26 神竜ガルディアの言葉
目の前にいるのは、三階建の住宅よりも巨大な竜だ。は虫類のようなざらついた皮膚には、いぶし銀の色をした鱗。そして背中には一対の大きな翼がある。
こちらへ向けられたトカゲのような顔。黄金色に輝く眼球には縦長の瞳孔を持ち、じっと見据えられている。
あの時はわからなかったが、今ならわかる。この竜こそ、ラグの本体。セルジオンやプロスクレが神竜と呼ぶ、ガルディアだ。
『我の意識が途絶える前に……汝へ、力の一部を授ける……』
あの日の記憶が蘇る。こうして俺は右手の甲へ痣を刻まれ、竜の力を授かった。
『邪悪な三つ首の魔獣を討て……そして、幻の島マルティサンへ赴き、我を訪ねよ……』
今度こそ、その言葉がはっきり再現された。プロスクレから聞かされたマルティサン島という言葉が引き金になったのは間違いない。
そして、目の前にいたはずの竜の姿は、闇へ溶けるように薄らいでゆく。
「待ってくれ!」
必死に伸ばした右手が竜へ届くことはない。俺が求める真実は、どこまで行けば、いつになれば手に入るのか。
「ひゃうぅっ!」
真実は掴めなかったが、無我夢中で伸ばした手が、何か柔らかなものを掴んだ。
寝ぼけながら指先を動かすと、沈み込むような柔らかさと共に、確かな弾力を感じる。
「はわわわ……」
すぐ側で慌てたような声が聞こえたが、今の俺にはどうでもいいことだ。
それにしてもこれは何だ。手の平に収まりきらない柔らかな物体は、触れているだけで妙な心地良さと安心感がある。まるで子どもに戻ったように、心が穏やかになってゆく。
「女神様!? どうされ……」
別の声が聞こえたと思った矢先、左頬を強烈な衝撃が襲った。同時に大きな耳鳴りがして、即座に上半身を起こした。
「いってぇ……」
「この変態! 何をしてるのよ!?」
痛む頬を擦っていると、怒声が耳をつんざいた。どうやら声の主はマリーだ。
「は? なにって……」
マリーは胸の前で両手を組み、憤怒の表情で感情を顕にしている。そんな彼女の後ろに隠れ、セリーヌが乱れた法衣を整えているのがわかった。
「え? もしかして、俺……」
右手へ視線を下ろした途端、セリーヌが遠慮がちにマリーへ呼び掛けた。
「誤解です。私が様子を伺いに来た時には、リュシアンさんは眠っていらっしゃいました。寝ぼけて伸ばされた手が、偶然胸にぶつかって」
「女神様はこの男に甘すぎです! 偶然にぶつかって? しっかり掴んでいたのを確かに見ました。こんな変態の手など、コームさんにお願いして即刻斬り落とすべきです!」
「マリーさん、落ち着いてください」
「女神様こそしっかりしてください。こんな男を野放しにしては、世界中の女性が不安に怯える日々を過ごすことになります」
「ちょっと待て。話の規模がとんでもねぇことになってるだろうが……うっかり胸を触っただけで、俺は腕を斬られるのか?」
すると、勝ち誇ったような目を向けられた。
「ほら。この男、自らの罪を認めましたよ。触ったという自覚があるんです」
「自覚じゃねぇ。気が付いただけだろうが」
尚も難癖をつけてくるマリーを無視して、周囲を見渡してみた。
どうやら俺は、馬車の荷台に寝かされていたようだ。枕代わりに丸められた外套の側で、ラグが舌を出して笑っている。
笑っていないで助けてくれと言いたいが、相棒に何を言っても無駄だろう。
「ちょっと、聞いてるの?」
「言いたいことはわかった。俺が全て悪かったよ。寝ぼけていたとはいえ、触ったことは認める。でもな、セリーヌに怒られるならともかく、おまえに言われる筋合いはねぇ」
「なんですって!?」
「大声で喚くな。頭に響くんだよ。聖女様はもっと大きな心を持たないとダメだろ」
すると、マリーの顔が見る間に赤くなる。
「誰の胸が小さいですって!?」
「おまえの耳は飾りか!?」
「この法衣がゆったりしてるだけだから。どうせ女神様には負けるけど、私だって脱いだら出るところは出てるんだからね。なんだったら、シャルロットさんに聞いてみなさいよ」
さすがに降参だ。セリーヌもだが、またもや話の通じない相手が現れるとは。
逃げるように馬車の荷台から飛び出すと、そこは見知らぬ林の中。日没前の柔らかな夕日が、車座に集う仲間たちを照らしていた。
レオン、ナルシス、コーム。そして大木には、びゅんびゅん丸が繋がれている。
剣の柄に手を掛けたコームさんから、射殺すような視線を向けられている。それをやり過ごし、あえて気付かぬ振りをした。
「あれ?」
気付けば、ルネの姿がある。風の球体に包まれ、無事に保護されたということか。
呆気に取られていると、大木に寄りかかったレオンが疲れ切った顔を向けてきた。
「ようやくお目覚めか。あんたが起きるのをずっと待ってたんだけど」
「そうだったのか。悪い……でも、俺たちは一体どうなったんだ?」
「どこから話したらいいのか……」
俺が眠っている間、レオンとコームは、一緒に運ばれてきたロランとオラースの遺体を埋葬してくれたそうだ。その間にナルシスが街へ向かい、俺が先程まで横になっていた馬車を借り受けてきてくれたのだという。
「おおよその流れはわかった。で、俺たちを運んでくれた、あの力の主はどうしたんだ? プロスクレがどうなったのかを知りたい。それに、ブリュス=キュリテールはまだ生きてる。なんとかしないと」
「それなら心配ありません。今の所はね」
「は?」
思わず間抜けな声が漏れていた。俺は人形のように硬直したまま、声の主を見た。
「まぁ、当然の反応か」
レオンは全てを受け入れたような涼しい顔をしているが、理解することを諦めているような雰囲気が漂っている。ナルシスとマリーも困惑を顔に貼り付け、セリーヌとコームだけがある程度の状況を察しているようだ。
「あなたが起きてから話すって、何も教えてくれないんだから。こっちも困ってたのよ」
マリーはすねたように唇を尖らせ、車座の中心へ座っているルネの後ろに立った。
「私なんて、一緒にお風呂に入って、同じベッドで寝ていたっていうのに……本当に信じられない……消えたい気分よ」
「すみません。人間の姿でいる方が、何かと都合が良かったので。しかも、子どもの姿なら尚更油断してくれますから。ですが安心してください。人間には欲情しません」
「そういう問題じゃないの!」
両手で顔を覆ったマリーの姿がおかしくて、思わず吹き出してしまった。
「笑ってるんじゃないわよ!」
マリーが叫んだ直後、俺の隣にいたセリーヌが、ルネへ恭しく頭を垂れた。
「風竜王、テオファヌ様ですね? 貴方様が、なぜこのような場所に?」
「風竜王!?」
俺が言葉に詰まった途端、ルネはセリーヌの顔を真っ直ぐ見つめ返した。
「守り人よ、ここからの会話は……彼等を受け入れると思って良いのですか?」
少女の目と視線が交わった。





