01 蜘蛛に囚われた森
「蜘蛛に囚われた森……実際に見ると、ここで間違いないって気がしてきたな」
「がうっ!」
左肩の上で、ラグが短く吠えた。
ランクールで耳にした、終末の担い手と名乗った男の嘲笑が脳裏を掠める。
『次はもっと面白い物をご覧に入れよう。蜘蛛に囚われた森。そこを探してみることだ』
不快な声の記憶に、舌打ちが漏れた。
いま立っているのは、大森林を一望できる小高い丘だ。近くには衛兵たちの見張り小屋があり、無謀な侵入者を止めているらしい。
風に揺れる樹海の広がりは、牧歌的というより不穏だ。息を潜めた何かが潜んでいる気配さえある。
胸ポケットから羊皮紙を取り出した。
蜘蛛の巣のように、中心から外側へ広がる六角形の道が描かれている。このムスティア大森林の測量図だ。
『蜘蛛? あの森のことですかね?』
シャルロットが冒険者ギルドで用意してくれたこの地図を初めて見た瞬間、胸の奥がざわついた。
距離、規模、構造。男の言っていた“蜘蛛に囚われた森”という言葉と妙に符合する。
偶然にしてはできすぎだ。
今回の依頼も兼ねているし、確かめてみる価値は十分にある。
見渡す限りの大森林は、古代の名残を色濃く残す神秘の領域だ。ヴァルネットの街から馬車で三時間ほどの場所にある。
凶悪な魔獣も徘徊する危険地帯だ。測量が進んでいるのは外周の一部のみで、中心部は影のように空白のままになっている。
「まずは、ルノーさんを探すのが最優先か」
気を引き締め、六つある入口のうち最寄りの道へ向かった。
※ ※ ※
「どこにいるんだ」
木々が鬱蒼と茂る薄暗い森。膝まで伸びる下草のせいで、歩みが思うように進まない。
探しているルノーさんも六十歳を越える高齢だ。それほど無茶をするとは考えにくい。
「夜になる前に森を出ないと危険だな」
女将のイザベルさんが話してくれたのは今朝だった。
ヴァルネットでそれなりに名の知れた老人、ルノーさん。昨日、森へ入ったまま戻らないという。
奥さんは衛兵に捜索を頼んだが、イザベルさんは彼らに任せておけないと、俺の力を見込んで声をかけてきたというわけだ。
「で、ギルドの情報は……」
地図とは別に渡された羊皮紙を確認する。
大森林で手配されている討伐依頼は十件。そのうち五件は他者が受注済みだ。偶然の遭遇による依頼達成でも報酬は出るが、余計な戦闘は避けたい。
何より気になるのは、討伐ではなく探索依頼だ。
ここ半年ほど、大森林関連の依頼を受けた冒険者の消息不明が続いているという。
ルノーさんも巻き込まれていなければいいのだが。
「ラグ。おまえに謎の距離制限がなけりゃ、空から探してもらえるんだけどな」
「きゅぅぅん……」
「あ、落ち込むなって」
うなだれる相棒に苦笑しつつ、リュックから水筒を取り出す。
中身は、イザベルさん特製の栄養ドリンクだ。
「やっぱり普通の水にしときゃよかった……弁当まで持たされるなんて、行楽かよ」
そうして、森の外周を歩くこと一時間。
「ひいぃぃっ!」
情けない男の叫び声が聞こえてきた。
ルノーさんの声にしては若い。だが、悲鳴を聞けば放っておけない。
「どこぞの冒険者か?」
腰の剣を抜き、声のした方向へ駆ける。
木々の間に広がっていたのは、魔獣アレニエに囲まれる三人の衛兵だった。
鎧の紋章を見る限り、ルノーさんを捜索するために森へ入った部隊だろう。
「アレニエ……」
一抱えはある深緑の蜘蛛型魔獣。木から木へ糸一本で飛び移り、鋭い牙から神経毒を流し込む厄介な相手だ。
すでにひとりが毒に倒れ、痙攣している。毒が抜けるには半日はかかるはずだ。
「敵は直線的にしか動けねぇ。目を離すな!」
振り子のように襲いかかる魔獣を、碧色の刃で次々と薙ぎ払う。
毒さえ気を付ければ、相手としてはランクD相当。ナルシスにちょうどいいくらいだ。
ふと苦笑が漏れる。
どうして、あんな奴を思い出してしまったのだろう。
狼型魔獣ルーヴの討伐から二ヶ月。
あの二人は元気にしているだろうか。
ランクールのオジエ一家を訪ねたのは一ヶ月前だ。
セリーヌの寄付のおかげでもあり、暮らしは落ち着いたようだった。特に喜んだのは、十歳の長男エリクだ。
『おっぱいの大きいお姉ちゃんが来た!』
はしゃぎ回り、セリーヌを赤面させたのは今でも忘れられない。
「うらあっ!」
横から襲い来るアレニエを斬り裂くと、碧色の軌跡が虚空に散った。
地面には十五体ほどの死骸。動きが止んだところを見ると、大方片付いたらしい。
「怪我はないか?」
前方で息をつく若い衛兵へ声をかけた瞬間、彼の頭上から影が落ちた。
「上だ!」
この距離では間に合わない。
舌打ちが漏れたとき、黄金色に輝くものが視界に飛び込んだ。
一本の矢が木々の合間をすり抜けて飛来し、アレニエの頭部を射抜いた。
魔力の矢は霧散し、魔獣が痙攣している。
俺はとどめを刺そうと剣を構えた。
「ふんぬうっ!」
横から巨大な戦鎚が振り下ろされ、アレニエは体液を撒き散らして潰れた。
「潰れてしまえ! 馬鹿タヌキめ!」
鎚を振るっていた大男は、狂気じみた笑みで死骸をさらに叩き潰す。
角刈りの短髪、角ばった顔、小さな目に鷲鼻。鎧がはち切れそうなほどの体格。
男の凶行に引いてしまうが、噂は何度か聞いている。
「兵長、もう大丈夫ですから」
先程助けた十代後半ほどの若い衛兵が止めに入るが、大男は聞かない。
「いつものことだ。気が済むまでやらせてやれ。兵長も鬱憤が溜まってるんだよ」
もうひとりの中堅衛兵は呆れ顔で見ている。
「でも、タヌキというのは何ですか?」
「俺たちを仕切るダミアン長官っているだろ? あの人のあだ名。兵長は何かと目の敵にされて、いびられてるんだよ。で、魔獣相手に発散してるわけよ」
これが、ヴァルネット衛兵長のシモン・アングラードか。
話に聞く以上に危険な男だ。
「あなたのおかげで助かりました」
呆れ顔をしていた中堅衛兵が頭を下げてきた。衛兵という相手には苦手意識があったが、彼は礼儀正しい部類の人だ。
「じゃあ、俺はこれで」
「待て!」
シモンの野太い声が飛んできた。
「貴様……碧色に輝く刀身……リュシアン・バティストだな?」
ああ、面倒な奴に気付かれた。
「え!? あの、碧色の閃光!?」
「冒険者ごときに色めき立つな」
若い衛兵が目を丸くしたが、シモンに小突かれ黙り込む。
「矢を撃ったのも貴様か?」
「俺が弓を持ってるように見えます?」
おどけたように両手を広げて見せると、背後から物音がした。
「矢を撃ったの、アンナだから!」
「は?」
枝葉を押し分け、木の上から人影が現れる。
それは、小動物のように軽やかな動きの少女だった。
「なんでおまえが!?」
再会の喜びよりも、声が裏返るほど驚いた。
「それはこっちのセリフだよ。まさか、リュー兄がこんな所にいるなんてさ」
かつて共に旅をしたアンナ。彼女は猫のような目を細め、ぷくっと頬を膨らませた。





