなかった。だが、モニクとは異なる勢力が動いていると思って間違いない。
短剣に付いた血を相手のズボンで拭う。それを鞘へ収めた直後、大きな破砕音が轟いた。
あれはまさしく、信号弾が飛んだ方向だ。
「サーカスが本命だったか」
それは、駆け出してすぐに起こった。
耳から空気が抜けるような感覚に襲われた。誰かが拡声魔法を使ったに違いない。
『皆さん、お騒がせしてごめんなさい。死に損なった人もいるみたいね。それから、サーカスを見に行かなかった愚か者も。大丈夫、みんなすぐに後を追わせてあげるから。それもこれも、全部リュシアン=バティストのせいなの。恨むなら、彼を恨んでちょうだいね』
「やっぱりてめぇが黒幕か」
モニクの顔を思い浮かべて空を仰ぐ。
途端、周囲で紅蓮の炎が弾けた。全身が熱にさらされ、弾かれるように地面を転がった。





