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枝先の彼女【一年かけて季節を一周する短編集】  作者: 笠原たすき
花水木

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花水木( り )

「――そう。牛乳は、一リットルを一本じゃなくて、五百ミリリットルのを二本。でないと次の買い物の時まで持たないし、持ち上げるのも骨だから。お豆腐は、これぐらいの四角ーい容器に入ったのが三つ重なってる、日持ちするのがあるでしょう。あれを買って来て頂戴な」


 今日は金曜。週に一度の買い物の日だ。


 人に買い物を頼むというのは、案外厄介だ。思っていた物と違うのを買って来られたり、うんと期限の短い物を買って来られたりする。いつものあの子なら、勝手も分かってくれているけれど、人が変わるとまた一から説明し直さなくてはいけない。特に彼女は細かいし、何だか心配だ。私は気をつけてほしい事を、一つ一つ丁寧に説明していく。


「納豆は、ひきわり以外なら何でも構わないから、一番安いのを選んでおくれ。だけど、日持ちするのにしとくれよ」


 彼女は、私が手渡したメモ書きに、事細かに、私が言った事を書き足していく。本当は全部こっちで書いておけばいいのだけれど、年を取ると手が震えて思う様に字も書けない。だから細かい事はあっちに任せるより仕方ない。それにしても、彼女の書く文字の小さいこと小さいこと。あんな字で後から読めるのだろうか。


「油揚げは、何か希望はありますか?」


「それも何でも構わないよ」


「分かりました。じゃあ、安くて日持ちするのを買って来ます」


 彼女は、覚えた文句を繰り返す様にそう言った。


「ええと、それから、のど飴は――」


 さて、ここからがまた厄介だ。私は大事に取っておいた包み紙を、彼女に見せる。


「ああ、それはね、これとおんなじやつを買って来て頂戴な。これは、持って行っていいから」


 こういう物は、口で説明するより、実物を見せる方が間違いがない。彼女はお預かりしますと言って包み紙を受け取る。


「カルシュームのお煎餅は、これ。売り場は、お菓子があるとこでなくて、シリアルやら何やらが置いてあるとこにあるみたいだから、気をつけるんだよ。それから――」


 そう言って私は今度は、きれいに洗って取っておいた、洗剤の詰め替えの袋を渡す。


「この間言ってた洗剤ってのは、これ。これと全くおんなじのを買って来ておくれ。何だか似た様なので、匂いがキツいのやら、余計なもんが入ってるのやらあるみたいだから、気をつけて頂戴よ」


「分かりました。気をつけます」


 彼女はそう言って袋を受け取る。本当に大丈夫だろうか。いつものあの子でさえ、一度違ったのを買って来た事があるのだけれど。私は内心心配だったけれど、ここは彼女を頼る他ないから仕方ない。


「ええと、それから、最後のこれは――」


 彼女はメモの一番下を指差す。さて、これが一番厄介で、一番大事なヤツだ。


「ああ、お茶請け。お茶請けって、分かるかい?」


「その、何となくは……」


「今度の連休にね、娘家族が来るんだよ。その時に出せる様な、ちょっとしたお菓子をね、見繕って来てしいのさ。私を入れて、四人分。和菓子でもいいけど、やっぱり若い人だから洋菓子の方がいいかねえ。カステラだとか、ケーキだとか。ケーキったって、クリームのやつじゃないよ。そんなの今買われたって持たないからね。そう、娘ったら何日に来るのか、まだハッキリ言って来ないんだよ。だから連休の終わりまで持つ様な――」

「あの、すみません。申し上げにくいんですが――」


 すると、彼女は話に割り込み、こう言った。


「介護保険の決まりで、お客様へお出しするお菓子は、私達は買う事が出来ないんです」


 私は言葉を失う。介護保険の決まり。随分と久し振りに聞いた。


 ヘルパーさんの手間賃は、殆どがお上から出ている。だから私らは、最低限の事しか頼めない。お掃除だって、頼めるのは居間や寝床やお風呂なんかの普段使っている所だけで、客間や、普段上がらない二階はやって貰えない。


 決まりがある事はあの子からも聞かされていたし、仕様のない事だと分かっている。けれども、まさか、こんな大事な所でそれを持ち出されるとは。娘達が来るのなんて、年に数度の一大事。それこそ、晩年の数少ない愉しみだというのに。私は食い下がる。


「お客さんたって、娘夫婦と孫だよ。家族も同然さ」


「すみません。言い方が悪かったんですが、そもそもご本人以外が召し上がる物が、サービスの対象外になっていて……」


「私も一緒に食べるのにかい?」


「そうですね……。一緒に召し上がる場合でも、駄目という事になっていて……」


「じゃあ、私が全部食べるよ。さっきのは、聞かなかった事にしておくれ」


「すみません、一度聞いてしまった以上は……」


 何度か問答を繰り返しても、彼女は一向に引く様子を見せない。なんと融通の利かない子なんだろう。私も段々と苛立ってきて、


「分かったよっ。じゃあもういいよ。遅くなるから、さっさと買い物に行っとくれ」


 と、追い出す様に彼女を買い物に行かせてしまった。


 そうして一人になってから、私はああどうしようと考える。折角娘達が来てくれるというのに、空茶で失礼という訳にはいくまい。かといって、まさか普段私が食べている煎餅や飴を出す訳にもいかないし。


 何か貰い物のお菓子でも残っていなかったかしらと考える。そしてすぐさま思い当たる。そうだ! 香典返しに頂いた、焼き菓子の詰め合わせがあったんだった。一人で食べるには勿体なくて、お客さんが来た時に開けようと、大事に取っておいたんじゃないか。初めから、彼女に頼む事なんてなかったよ。


 ああヨカッタと思いながら、私は戸棚を探る。けれども、そこにある筈のお菓子の箱は、いくら探しても見当たらない。客間に置いたのだったかしら。そっちも見に行ってみるけれど、やっぱり何処にもない。


 どうしたのかしら。あんな立派な詰め合わせ、一人で食べ切る筈もなし。そう思ってから、ハタと気づく。


 そういえば、訃報を受けたのは、まだうんと寒い頃だった。そうすると、香典返しが来たのだって随分前の事の筈だ。そうするともう、お彼岸の時に、お客さんに出してしまったんじゃあなかろうか。そう思うと確かに、みんなで分けて食べて、残ったのをお土産に持たせた様な、そんな様な気がしてきた。


 なんだ。骨折り損か。私はがっくりと肩を落とし、客間を出る。すると、脱衣所の方から、洗濯の終わる音が聞こえてくる。彼女が出かける前に回していったものだ。それがもう終わる頃の様だ。


 彼女はまだ、戻らないのだろうか。いつものあの子は大体、洗濯が終わるか終わらないかの内に戻って来て、洗濯物を干してくれるのだけど。


 私は、玄関に回って戸を開ける。彼女の車はまだ、姿を見せない。早く戻って来て貰わないと、終わりの間に合わない。それこそ介護保険の都合で、一度に頼める時間だって、きっちり決まっているのだから。


 すると、思いが通じたのか、車の走って来る音がする。ああ、戻って来た。しかし、やって来たのはいつもの車ではなく、郵便配達の二輪車だった。二輪車は門の前に停まり、郵便受けに手紙を入れると、そのまま去っていった。


 取りに行くかとも思ったけれど、今日はもう、さっきの探し物だけで疲れ果ててしまった。彼女が戻ったら、序でに取って貰うとしよう。


 そう思っていると、今度こそ、四輪車のエンジンを吹かしながら、いつもの車が門の前に止まった。車から降りた彼女に、私は呼び掛ける。


「悪いんだけど、郵便受けを見て来てくれないかい」


 すると、彼女は郵便受けに目をやる。けれども、中身を取ってくれはしない。まさか郵便受けを見ろと言ったら、本当に郵便受けを見るしかしてくれないのか。一体どういう教育を受けてきたのだろう。


「郵便が来てるんだよっ。それを取って来てくれないかい?」


 けれども彼女は、どういう訳か首を振る。聞こえないのだろうか。そしてそのまま、こちらまで駆けて来てしまう。


「聞こえなかったかい? 郵便を取って来てほしかったんだけど」


 すると彼女は言う。


「申し訳ないです。個人情報になってしまうので、郵便物は私達は扱う事が出来ないんです」


 個人情報。また大袈裟な。


「個人情報なんて、大層な事言わないでおくれよ。ちょっとあすこからこっちへ、持って来て貰うだけの事じゃないか」


「すみません。それでも駄目という決まりになっていて……」


 彼女はやっぱり引き下がらない。なんだい、決まり決まりって、さっきから四角四面な事ばかり言って。お上の方ばかり向いていないで、少しはこちらの声を聞いてくれてもいいじゃないか。


 そう思ったけれど、頑固な彼女の事、どうせ何を言っても無駄だろう。郵便はまた、後で取りに行けばいい。


 けれども、彼女は、妙に明るい調子になって言う。


「それに、ポストまで歩くのも運動ですよ。ほら、今日は風が気持ちいいですし」


 そして、ニコニコしながらこっちを見る。


 どうやら今取りに行けという事らしい。勘弁しておくれよ。そんな事をする間があったら、さっさと買ってきてくれた品の確認をして、洗濯を干して貰わなきゃならないのに。けれど歩かれないと思われるのも癪だから、私は仕方なく、サンダルを突っかけて玄関を出る。


 確かに外へ出てみれば、全身で浴びる風はまた心地好かった。けれども今は、それをゆっくり味わってもいられない。後ろでは、追い立てる様に彼女が待っている。私は急いで、でも体は思う様に動かないから、よろよろと覚束ない足で郵便受けへ向かう。


 届いていたのは、役所からの封筒だった。マイナンバーがどうこうと書いてある。なんだかまた、面倒臭そうだ。娘が来た時に、見て貰おう。


 振り返ると、彼女がニコニコとこっちを見ていた。


 なんだ、年寄りがヨボヨボ歩いているのが、そんなに面白いのかい。そっちが歩けば、すぐ済んだ事なのに。


 全く、嫌味な人だ。


 ◇


 気を取り直して台所に戻り、買って来てくれた品を確認する。トマト、卵、牛乳……。買い物袋の中身を出して貰いながら、買い物メモと一つ一つ突き合わせて、文字の上に線を引いていく。


 おや。納豆はこの種類のを買ったのか。この容器は、どうも開けづらくて好かない。いつもは一番安いのと言うと、大抵そこのスーパーの工場で作ってるのを買って来てくれるのだけど。油揚げだって、うんと小さいのを買って寄越して。けれども何でもいいと言った手前、文句を言う事も出来ない。だけど最後に出てきた洗剤の袋を見て、私はついに声を上げる。


「おやっ! 洗剤はこれじゃないよ!」


 見ると彼女が買って来た洗剤は、いつも使っているのとは絵柄が少し違っていた。きっと余計なのが入った、高いのを買ってきたに違いない。まったく、人の金だと思って。


「ちゃんと空のを渡したじゃないか。なのにどうして間違えるのさ」


「ああ、それなんですけど」


 だけど彼女は平然としている。


「パッケージが、リニューアルしたそうです」


「リニュウアル?」


「袋のデザインが、新しく変わったんです。でも中身は一緒なので大丈夫です。店員さんにも確認しましたので」


 彼女に言われて、渋々私はそれを受け取る。しかし、本当に同じ物なのだろうか。品物の絵柄が新しくなるのは、確かに偶にある事だけど、こんなに丁度良く、買って来る人の変わった折も折に新しくなるなんて、そんな偶然、あるのかしら。


「では、これで全部ですね」


 けれども彼女は、そんな私の疑いには気づきもせず、早々に買い物の確認を終えてしまう。そしてこちらへ背中を向けると、いそいそと洗濯を干しに行ってしまった。まったく、文句を言う暇もくれないのか。


 私はテーブルの上に残された、買い物メモを手に取った。お茶請けの文字だけが、線を引かれず虚しく紙の上に残っている。


 ああ、それよりお茶請けだよ。どうしたものか、考えないと。


 こんな事なら、先週の内にあの子に頼んでおくんだった。だってあんまり早く買っておいたって、連休の終わりまで持たないと思ったんだもの。


 大体、いつ来られるか中々知らせない娘が悪いんだよ。早い人はもう、明日から休みを取って、長期休暇に入るっていうじゃないか。


 うちの子は本当にのろまで、いつまで経っても愚図々々しているんだから。


 ◇


 こちらの声が聞こえたのか、その晩、娘から連絡があった。


 久し振りに耳にする娘の声は、何だか酷く疲れて聞こえた。


「声に元気がないねえ」


 私が言うと、娘は不機嫌そうに言う。


「大変だったのよ。お義父さんが、また倒れて」


 娘の旦那の父親は、数年前に脳梗塞を患ってから、入退院を繰り返している。母親の方も大分と認知症が進んでいる様で、長男の嫁である娘は、年寄り二人の面倒に追われている。


「そりゃあ、ご苦労だったねえ」


 と、私は声を掛ける。


「それでね、お母さん」


 娘は何でもない調子で続ける。


「お義父さん、また暫く入院する事になっちゃって。それで、いつ容体が変わるかも分からないから、悪いけど今年のゴールデンウィークは、そっちに行かれそうにないんだわ」


 余りに何でもない事の様に言われたので、私はフンフンと聞き流しそうになって、話の全容を飲み込んでから、思わず絶句する。


 そして、絞り出す様に言う。


「――そんなに、悪いのかい」


「うーん、今回はそこまででもなさそうなんだけど、ほら、入院すると着替えやなんか持ってかないといけないじゃない? 色々と大変なのよー。ホント、申し訳ないんだけどさ」


 娘は軽く、ごくごく軽い調子でそう言った。その態度に、私はカチンと来る。


「だったらそんなの、旦那に行かせればいいじゃないの! 旦那の親なんだから! どうせ連休でうちにいるんだろう?」


「駄目よー。うちの旦那は、自分の服の場所だって分からない人なんだからー。それにうちにいられると、お昼の用意とかで却って大変なのよー?」


「そりゃあ、あんたが甘やかすからでしょうが!」


「何よー! お母さんだって、お父さんにそうだったじゃなーい!」


「あの頃とは、時代も何も違うでしょうが!」


 そんな遣り取りをしてからハッとする。言い争いが、したかった訳じゃないのに。


「……じゃあ、トシちゃんは?」


 私は孫の名前を出す。


「トシちゃんだけでも来れないのかい? あの子、お彼岸にも顔見せないで」


「だって、俊男(としお)は仕事があるもの」


「なあに? あの子ったら、連休中も休日出勤させられてるってのかい?」


「違う違う。俊男はシステムのホシュだから、連休も何も関係ないのよ。前にも説明したでしょー?」


 娘は、何だか訳の分からない事を言った後に、利かん坊を宥める様に言う。


「とにかく、本当に悪いと思ってるけど、落ち着いたら私だけでもちゃんと顔見せるから。ね?」


 私は子供扱いされた様で、それも腹が立ったけれど、娘は言い返す間もくれず話し続ける。


「それでね、代わりって訳じゃないけど、いつも連休来た時にさ、――――してるじゃない? あれを今年は――――」


 なんだい、こっちの気も知らないで。私がどれだけあんたの帰りを待ち侘びていたと思ってるんだい。どうして実の親を放っぽって、血も繋がってない旦那の親の所に行くんだい。どうして長男の嫁だからって、あんたがそこまでしなきゃならないんだい。


 こっちはたった一人の娘だというのに。あの子しか頼れるものはないというのに。折角手塩にかけて育てたというのに。娘取られた気分だよ。


 俊男にしたってそうだよ。折角立派な大学へ遣らせたのに、よく分からない会社に扱き使われて。本当なら、嫁さんや曾孫の顔だって見せてほしい年頃なのに。


 この頃は只でさえ、いつものヘルパーの子が来なくなって、話を聞いてくれる人もなくなったというのに。


 これ以上私から、晩年の愉しみを奪わないでおくれよ――


 色んな気持が束になってやって来て、電話を切られた後も、私は電話機の前にしゃがみ込んで、長い事そこを動く事が出来なかった。


 だけども段々と足も痺れてきて、私は仕方なく、どっこいしょと立ち上がる。


 お茶請けは結局、用無しになってしまった。今日は何て一日だったのだろう。


 ふと箪笥の上に置いた、マイナンバーの封筒が目に入る。そうだ。これだって、娘が来たら見て貰おうと思っていたのに。


 次に電話が来たら、その事も言ってやらなければ。


 そうすれば娘だって、少しは帰って来る気になるかもしれないもの。


次回は、5月9日(金)18時頃の更新予定です。

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― 新着の感想 ―
>カルシュームのお煎餅は、これ。 お歳を召した方、カルシウムのことカルシュームって言いますよね!! こういう細かいところまで気を配ってあって素晴らしいです
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