19 心を流れる血の涙
「アンナ、どうやってここに来たんだ。脚は大丈夫なのか?」
「うん、いつの間にか治ってたの。そのまま間違えて娼館に行っちゃってね。マリーちゃんはレン君が助けて、カンタンもドミニクのおじさんが捕まえたよ。こっちに来るって言ってたけど、どういうこと?」
アンナの回復は謎だが、作戦は成功したようだ。安堵の息を吐いた俺は、白い歯を見せて笑うアンナへ微笑み返した。
だが、それも一瞬のこと。彼女は今までに見たことのない険しい表情へ変貌し、倒れたクリストフを睨み下ろしたのだ。
「二度と会いたくないと思ってたのに……」
アンナが手にした双剣、天双翼。その刃先から、傭兵の血が滴り続けている。それはまるで、アンナの心から流れる血の涙にも思えた。
「傭兵団に拾われて、身寄りのないアンナを引き取ってくれたことだけは感謝してる。でもね、そこからの辱めだらけの日々は今でも絶対に忘れられないんだよ。ううん。シル姉の方が、もっとずっと、何倍も苦しんでる」
床へ転がる細身剣を払い除け、上半身を起こしたクリストフへ詰め寄るアンナ。その背中には怒りが形となって見える気がした。
「シル姉を弄んだあんたたちを、アンナは絶対に許さない。本当はこの役目だってシル姉がやるべきだったのに……あんたたちがまた、変な薬を使ったせいで!」
左手に持った双剣の片割れ。それが、クリストフの右手を床へ貼り付けにした。
苦しみに呻く執事の声。アンナはその光景を冷めた目で眺める。
「この程度じゃ生温いよ。アンナたちは使用人っていう奴隷生活を、何年も何年も送らされたんだよ。あんたたちは玩具を扱うみたいに、壊しては取り替え、壊しては取り替え。楽しかった? どんな気分だった?」
クリストフは双剣の腹で頬を叩かれると、怯えた顔で口を開いた。
「私だって良い気はしなかったさ。ただ、エミリアン様の手前、従う他になかった」
その口内へ、アンナは剣先を差し込む。勢いよく払われた一閃が、執事の左頬を裂いた。
悲鳴を上げ、頬を抑えるクリストフ。その左手が、自らの血で真っ赤に染まってゆく。
「よく言うよねぇ。シル姉とアンナはおじさんたちから逃げて、力を手に入れた。もう誰からも脅かされない力を。これを、困っている人のために使おうって決めたのに……なのに、おじさんたちがまた邪魔してくるから」
「許してください。もう二度と邪魔しません! あなたたちの目が届かない所で大人しくします。女神ラヴィーヌに誓います!」
「う〜ん……ダメだね」
アンナは悪意に満ちた笑みを見せた。しかし彼女をここまで追い込んだのは、間違いなく目の前のクズどもだ。
「アンナ、おまえはそこまででいい」
俺は魔法剣を手にして立ち上がった。彼女の想いはすべて引き受けよう。アンナにまでこれ以上の重荷を背負わせるのは酷だ。
いつも明るく朗らかで、甘い物に目がないアンナ。そんな彼女をここまで豹変させてしまったこいつらを絶対に許せない。
「リュー兄は黙って。これは、シル姉とアンナがやらなきゃダメなんだから」
それはまさに鬼気迫る様相。怒りと復讐に囚われた、小柄な悪魔のように思えた。
アンナは左手の剣を引き抜くと、エミリアンの部屋に続く扉を顎で示した。
「開けて。御主人様に、その姿を見せてやりなよ。シル姉が無事なら見逃してあげる。もしも何かされていたら、その時は覚悟してね」
冷徹な視線と作られた微笑。アンナは腰に提げた鞘へ双剣を収めた。それと入れ替えに、背中から外した魔導弓を素早く突き付ける。
「ほら、早くして。じゃないと、おじさんの頭に矢が突き刺さることになるよ」
「ひいっ!」
クリストフは逃げるように扉へしがみついた。真っ赤な手形が、彼の存在を証明するようにそこへ残されている。
俺たちは黙ってその後を追った。悪党とはいえ、弱りきった相手を追い詰めるやり方は気分の良いものじゃない。だが、こうする以外に方法がないこともわかっている。
「御主人様!」
当のエミリアンは入口に背を向け、三人は余裕で寝られる大型ベッドに腰掛けていた。側に置かれた木製テーブルには杖が掛けられ、ワインの瓶と銀製のグラスが置かれている。
向かいの壁際には、全裸で立たされている十人の奴隷女性。ここで呑気に酒を飲み、彼女たちの品定めをしていたのだろう。
だが、肝心のシルヴィさんの姿が見えない。横手の部屋から明かりが漏れているが、恐らく浴室と見て間違いない。
「なんだ騒々しい。私が良いと言うまで入って来るなと言ってあるだろう」
鬱陶しそうな反応のエミリアンだったが、血まみれのクリストフと俺たちを見た瞬間、その表情が恐怖で凍り付くのがわかった。
部屋の奥にいた奴隷の女性たちも、クリストフの姿に恐慌の悲鳴を上げている。
俺は彼等を眺め、ベッドへ剣を突き立てた。
「よう、エミリアン。待たせたな」
軽く挨拶をした途端、初老の男はベッドを転げ落ちてしまった。テーブルが倒れ、零れたワインが絨毯へ染みを広げてゆく。
「あ〜ぁ、勿体ねぇ……そのワイン、高いんだろ? 最後にじっくり味わっておけよ」
言葉をなくして固まっているエミリアンへ、血まみれの執事がすがりついた。
「御主人様、あの女は……シルヴィ=メローはどうされたんですか!?」
ようやく意識を取り戻したように、エミリアンは苦い顔を見せた。
「どうもこうも、あいつは浴室だ。事の前に身綺麗にしておこうと、奴隷どもに体の隅々まで洗わせているところだ」
「まだ何もしていないということですね!?」
「それがどうしたというんだ。早く離れろ」
汚いものを遠ざけるように、エミリアンは執事を押しのけた。当のクリストフは、すがるような目でアンナを見上げている。
「彼女は無事だ。ということは私も……」
「裸にされたからダメ」
魔導弓から放たれた光の矢。それがクリストフの額を瞬時に貫いていた。
エミリアンと女性たちは再び悲鳴を上げる。俺はこの状況に耐えかね、奥で縮こまっている女性たちに目を向けた。
「あんたたちはもう自由だ。逃げるなり何なり、好きにすればいい」
服を拾い、次々と部屋を飛び出してゆく女性たち。俺はそれに構わず、座り込んだエミリアンを見据えた。
「さてと」
魔法剣を鞘に収め、ゆっくりとエミリアンへ近付いた。目の前で執事の命を奪われ、半ば放心状態になってしまっている。
「あんたとカンタンには色々と動いてもらうことがある。死にたくなけりゃ、大人しく言うことを聞け。わかったな」
「待って。そんなの聞いてない」
抑揚を失ったアンナの声が耳に痛い。
「わかってくれ。俺だって懲らしめてやりたいさ。でも、今はまだその時じゃない」
「こんな奴、生かしておく価値ないよ」
「束の間の苦しみを与えるだけで満足か? おまえとシルヴィさんは、これまでずっと苦しんできた。相応の報いは必要だろ」
「どうするつもりなの?」
「シルヴィさんを連れて来てくれ」
不満そうな声を上げるアンナを浴室へ向かわせる。俺はエミリアンの上着を剥ぐと、それを使って奴の両手を後ろ手に縛り上げた。
程なく、インナーを身に着けたシルヴィさんと、膨れっ面のアンナが戻ってきた。その後ろには、ふたりの奴隷女性が付き添っている。
だが、酩酊薬は相当に強いものらしい。未だに虚ろな目をしたシルヴィさんは、アンナの支えがなければ倒れてしまいそうだ。
「大丈夫ですか?」
床へ座り込んだシルヴィさんの目を覗くと、かろうじて意識を保っている様子が伺えた。
「とにかく無事でよかった……」
嬉しさの余り、咄嗟に彼女を抱きしめていた。すると不意に、体の奥が燃えるように熱くなった。熱は両腕を伝い、手の平を介してシルヴィさんへ流れ込んでゆく。
「リュシー? なんで?」
「気がついたんですか」
体を離して顔を覗く。呆然としているが、それは俺も同じだ。ふたりで顔を見合わせ、魔法をかけられたような感覚を味わっていた。
「もしかして……」
炎竜王以外に考えられない。それを肯定するように、左肩へ止まったラグが鳴いた。
「こんなに傷だらけになって……」
涙ぐむシルヴィさんの顔が近い。彼女の震える両手が、俺の頬をそっと包み込んでいた。
「こんなあたしなんかのために無茶して……本当に馬鹿なんだから。最高の大馬鹿よ」
抗議の言葉は口づけに押さえ込まれていた。感動の再会を味わいたいところだが、ここは敵地のど真ん中。戦いは続いている。
俺は名残惜しさを隠すと、気を取り直してシルヴィさんとアンナを見た。
「積もる話は後だ。ふたりには、エミリアンとの幕引きを頼みたい」
「なんだかよくわからないけど、御主人様の言いつけに従うわね」
シルヴィさんに抱きつかれ、こんな状況だというのに焦りを隠し切れない。でも今は、込み上げてくる涙すら力へ変えよう。彼女たちを忌まわしい過去から解き放つために。





