第五十三話 駄馬
エドラキム帝国東端の街カナレ。
数十年前はボーガベル領であったこの地はさらに西方にあったグルボルカ王国とボーガベルの間で幾度となく争奪戦が行われていた。
だがグルボルカがエドラキムに併合されるとその強大な兵力によりエドラキム領となり長い間その支配が続いている。
そのカナレの端にエドラキム帝国第十軍が駐留する駐屯地がある。
総数三千余名と街の人口の三倍はいるだけに兵舎の規模だけでも街を圧倒する。
当初は不自由な天幕暮らしを強いられていたが、冬の間に兵舎建築は急ピッチで進められた。
その為に相当数の畑を接収し潰すことになったがそれに対し異議を申し立てる農民など帝国には存在しない。
皆諦めきった顔で他の地へと移って行った。
カナレがこの様な激動に見舞われた理由はただ一つ。
弱小の辺境国に過ぎなかったボーガベルが突如として隣国バッフェを併合、一躍大国の座に躍り出たためだ。
帝国領でボーガベルの王都パラスマヤに最も近いカナレは当然最前線となる可能性が高く、要塞化の工事も進められている。
その為、農民の減った穴を埋めるかの如く、いや、それ以上に工事の人足や兵士を当て込んだ即席の娼館や酒場なども増え、カナレはかつて無いほどの盛況を博していた。
帝国軍の工事、しかも火急の物となればおのずと賃金も良くなる。
日が傾くころには工事を終え日当で懐を暖めた人足たちが街へ繰り出し、娼館前では娼婦たちが己が肢体を惜しげもなく晒し彼らを誘う。
ここにいる誰もがこのカナレがボーガベル如きに蹂躙されるとは思っていない。
つい半年前には想像もつかなかった退廃的な空気がカナレに蔓延していた。
そんな喧噪の中、練兵場の片隅で黙々と剣を振るう男がいた。
第十軍を率いる第七皇子レノクロマ・エ・デ・エドラキムである。
長身ながら濃紺の髪に同色の瞳の面差しにはまだ少年のあどけなさが残る。
だが右頬に一本、左頬に二本走っている傷が潜り抜けて来た激闘を物語っていた。
上半身は肌着一枚で、山間部特有のうだるような暑さを物ともせず剣を振るっている。
「レノクロマ様、ここにいらっしゃったのですか」
二十歳は年上の副官、モラルドが声を掛ける。
「セイミアが戻ってきたのか?」
剣を振るう動きを止めずレノクロマはボソリと言った。
「いえ、まだお戻りではありません、そろそろ軍議の時間ですので……」
「ならば任せる」
そう言ってレノクロマはまた素振りを始める。
「分かりました、詳細は後ほど報告いたします」
モラルドは呆れるでも怒るでもなく淡々と言って官舎へ戻って行った。
レノクロマは万事がこれだ。興味があるのは戦闘と、そして参謀として第十軍に参加しているセイミア・エドラキムのみ。後は全く興味を示さない。
そのセイミアがバッフェに行ってもう半年以上になる。
連絡は一切無い。
こんな事は初めてだった。
何時もなら一月に一度は何らかの方法で便りを寄越してきた物だ。
内容は食事はキチンと取っているかなど世話焼きな内容だったが。
その間にバッフェはボーガベルに併合されてしまった。
モシャ商会は引き続き活動しているようだがセイミアの動向は入ってこない。
だがレノクロマには待つ事しかできなかった。
レノクロマとセイミアは多くの皇子王女と同じ、皇帝の血を受けた異母兄弟である。
だがレノクロマはセイミア、そして第一皇子グラセノフと実の兄弟同様に育ってきた。
彼の母カルレアは今のグラセノフ、セイミア兄妹の実家である、ビンゲリア家の侍女をしていた。
兄妹の母である同い年のソルオラ付き侍女として幼少の頃から仕えてきた。
同年代の侍女は即ち遊び相手であるのだが、ソルオラはカルレアを友人として接して来た。
やがて十五歳になったソルオラは後宮入りし、十八歳でグラセノフを出産する。
男子出産の報告に参内したソルオラを一目見た皇帝バロテルヤは即後宮に戻る様に告げた。
一度子を産んだ側室に再び呼び出しが掛かる。
これは極めて異例なことだが、当代きっての美女と謳われたソルオラならば寧ろ当然と言えた。
子供を産んでなおその匂うような肢体は崩れることなく寧ろ円熟味を増し、触れれば弾けるような魅惑を放っている。
だがソルオラも異例の呼び出しに不安の色を隠せなかった。
その様子を見かねたカルレアは後宮への同行を申し出た。
ソルオラはせめて近くで支えたいと訴える親友の気持ちを心強く思い、後宮へ同行させた。
だが、そこで予期せぬことが起きる。
皇帝は参内したソルオラに、その後ろに控えているカルレアも一緒に閨に来るように申しつけた。
ソルオラは戸惑ったが皇帝の命は絶対だ。
そんな彼女にカルレアは、
「貴女の支えになるなら」
そう笑って言った。
皇帝は二人の奉仕を甚く気に入り、二人は度々一緒に呼び出された。
そして二人はほぼ同時に懐妊する。
帝国では懐妊した側妃は家に戻され出産する。
二人は一緒にビンゲリア家に戻ったがその日のうちにカルレアはビンゲリア家から姿を消した。
残された手紙には一言。
『申し訳ありません』
とだけ書いてあった。
当然ソルオラは人を使ってカルレアを捜させたが行方は杳として知れず、分かったのはセイミア誕生後、実に五年後だった。
カルレアは地方の寒村に移り住み、そこで小間仕事をしながら一人でレノクロマを産み、先頃病で死んでいた。
消息が分かったのはカルレアがソルオラに当てた手紙が届いたからだ。
手紙には一言。
『お願いします』
とだけ書いてあった。
直ちにソルオラは孤児院に入れられていたレノクロマを引き取った。
親友の気持ちは痛いほど分かっていたし責任も感じていた。
只の平民出の儚い花のような彼女が皇子の母としての重責に堪えられるはずも無い。
ソルオラは自分の無思慮を責め、親友の願いは必ず守ると誓った。
こうしてレノクロマはビンゲリア家に引き取られグラセノフやセイミア達と分け隔てなく育てられた。
朝、目が覚めたら隣で寝ていた母が冷たくなっていた。
何度も起こしたが返事をしない。
夕方、村の長が様子を見に来るまで、レノクロマは母を起こし続けていた。
そのまま孤児院に引き取られ、他の子供達と同様膝を抱えて泣き暮れる毎日だったレノクロマにある日豪華な馬車に乗ってやって来た美しい女性が言った。
「貴方のお母様との約束を果たしに来ました。今日から貴方は私の家で暮らすのです」
そのまま連れて行かれた豪華な屋敷に二人の兄妹が待っていた。
「君がレノクロマだね? 僕はグラセノフ。今日から君の兄だ」
「私はセイミア。生まれは私の方が少し早いから姉上と呼びなさい」
突如兄と姉と名乗る人物の出現にレノクロマは目を丸くしてコクコクと頷くだけだった。
だがビンゲリア家での生活は今まで暗い灰色にしか映っていなかったレノクロマの世界に彩りを与えてくれた。
十歳になった日にレノクロマは帝国皇学院に入学するもこれには通わず、帝国で「剣王」と名高いドルミスノ・デルギの元に預けられた。
これはソルオラが少なからぬ他の貴族の圧力に屈した訳でも自分の子供達に累が及ぶのを恐れた訳でも無い。
レノクロマの持つ剣の資質の為だった。
ドルミスノに連れられて家を出るときに、目に涙を一杯に溜めたセイミアが、
「貴方の帰るところは私がちゃんと開けておくわ。だから必ず無事に帰ってきなさい」
そう言って頬に唇を当てた。
レノクロマ自身は自覚がなかったが、その時にセイミアは彼にとって特別の存在になった。
それから五年、レノクロマはドルミスノと共に各地を旅し、剣技を磨き、更には貴族出で博識なドルミスノの教えで学問を収めていった。
そうして十五になり皇学院に戻ったレノクロマは選抜試験で優秀な成績を収め、御前試合を勝ち抜き、第十軍の将の座を得た。
他の貴族の反発は強かったが、第一皇子グラセノフの生家であるビンゲリア家に表だって楯突ける貴族はいない。
当然その矛先はレノクロマに向く。
「駄馬」と陰口を叩かれる彼の元に仕官を志す貴族は皆無、市民ですら他の貴族の圧力で兵卒に志願する者はいなかった。
必然的に第十軍ははみ出し者や素行不良者の寄せ集めの愚連隊の如き陣容となり、貴族達の嘲笑や侮蔑、嫌悪の的となった。
与えられる任務も華々しい侵攻戦とは程遠い、残党狩りや魔獣狩りなどの泥仕事ばかりで、何時しか第十軍は「ドブさらい」「ドブネズミ」と揶揄されるようになった。
レノクロマはそんな世間の目をまるで気にはしていない。
彼の忠義は皇帝では無く義母のソルオラ、そしてその実子であるグラセノフとセイミアに向けられている。
母親が動かなくなったあの日から色を失くした自分に再び色を与えてくれた人達。
彼等のために生き、彼等のために死ぬ。それが自分なのだとレノクロマは愚直に信じて今日も剣を振っていた。
だが、何時の頃からか次第にレノクロマの心に不穏な妄想がちらつき始めた。
それは今も気を許すと鮮明な情景となってレノクロマの目の前に現れる。
バッフェ軍に捕まり拷問を受けるセイミア。
野盗に襲われて辱めを受けるセイミア。
戦火の中兵士に斬り殺されるセイミア。
飢えと病で道端で行き倒れるセイミア。
目の前に現れる様々な邪念を振り払うかのようにレノクロマは剣を振り続けた。
そんなレノクロマを物陰からじっと見つめている視線があった。
「ああ、レノクロマ様……」
濃緑のショートカットの髪に紺の魔導服姿。
それは第十軍の魔導士、テネア・ハミュハだった。
魔法を兵力と見なしていない帝国にあっては貴重な魔導士。
それは火魔法と聖魔法の二つの魔法を操れる才能のお陰である。
元々はムルタブスで修行をしていた身だがムルタブスでは禁止されている火魔法を無断で会得してしまったために破門となり、第十軍に拾われた異色の経歴を持ち、火魔法単体ではボーガベルの天才魔導姫シェアリアを凌ぐとも言われている。
その彼女が物陰から尻を浮かせるような姿勢でレノクロマを見ている。
「おい、テネア」
「うひゃあ!」
不意に後ろから声を掛けられたテネアは素っ頓狂な声を上げた。
「まーたレノクロマ様の観察か。そろそろ本が一冊書けそうだな」
そう言って笑っていたのは同じく第十軍第一部隊隊長のルキュファ・ロメスだ。
紅いウェーブの掛かった髪が第十軍の濃紺の鎧に映える。
こちらも若干十七歳ながらレノクロマ直衛の第一部隊をまとめ上げている。
貧民街の不良上がりで他軍団で手を出してきた上官を半殺しにして第十軍に左遷させられた。
巨大な破砕剣と背丈ほどある高盾を自在に操る女傑だ。
その艶っぽい朱が掛かった厚めの唇がニヤニヤとした笑みを湛えている。
「ル、ルキュファ! 驚かせないでよ!」
「あんまりずーっとレノクロマ様を眺めているのもどうかと思うけどなぁ」
「ずーっとって何よ。あなたこそ私を観てた訳? それこそ悪趣味よ」
「オレはたまたま通りがかっただけだ。お前がずーっとそうやってレノクロマ様を観ているのは何時もの事じゃ無いか」
「そ、そんな事無いもん! 私だってちゃんと訓練とかしてます!」
「へぇ、レノクロマ様の観察って何の訓練なんだろうねぇ」
「少なくとも誰かさんみたいに部屋で、ああーんレノクロマ様ーとか変な声出してたりしてませんよーだ」
「ばっ、お、お前! 聞いてたのか! どっちが悪趣味だ!」
「あんな大声、聞こえない方がおかしいですー」
「……何の話だ?」
何時の間にか背後にレノクロマが立っていた。
「「わあっ!!」」
「どうしたんだ? セイミアが戻って来たのか?」
「い、いいえぇ、その、ま、まだみたいです。ね、ルキュファ?」
「あ、ああ、そうだな、まだみたいだ」
「そうか……」
そう言ってレノクロマは官舎の方へ歩いて行った。
「はぁ、びっくりした」
「レノクロマ様は気配が消せるからなぁ……」
「しかし、相変わらず頭の中はセイミア様だけだね」
「ああ、しかし本当にセイミア様、戻ってこないよな」
「そうね、かれこれ半年。いくら何でも長すぎるわ」
「モシャ商会には定期的に連絡が入ってるらしいが、何処で何してるんだか」
「おい、お前達」
今度は背後から野太い声が聞こえた。
「……何だ副長か。驚かすなよ」
そこに居たのは副長のモラルドだが二人は驚くそぶりも見せない。
「ちっとも驚いてるようには見えんがな。仕事は片付けたのか?」
「もうとっくに片付けてこれから兵舎へ戻るところですー、ね、ルキュファ」
「ああ、なんなら副長も一緒に沐浴するか? 背中ぐらいは流してやるぞ」
「……心にも無いことを……何時までもレノクロマ様を眺めてるんじゃないぞ」
そう言ってモラルドは官舎の方へ歩いて行った。
「へーい、ってバレてら」
「あら、私は構わないわ。既成事実作りは大切だもん」
「何の既成事実やら。ま、いいか。水浴びに行こうぜ」
「あーん、待ってよ」
二人は兵舎の方に歩いて行った。
同じ頃、ボーガベル領シャプア近郊の森。
そこに二人の人影があった。
エドラキム帝国第十軍の斥候部隊の兵だ。
日中交代でシャプアの動静を監視している。
だが、第十軍がカナレに着任して以降の半年間、シャプアに目立った動きは感じられなかった。
否、動きは確かにあった。
だがそれは兵の物では無く、主に街の変化だった。
まず、街中と街を囲む壁の周囲に不思議な光を放つ柱が多数設置された。
この柱はたまに消える時もあるが、一晩中光り続けている。
その為、闇夜に乗じてシャプアに近づくという事が難しく、潜入はほぼ不可能だった。
仕方なく斥候部隊は近郊で監視するしか無い。
幸いレノクロマがグラセノフから拝領した他大陸製の望遠鏡があり、監視活動に役立てられていた。
そんな監視活動が続くある日、
「お、おい、見てみろ!」
監視していた兵が同僚に望遠鏡を渡した。
「何だ? 裸の女でも……うぉっ! こ、これは……」
同僚の見たのは裸の女等では無く、シャプアの広場に整列している鎧姿の兵士の列だった。
その数およそ二千。
報告にあった「例の兵士」の姿そのものだ。
「お、おい、こりゃあ……」
「あ、ああ、お前は急いで戻って……」
そこまで言った時、
「誰かいるのか! ……にゃ」
何処かで女の声が響いた。
「いかん! 逃げるぞ!」
そう言った兵はもう逃走態勢に入っていた。
「あっ!」
同僚の方は驚いた拍子に望遠鏡を落としてしまった。
「放っておけ!」
兵と同僚は食料の入った背嚢も捨て、短剣一本だけで逃走する。
だが追っ手は確実に追尾してくる。
「どうする? 相手は一人のようだ、やるか!?」
「駄目だ! 無駄に頭数を減らしたら不味い。とにかく逃げ切れ」
斥候には足自慢が選抜されている。
二人も脚力なら自信はあった。
とにかくシャプアに兵が集結してることをレノクロマ様にお知らせしなければ。
森の中を遮二無二に走り、これを抜けた所で追っ手の気配が途絶えた。
「っ……撒いたか?」
「振り返るな! このままカナレまで駆けるぞ!」
二人はそのまま一目散にカナレへ駆けていった。
森の少し高い木の上で拾った望遠鏡でそれを見つめる人影があった。
その場に似つかわしくない丈の短い侍女服を着た彼女は、
「まてー逃げるなーな~んて……にゃ」
そう呟くと身を翻してシャプアの方へ戻っていった。
夜半、カナレの第十軍兵舎。
「ルキュファ!」
兵舎から官舎に早足で向かっていたルキュファにテネアが声を掛けた。
「テネア、お前も呼ばれたか」
「当然でしょ、一体……」
「決まってるだろ、ボーガベルが動いたんだ」
二人は官舎に入った。
既にレノクロマ以下第十軍の主だった幕僚が揃っていた。
「揃ったな。では始めよう」
副官のモラルドが言った。
「はい、昨日斥候が確認したところおよそ二千の兵がシャプアに入ったとの事です」
将校の一人が報告書を読み上げる。
「いよいよ、このカナレを攻めるつもりか。しかし相手は二千。我が十軍は三千。有利ではあるな」
「いや、ボーガベル兵は例の兵士である可能性が高い。ならばこちらの方が圧倒的に不利だ」
モラルドがルキュファの見立てを正した。
「第六、第八軍をわずかな手勢で壊滅させたという兵か……確かに」
第十軍は実戦で叩き上げられた部隊だけあって相手を軽んじたりすることはない。
「如何いたしますか」
再びモラルドがレノクロマに尋ねる。
「まずはカーンデリオに報告だ。それからセイミアを急ぎ呼び戻すよう伝えてくれ」
「それには及ばないわ」
そう言って入ってきたのは当のセイミアだった。





