03 秘密の特訓場
「なんだろうか。潮の香りに混じって、甘い香りがしてきた気がするね」
髪を掻き上げたナルシスが、不思議そうな顔で周囲を見渡す。それを眺める俺は当然、香りの正体を知っている。
「この辺りにはオリヴィエの樹が群生してるんだ。匂い袋にも良く使われるから、普段から馴染みのある香りだろ? 俺にとってのオリヴィエは、花の香りっていうより、故郷の香りっていう印象が強いんだ」
「リュシアン=バティスト。君は御手洗いへ行く度に故郷を思い出すというわけだね」
「変な喩えはやめろ。余計なことを言って、故郷の思い出を汚すんじゃねぇ」
面白がっているナルシスを、今すぐ竜の背から蹴落としたくなってきた。
そもそも、どうしてこんな男を連れてきてしまったのか。セリーヌが一緒に来てくれると決まった時点で、神器回収組へ押し付けるべきだった。まぁ、コームさんとマリーに反対されるのは目に見えていたが。
「ナルシス。おまえはもう、風竜王の背中に乗ったまま引き返せ」
「はっはっは。ここまで来て、それは無理な話だよ。君の家で、あることないことを言いふらし、とことん困らせてやろうじゃないか」
「それを人は、嫌がらせって呼ぶんだぞ」
「こんな機会はそうそう巡ってくるものじゃないからね。いつもからかわれている屈辱を、何倍にもして返してあげようじゃないか」
「心の狭い男だな……」
「君に言われたくはない!」
喚くナルシスを無視して、隣で大人しく話を聞いているセリーヌへ目を向けた。
「どうした?」
何気なく声を掛けたのだが、彼女は微笑を浮かべていた。その顔からは、俺たちのやり取りを心底楽しんでいる様子が伺える。
「なんだか、おふたりとの時間が心地良くて……ここのところ常に気を張っていたので、心の休まる暇がなかったのです」
「きゅうぅん……」
寂しそうに微笑むセリーヌを見て、俺の左肩に乗っていたラグが悲しげに鳴いた。
「辛かったら遠慮なく言えよ。そうじゃないと馬鹿ナルシスも存在意義がないからな。こいつの話でセリーヌの気が休まるなら、飽きるまで喋り続けてもらえばいい」
「こら。僕を何だと思っているんだ」
「おまえが活躍できる場を提供してやろうっていう、俺の優しさがわからないのか?」
「なるほど、そういうことか……なんて、僕が納得するとでも思っているのかい」
不満を口にするナルシスに笑っていると、飛行を続けていた風竜王が徐々に減速を始めたのがわかった。
『街へ近付きすぎるのも危険だ。適当な場所で降ろします。そこからは徒歩でゆきなさい』
思念で語りかけてきた風竜王は、フォールの街から歩いて二十分程度の位置にある、林の中へ降り立った。
緩く傾斜した背を滑り降りて着地する。これはこれで楽しい遊具になると思いながら、後へ続くであろう仲間たちを振り返った。
「はわわわっ!」
なぜかすぐ後ろで声がした。避ける余裕もなく、大きな影が覆いかぶさってくる。
ひっくり返った拍子に、後頭部を強打した。それだけならまだしも、顔全体を謎の重さで圧迫されて呼吸ができない。
苦しい。空気が欲しい。
どいてくれと言ったつもりが言葉にならず、くぐもった呻きが顔を震わせて消えてゆく。
「いけません……お願いですから声を上げないでください。体に力が入りません……」
思った通り、ぶつかってきたのはセリーヌだ。俺は柔らかな谷間へ顔を埋めながら、人肌の温もりに包まれていた。これを堪能したいのはやまやまだが、挟まれて窒息などという情けない最後を迎えるつもりはない。
セリーヌの体を抱いて横転。体の位置を入れ替えることでようやく脱出に成功した。
彼女は顔を赤らめ、着崩れた法衣の胸元を慌てて隠した。そんな彼女から目を逸らすと、側にはナルシスの姿があった。
「どうしたらそんな状況になるんだい?」
「まぁ、あれだ……運命の力?」
自分でもわからない返答をつぶやき、セリーヌを助け起こした。ラグは俺の肩に留まったまま、舌を出して笑っている。
「リュシアンさん、すみませんでした」
「気にするな。こんな珍事なら大歓迎だ」
そうして俺たちは、薄緑の鱗に覆われた風竜王の巨体を改めて見上げた。
「風竜王、ありがとうございました。あなたがいなければ間に合わないところでした」
『礼には及ばない。途中で面白いものを見つけることもできた。神器の回収が順調に終われば、皆を連れて迎えに来ます』
「面白いもの?」
俺の問いには答えず、風竜王はそのまま飛び去った。それを見送り、改めて一息ついた。
「風竜王の言っていた通り、ここからは慎重に行こう。魔導師のモニクは、フォールに着いてる可能性がある。何かを仕掛けてきてもおかしくねぇ。両親や街のみんなが心配だ」
即座に頷いたのはセリーヌだ。
「そうですね。エドモンさんを盾にして、揺さぶりをかけてくることも考えられます」
「街の人も仲間も全てが人質……リュシアン=バティスト。君には辛い戦いになるな」
びゅんびゅん丸の手綱を引いて歩くナルシス。その言葉にため息が漏れた。
「有名になるっていうのも考えものだな。力を手に入れた代償に、新たな危機を呼び込んじまうんだからな……」
歩みを進めながらも、天から優しく降り注ぐ木漏れ日に目を向けていた。
こうしていると、過去に戻ったような錯覚がする。すぐそばで、剣を持った兄貴が立っているような気がしてしまう。
『なんだ、もう疲れたのか。剣の腕を磨く前に、体力を付けるのが先じゃないのか?』
からかうような口調で笑う兄貴。あの何気ない日常を必ず取り戻したい。
「ここから見る景色は、あの頃と何も変わっちゃいない。ここには兄貴と良く来たんだよ。兄貴が冒険者になる前も、なった後も、街の人たちに隠れて剣の修業をする時はいつもここだったんだ」
「秘密の特訓場というわけだね」
「まぁ、そんなもんだ。魔獣も生息する場所だけど、そこまで凶暴なやつはいなくてさ。兄貴に稽古をつけてもらった後は魔獣相手に実践訓練をしたもんさ」
「お兄様は頻繁に戻られていたのですか?」
「いや。年に二、三回くらいだったな。だから余計にかまって欲しくてさ。土産をねだったり、冒険譚を聞かせてもらったり。みんなからは聖人だなんて言われてたから、兄貴は憧れだったし、自慢だったんだ」
昔話をしている間に林を抜け、すんなりと街の入口へ辿り着いていた。
フォールは人口千五百人ほどの小規模な街だ。大抵の住民が顔見知り。門番をしているふたりの衛兵も同様だ。
「もしかして、リュシアンか?」
ひとりが驚きを顕にして俺を見ている。
「二年近くもどうしてたんだよ!? 親父さんからは鍛冶の修業に出したなんて聞いてたけど、冒険者になったのか!?」
「色々あってな。それより、ここ数日に三人組の冒険者が来なかったか? 青緑の法衣を着た女魔導師と、黒い全身鎧の戦士、それから朱色の法衣を着た小太りの男魔導師だ」
「知らん」
門番のひとりは素っ気ない口調で答えた。今日も変わらぬ日常が続いているらしい。





