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枝先の彼女【一年かけて季節を一周する短編集】  作者: 笠原たすき
白木蓮

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白木蓮( と )

「すみません、私のせいで……」


 彼女が、今日も謝っている。


「どうしてできるかどうか分からないことを、簡単に『できます』なんて言ったのよ!」


「すみません……」


「分からないんだったらまず私に聞いてよね! 報連相しなさいって言ったじゃない!」


「すみません……」


「まったく、それにしてもあっちもあっちよ! 分からない人にうまいこと言って、仕事押しつけようとするんだから! ほんっと迷惑だわ!」


「いえ、私が引き受けたのが悪いんです。本当にすみません……」


「もういいわよ――やだ、もうこんな時間!? 会議始まっちゃうじゃない!」


「すみません、私がお時間取らせたせいで……」


「まだ資料も印刷してないのに!」


「すみません、何かお手伝いできることは……」


「いいから! あなたはあなたの仕事やってなさい!」


「すみません」


「やだなに、用紙切れ!? もー、こんなときにー!」


「すみません、私が……」


「――ちょっと! なんなのよ!?」


「えっ――」


「なんでそこであなたが謝るのよ! コピー機の用紙が切れたのはあなたのせいなの!? あなたそんなところにまで影響力あるわけ!? なんでもかんでも自分中心に世界が回ってると思って!」


「違うんです。この間までは私……」


「うるさい! もう何も言わなくていい!」


「すみません、すみません……」


 彼女の震える声が、オフィスにこだました。


 彼女は日に日にやつれていく。


 頬はこけ、あんなに美しかった肌はくすみ、輝きを失っている。


 それでも彼女は懸命に、必死になってしがみついている。早手さんに頼まれれば笑顔で仕事を引き受け、不満や弱音のひとつも吐かない。朝から夜遅くまで、そして休日まで出社して仕事に身を捧げている。


「ねえ、あなた、ちゃんと食べてる? 大丈夫?」


 そんな彼女を見兼ねたのか、早手さんが席を外している間、田中さんがそう声をかけた。


「まあ、一応……」


 弱々しい声で、彼女は答える。


「本当に? 毎日三食食べてる? 一人暮らしなんでしょ? ごはん作る余裕ある? おばちゃん、ごはん作りに行ってあげようか?」


 田中さんが畳みかけると、彼女は安心したように笑う。


「大丈夫です。お惣菜とかが多くなっちゃうんですけど、毎日食べてます。ところで田中さん……」


 彼女はそう言うと、書類を掲げ、続ける。


「この書類で、分からないところがあって……」


 すると田中さんは、声を曇らせる。


「ああ、そういうのは、早手さんに訊いた方がいいわ。私じゃ分からないから」


「そうですか…………」


 彼女は力なく答えた。


 ◇


「おはようございます」


 始業時間間近。彼女の声が耳に届く。いつも早めに出社している彼女が、こんな時間になるのは珍しい。


 私は顔を上げ、彼女の姿を見て、また言葉を失いかけた。


「……おはよう」


 私は何とか言葉を絞り出し、すぐに彼女から目をそらす。そして、席に着いた彼女を、もう一度ちらりと見る。


 自然な美しさ、なんて思ったのは間違いで、やはり彼女の容貌は作り込まれたものだったか。それとも、この過酷な環境で、自然の美しささえ失われてしまったのか。


 彼女の肌は土気色に色褪せ、すっかり水気を失っていた。目には大きなクマが、そして顔のあちこちには茶色のシミが広がっている。頬はやつれてしわだらけだ。それらを取り繕う余裕もなかったのだろう、今日の彼女は完全なノーメイクだった。纏っているブラウスも、洗濯機の底から出してきたみたいにくしゃくしゃになっている。


 初めて会った日とは、まったくの別人だった。


「ちょっとあの子、あれはマズいんじゃない?」


 彼女が席を外した隙に、早手さんがヒソヒソと話しかけてきた。


「すっぴんどころじゃないわよ、アレ。ここ化粧品会社よ? 新入社員もいるのに、廊下とかで会ったらどうするつもりなのかしら。ちょっと自覚が足りないんじゃないかしら」


 私は、うやむやに返事する。


 うやむやな返事しか、できなかった。


 昼休み、リップを直しにパウダールームに立ち寄ると、いちばん奥のスペースに彼女が立っていた。


 彼女のほかに人はいない。声をかけようか迷ったが、彼女はファンデーションを重ねるのに一生懸命で、こちらに気づく気配はない。


 私はいちばん手前のスペースに立つと、音を立てないようそっとリップの蓋を外した。そして適当に口元を一周させると、そのままその場を後にする。


 やはり、メイク中に声をかけるのは避けた方がいいだろう。


 それに、あまり懐かれても後々困る。


 どちらにしても、あと少しだ。いちばん大変な時期は、もうすぐ過ぎ去る。新入社員研修の時期だって、もう終わりだ。


 ◇


「より多くのお客様が、より美しく輝けるように」


「より自信を持って生きていけるように」


「私たちは、そのお手伝いができるよう、日々努力を重ねていくことを誓います」


 彼女たちが、誓いの言葉を重ねていく。さながら小学校の卒業式のように。


 新入社員研修の終了日に、毎年行われる恒例のセレモニーだ。正直こういうセレモニーは入社式だけで充分だと思うのだが、どうもこの会社はこういったものが好きらしい。私は例年、忙しさを理由に参加しないことが多いのだが、今年は早手さんに誘われ、どうしてだか参加してみようという気になった。


 そして、いざ参加をしてみると、やっぱり彼女たちの姿に目を奪われてしまう。今私の目の前にいる彼女たちは、入社式での初々しい姿とも、ガイダンスでの眠そうな姿とも、あるいは彼女に叱られて縮こまっていた姿とも、まったく異なっていた。華やかさの中に、芯の強さや凛々しさをたずさえ、これからの歩みへの希望に満ちた、どこか誇らしげな表情に溢れていた。


 化粧はみな一様に、この会社らしく染まっている。その姿は無個性といえばそれまでだ。けれども、だからこそ、みなが最後にここに揃ったことに、もう二度と見ることのできない光景を見せてくれたことに、美しさを感じずにはいられない。


 そんな彼女たちの姿を見て、涙ぐんでいる女性もいる。研修を担当した、現役BAだろう。この日を迎えるまで、彼女たちを育て上げるまで、短い間ではあるが苦労の絶えない日々だっただろう。


 あるいは純粋に、彼女たちとの別れを惜しんでいるのかもしれない。


 これから彼女たちは、全国の現場へと散っていく。季節がまた、ひとつ進むのだ。


 ◇


「よかったわねえ。本当に、よかったわねえ」


 セレモニーが終わり、3人だけの会議室。早手さんは、彼女に向かって同意を求めるようにそう言った。その目は赤く腫れている。早手さんもまた、彼女たちの姿に涙していたのだろう。


「本当ですね」


 こちらはこちらで、短い間にすっかり変わりはててしまった彼女は、力なくそう返事する。


「まあ、まだあなたには実感わかないかもしれないけどね、いずれ分かるようになるわ。いずれおんなじ気持ちになるんだから」


 早手さんは、洟をすすらせながらそう言った。私はその姿を横目で眺めながら、例によって黙々と机を運ぶ。私はなにも言わない。口を挟んだりなんかしない。そして早手さんの言葉だけを、自分の言葉のように繰り返す。


 いずれ分かる。そうだ、彼女もいずれ分かるだろう。


 とにかく今の忙しさは、今日で少し一段落だ。この忙しさが過ぎ去れば、早手さんだってもっと落ち着くだろう。


 彼女はこれから、ゆっくり学んでいけばいい。仕事も、この場所での立ち振る舞いも。


 そうしていつの日にか、分かるときが来るだろう。彼女にも、きっと。


 ◇


「お先に、失礼します」


 その日の夜、彼女は初めてあいさつをしてくれたときと同じように、わざわざ私の席のすぐそばまで来て、落ち着いた声でそう言った。彼女は、後は週明けでいいと言い残して早手さんが退社してからも、一人で長いこと仕事を続けていて、私は特につき合うつもりはなかったのだけど、週末の残務処理などをこなしているうちに、なんとなくこの時間になってしまっていた。


 私は画面から目を離し、ぼんやりと彼女を見上げた。あれ以降、彼女はノーメイクで出社してくることはなかった。それでも蓄積した疲労やストレスは隠しきれず、今も剥げかけたファンデーションの下から、茶色のクマがのぞいている。けれどもその表情は、どこかすがすがしそうに見えた。


「おつかれさま」


 私はそう返す。彼女は一礼すると、くるりと身体を回転させ、オフィスを後にした。


 一人になった人事部のデスクに、静寂が訪れる。私は画面に目を戻す。


 しばらくしてから、私はハッとして彼女の席を覗き込む。


 彼女の机の上には、彼女が持参した私物のペン立てやメモ帳などが、整然と置かれている。変わらない、いつもの風景だ。


 私はふうと息をつくと、また画面に目を戻した。


 ◇


「ちょっと、貝原さん! 聞いてよー!」


 翌週の月曜日、出社するなり、早手さんに両肩をつかまれた。突然のことに驚いて、私は目を丸くする。


「もー! ひどいの、あの子ったら! 最後の最後まで!!」


「どうしたんですか、落ち着いてください」


 私がそう返すと、早手さんは私の肩から手を離し、その両こぶしをぎゅっと握りしめながら言い放った。


「あの子ったらね、内田さんったらね――今朝いきなり電話してきて、そのまま電話一本で会社辞めちゃったの!」


「えっ。そんな、だって」


 私は真っ先に、彼女の机を覗き込む。彼女の机の上からは、一切の私物が消えていた。


 そうか。休日出勤。彼女は先週も先々週も、週末に会社に来ていたんだった。


「しかも、私が出勤してくる前に! 私からは説得もなんにもできないまま、部長にだけ言って話つけちゃったのよ!?」


 いつも部長は、早手さんより少しだけ早い電車で会社に来ている。部長が来てから早手さんが来るまでのわずかな時間をねらって電話してきたのだとしたら、俗にいう確信犯というやつだろう。


「ありえない! 非常識! 無責任にもほどがあるわ!」


 まあ一応、新入社員研修の最終日までは待ったということか。どうせなら、もう少しだけ待てばよかったのに。


「まあまあ、早手さん。ちょっと落ち着いて。僕も悪かったよ。ちゃんと君とも話してもらえばよかったね」


 そこに部長が口を挟む。早手さんはうつむくと、「いえ、そういうわけじゃあ……」と口ごもった。


「それにしても残念だなあ。根性ある子に見えたんだけどね。ああいう子は逆に、一度決断するとダメだ。引き止められなかったよ。まあ、また新しい人を探すから」


 部長はそう言うと、ふらりとどこかへ行ってしまった。その姿が見えなくなると、早手さんは吐き捨てた。


「本当に、部長も部長よ。根性ありそうってのも、全然信用ならないんだから」


 それからまた私の方を向くと、思いついたように言った。


「そうだ! こうなったら貝原さんが一緒に採用やろ! 貝原さんなら仕事早いし、新しい人よりよっぽどいいわ!」


「ダメですよ」私は苦笑する。「私は他人に興味がないので、採用には向いてません」


「えー、そんなことないと思うけどなあ――って、もうこんな時間! ああもうまた忙しくなる! せっかくちょっと落ち着くかと思ったのに!」


 そう言うと早手さんは、あわててPCに向かい始めた。私も席に着き、PCの電源を入れる。


 PCはいつも通り起動を始め、画面には端末のメーカーのロゴが光る。それを眺めながら、私はどこかほっとしている自分に気がついた。


 彼女もこれでもう、冷たい叱責を浴びなくて済む。


 メール画面を開くと、早速配属先の新入社員から、書類手続きに関する問い合わせが届いていた。まだつたないビジネスメールに、思わず顔がほころぶ。


 その下には、何事もなかったかのように、来年の採用業務に関する事務連絡が、内田さんからCCで届いていた。


 一年以上前から待ち望まれ、期待され、注目され、そして美しく散っていった彼女たち。一方で、その陰に隠れて、人知れず枯れるように散っていった彼女。


 その両方に、私は思いを馳せた。


 ◇


「貝原さん」


 お昼前、部長に話しかけられた。


「内田さんの退職、勤怠管理システムで承認したから、時間あるときに最終処理頼むよ」


「分かりました」


 私は答える。そして早速、勤怠管理システムを立ち上げる。


 ここで私が最終処理を完了させれば、彼女の退職は後戻りできない事実となる。それでも、仕事が早いのが私の取り柄だ。


 私は彼女の退職処理画面を開く。退職理由や最終出勤日は、すでに部長が入力してある。しかしよく見ると、最終出勤日は先週の金曜日となっていた。私は首をかしげる。休日出勤をしていたんじゃなかったのだろうか。


 私は勤怠管理画面を開き、彼女の出社記録を確認する。たしかにそれを見る限りでは、彼女が最後に出社していたのは、先週の金曜日となっている。私はもう一度彼女の机に目をやると、今度はログ管理システムを立ち上げる。


 勤怠管理画面に表示される出社記録は、社員が自分自身でタイムカードを切った時刻の記録だ。申告せず黙って休日出勤をしていれば、画面に記録が残ることはない。けれど、ログ管理システムでPCの利用履歴を調べれば、実際に出社をしていたかどうかは簡単に分かってしまう。


 システムが立ち上がると、私は早速、彼女のPCの履歴を確認する。すると案の定、この週末に彼女が出社していた形跡があった。しかも土日両方。


 そういえば、と思って、先程の彼女からのメールをもう一度開く。メールの送信日時は、昨日の夕方だった。


 だから、そういうのはちゃんと申告してって言ったのに。私は心の中でつぶやきながら、退職日を訂正した。


 4月20日。



(白木蓮・終)

「白木蓮」の物語は以上となります。お読みいただきありがとうございました。


次のエピソードは、一週お休みを挟んで、4月25日(金)18時頃の公開となります。引き続きよろしくお願い致します。

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