09 ふたつの鼓動が疼くとき
「街の中はオリヴィエの香りで満たされていましたが、海まで来ると違いますね。潮風がとても心地いいです」
大海原を眺めるセリーヌは開放感に身を委ね、両手を広げて空を仰いだ。その姿は、大自然の祝福を全身で受け止める女神のようだ。
「がう、がうっ!」
ラグも喜びを浮かべて飛び回っている。
「この辺りは一年を通じて穏やかな気候だからな。アンナが出身の南方は熱帯地だし、ナルシスが出身の北方は寒冷地だ。泳ぐにはもってこいの地域で良かったな」
「リュシアンさん、早く泳ぎましょう!」
セリーヌは居ても立ってもいられないという興奮状態だ。純白の長衣は既に丸められ、彼女の腕の中へ収まっている。
「今日はやけに積極的だな。いつもは一歩引いたような冷静さがあるのに」
「時間は有限であり、今日という日は一度しかありません。今この時が最高の想い出となるよう、心へ焼き付けておきたいのです」
「なんだか、今にも消えそうな物言いだな」
冗談のつもりで口にした途端、セリーヌの顔から笑みが失われてしまった。
物悲しさと憂いをまとった横顔を見せられ、胸の奥が締め付けられるように苦しい。悲しみの理由はなんだというのか。
「そうですね。ある意味、消えたも同然の存在となってしまうのかもしれません」
「故郷で何があった? 長老から何を言われたんだ」
「これは私の問題ですから」
寂しそうに微笑むセリーヌ。その右手を思わず掴み取っていた。
「昨日の夜、可能性を確かめたいって言ったよな。そのことで、セリーヌの何かを変えることはできないのか?」
彼女の瞳へ、迷いの色が滲んでゆく。
「ないとは言い切れませんが、リュシアンさんにご迷惑がかかるのは目に見えています。であれば、このままふたりでどこかに……」
投げやりともとれる物言いに、苛立ちが込み上げる。セリーヌは故郷と仲間たちを何よりも大事に思っているはずだ。
「故郷と仲間を捨てて、苦悩と後悔でも拾うつもりか? 悲しい生き方だと思わないか。セリーヌのためなら迷惑だなんて思わない。どんな困難だろうと受けて立ってやるよ」
「リュシアンさん……」
「だから、どんなことでも話してくれ。俺はいつだってセリーヌの味方なんだから」
「ありがとうございます。とても心強いです」
「とりあえず、今は全てを忘れて泳いでこい。目一杯楽しんですっきりしたら、ゆっくり話を聞いてやるから」
「一緒に泳いでくださらないのですか?」
「あのな……俺たちはモニクを探しに来たんだろうが。いつどこで接触してくるかもわからねぇ。それこそ、泳いでいる間に襲われでもしたら、ひとたまりもねぇだろうが」
「そうですか……」
しおらしい姿を見せられると、たまらなく愛おしくなってしまう。
「こんな状況でなけりゃ、一緒に楽しみたいに決まってるだろうが。水着姿のセリーヌを拝めるのは俺だけの特権なんだ」
「いえ、あの……そこまでの期待をされては」
「なんでもいいから泳いでこい」
近くの岩場へセリーヌを手引き、装備を含む荷物一式を下ろした。
俺もボトム型のパンツを購入している。日光浴をして、せめてもの気分を味わうためだ。
俺が冒険服を脱ぎ終わる瞬間に合わせたように、岩陰から水着姿のセリーヌが現れた。
「お……おぉ……」
絶句だ。言葉が出てこない。
赤らめた顔をうつむかせた黒の小悪魔が、見事な肢体を惜しげもなく晒して立っている。
「いかがですか? 自分で言っておきながら、とても恥ずかしいのですが……」
「最高……最高だ」
やっぱり、黒にして良かった。
嬉し涙が滲む。幸せの絶頂を噛み締めていると、周囲の目が途端に気になった。
幸い、人気はまばらだ。海岸を散歩する人影はあるものの、遠くに漁船の影が見える程度だ。素潜りで魚介を取る海女さんもいるはずだが、彼女たちの採取場所はもっと遠方だ。
「では、ひと泳ぎしてきますね」
貴重品を収めた麻袋を預かり、人魚と化したセリーヌの泳ぎを食い入るように眺めた。
この海岸も兄と良く来た場所だ。海水浴はもちろん、釣りを楽しんだこともある。
過去と現在が混ざり合ってゆく。想い出の場所へセリーヌが溶け込んでいることが嬉しくてたまらない。縁とは不思議なものだ。
マルティサン島というのがどんな場所かはわからないが、竜伝説を追っていた兄がこの状況を知ったらどんな顔をするだろうか。
どれだけ物思いにふけっていたのかはわからない。気付くと、こちらに向かって手招きしているセリーヌの姿があった。
「がう、がうっ!」
ラグが注意を促してくる。海へ飛び込み彼女へ近付くと、しきりに周囲を見回していた。
「どうした?」
「実は……上着が流されてしまったのです」
「は!?」
思わず胸元へ目を向けてしまったが、確かに肩紐すら見えない。セリーヌの両腕は胸を隠すように組み合わされている。
「確か、大きさが合わないとか言ってたよな」
「はい。無理やり着ていたのがいけなかったのだと思います……」
「上がろう。岩陰で着替えた方がいい」
「せっかく買って頂いたのにすみません」
「いいって。また買い直せば済む話だ。これはこれで思い出深い出来事だろ」
「そうですね」
笑みを取り戻したセリーヌと共に岩場まで戻ってきた時だ。
「リュシアンさんの後ろへ隠れさせてください。衣服の所までお願いします」
「おう。任せろ」
護衛のようで、妙な使命感に緊張してしまう。後ろを見ないように岩場へ登ると、背中へセリーヌの両肘がぶつかる感触があった。
ぎこちない動きで岩場を進んでいると、すぐ後ろでセリーヌの小さな悲鳴が上がった。
振り返る間もなく、重みが伸し掛かる。人肌の温もりと共に、とても柔らかくて弾力のあるものが背中へ押し付けられていた。
この感触はまさか。
「はわわわ……すみません」
「大丈夫か?」
「岩場で足を捻ってしまったようです」
「服の所までおぶってやる。着替えたら、癒やしの魔法ですぐに手当てしろ」
「すみません。ありがとうございます」
平静を保ちながらも、心の中は穏やかじゃない。心拍数は跳ね上がり、セリーヌにも聞こえているのではないかと疑ってしまう。
すると、耳元で彼女の笑い声がした。
「リュシアンさんの鼓動が早鐘のように響いています。私の音も聞こえていますか?」
首へ両腕が回され、セリーヌの体が更に密着してきた。高まったふたつの鼓動が、息を合わせるように激しく疼いている。
「リュシアンさんを想うと、胸の奥が苦しいのです。この想いを止めることができません……竜眼の力は失いましたが、あの力があれば忘れることができたのでしょうか」
「力を失った? だとしても、忘れる必要なんてないだろ。この気持ちは本物だ。もう、絶対に離したくないんだ」
足下の岩場を眺めて思う。
どんなに困難な道のりだろうと、ふたりで乗り越えてみせる。





