白木蓮( へ )
新入社員たちも入社3日目となり、彼女たちの研修は専門の研修講師にバトンタッチとなった。
それでも、彼女たちの研修日誌をチェックしてコメントを入れるのは人事の役目だ。それに関しては、私も採用・育成担当の2人を手伝うことになっている。
別に大変な仕事ではない。むしろ、学校を卒業したばかりの彼女たちの、フレッシュな文章を目にするのはいい刺激になる。もちろん、人事が見ることを前提とした表向きの内容なのは分かっている。それでも、今の自分には書くことができない貴重なものだ。
そもそも、彼女たちは紙の上に残された文字ですら華やかだ。自分もこういう文字を書いてみたかった、そんなことを思いながら、社会人らしい整った文字でコメントを残していく。
一方、いま目の前にいる彼女は、戸惑った様子で早手さんの叱責を受けていた。
「――いい!? なんでもかんでもただ褒めればいいってもんじゃないの! そんな甘いことばっかり書いてたらあの子たちのためにならないでしょ!? ねえあなた、こないだの終礼でやらかしたからって、これ以上ビビられないように、自分が気に入られるようなことばっかり書いてるんでしょう! こんなんじゃ、あなたが赤入れたやつ、私がまた二重に見なきゃいけないじゃない! そうやってまた余計な仕事を増や――」
赤ペンを持つ手が、つい動きを止める。私は、迷いを振り払うように、ペンを握りしめる。
大丈夫、気にするな。私はまた、ペンを進める。
◇
「貝原さん、先程アイディールオフィスの山崎さんから電話がありました。伝言メモを置いてあります」
次の日、打ち合わせから戻ると、彼女は律儀に立ち上がってそう言った。
「分かった。ありがとう」
私はそう言って、机の上のメモを手に取る。メモは社内でみんなが使っている、あらかじめ記入事項が印刷されたテンプレートの紙だ。
そこには、必要事項を埋めるように「貝原様 4月4日15:08 アイディールオフィスの山崎様より」と書かれ、その下の「折り返し電話をください」のチェックボックスにレ点が打たれていた。その下に先方の電話番号が書かれ、余白に今日の16時以降にかけてほしい旨が追記されている。
そして、丁寧なことに、レ点を打たれたチェックボックスと記入された電話番号、そして「16時以降」の文字の下に、重ねて黄色のマーカーが引かれていた。
別にマーカーなんて引かなくても。私は思うともなしに思った。すると、ふと早手さんの言葉が頭をよぎった。
――マーカーなんて引かなくていいから!
なるほど。私は、メモを見ながらその言葉を噛みしめる。はじめ聞いたときは、早手さんが重爆の隅をつつくような言いがかりをつけているのだと思った。けれどもあれは、意味のある叱責だったのだ。
もちろん、早手さんがその言葉を発したのは、また違う状況のときだったかもしれない。けれども、問題の根っこは同じだろう。
電話メモにせよなにかほかの書類だったにせよ、記入事項にマーカーを引くことを彼女が習慣にし続けてしまったら、みんなマーカーの箇所ばかりに目が行くようになるだろう。
そんなときに誰か他の人がマーカーのないメモを残したら、あるいは彼女がたまたまマーカーを引くのを忘れたら。受け取った相手が、重要な記載事項を見落としてしまうかもしれない。それがたまたま、大切な取引先からの大切な連絡だったとしたら。重大なミスというのは、ともすれば一人の「ちょっとした気遣い」から起こりうるものだ。
もちろん、たかがマーカーの話ひとつといえばそれまでだ。けれど、おそらく彼女の仕事は、すべてにおいてそんな調子なのだろう。
◇
今朝はやけに起きるのがつらいと思ったら、窓の外には白いものが舞っていた。4月の雪。何年ぶりだろう。
テレビをつけると、気象予報士が弁明交じりの解説を行い、レポーターたちが中継のため都内各地に駆り出されていた。
私は支度を終えると、フックの手前にかけた春のコートの後ろにかかっているウールのコートの、そのまた後ろにかけてあったダウンコートを、ハンガーからはぎとるように手に取った。クリーニングに出そうと思いながら、後回しにしていたものだ。
こういうときばかりは、だらしない性格も役に立つ。多少ホコリはかぶっているかもしれないが、仕方ない。私はそのままダウンコートを着ると、同じくしまっていなかった冬用の大判のマフラーを巻き、会社へ向かった。
「おはようございます。今日は寒いですね」
忙しさもあって忘れていた、あいさつの次の二言目を、久しぶりに早手さんと交わす。
「本当よー。寒いどころか、こんな雪になるなんて。もう4月よー? 天気予報でも、全然そんなこと言ってなかったじゃない。もう冬物のコート、とっくにしまっちゃったわよー」
本当ですよね。私は返す。するとそこへ、電話が鳴った。咄嗟に手を伸ばしたが、早手さんの方が先に受話器を取る。
「――ああ、田中さん? おはようございます――うん、うん、あら大変――いいえー、ゆっくり来てくださいね」
電車遅延の連絡かな。どうせまた、早手さんは電話を切ったら、普段からギリギリに来てるのがいけないんだとか、手のひらを返したように文句を言うんだろう。私は勝手に頭の中で先回りをして、ひとりでうんざりした気分になる。
「おはようございます」
そこへ、内田さんの声がした。私はあいさつを返そうと、顔を上げる。
「おは――」
私は一瞬声を失いかけて、取り繕うように言葉を続ける。
「おはよう。内田さんも冬物のコート、クリーニングに出しちゃった? 今更雪降るなんて思わないもんね」
すると彼女は一瞬不思議そうな顔を見せた後、首を振って話し出す。
「あっ、いえ、それが、私冬物まだクリーニングに出せてないんです。引っ越し先でお店どこにしようかまだ決められてなくて。うちの近所、クリーニング屋さん3軒あるんですけど、どこが安いかとかちゃんと調べてからにしようと思ってたら、いつの間にか時間経っちゃって。しかもいきなり最初にコートとか出すの不安で、まずはブラウスとか試しに出してからにしようって思ってたら、ますます冬物出すのが遅くなっちゃ――」
「ああ、そうじゃなくて」私は彼女の話を遮る。「その格好で、寒くないのってこと」
私は彼女の服装を指差す。彼女はこの寒さの中、コートと呼ぶべきかジャケットと呼ぶべきか分からない、薄手の上着を身に纏ってきていた。色は本来のこの時期らしい白。明らかに春物だろう。
「ていうか、冬物あるなら来てくればよかったのに」
「ああ、えっと……」彼女は、状況を飲み込むように沈黙したのちに、続ける。「いや、その、寒いかなーとは思ったんですけど、さすがにもう4月なので、コート着てきたら変かなって思いまして……」
「そんなことないよ。雪だもん」
私が返すと、彼女は不自然に明るい声になる。
「そっか、そうですよね! 4月になっても、雪の日ならコート着てきてもいいんですよね。今度から、あっ、また今度雪降ることあるか分かりませんけど、もし今度降ったら、そうしますね。ありがとうございます!」
私は、彼女になんと返せばいいか迷っていると、
「貝原さーん。田中さん、電車遅延で遅刻だってー」
電話を終えた早手さんに声をかけられ、会話はそこで終了した。
私はPCの電源を入れる。起動を始めた画面に、自分の顔がぼんやりと映る。
4月だからこう、雪だからこう。そんなふうに公式に当てはめるんじゃなくて、自分が寒いかどうかで決めていいんだよ。「そういうものだと思った」で済まさないで、自分の頭で考えないと。でないと――
でないと、凍えてしまうよ。
次回は4月11日(金)18時頃の更新予定です。




