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枝先の彼女【一年かけて季節を一周する短編集】  作者: 笠原たすき
白木蓮

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白木蓮( ほ )

 少しだけテロップがシンプルになって、新メンバーが加わった朝のニュースを消して駅に向かうと、電車を待つ人の列にも新メンバーが加わっていた。


 4月1日。真新しいスーツに身をつつんだ新入生や、新社会人たちが街なかをにぎわせる日だ。


 六花本舗にも今日、新入社員がやってくる。私も入社式に参加し、ガイダンスも一部担当することになっている。


 いつもより少しだけ気合いの入った服とメイクで、私は電車に乗り込んだ。


 ◇


「やっとこの日が来たわねー」


 朝の会議室。入社式の準備中、早手さんは思い切り伸びをするとそう言った。1年以上前から採用活動を行い、選抜し、内定後も辞退されないよう気にかけてきた彼女たちがいよいよ入社してくるとなると、採用担当者としてはそれなりの感慨があるだろう。


「そうですね」


 入社してまだ1ヵ月も経っていない内田さんは、にこやかに話を合わせる。


「あ、そうだ」早手さんは、彼女の方に向き直る。「新入社員の前で、私も入社したばっかりなんですーとか言わないでよ」


「え? だめなんですか?」


 彼女が訊き返す。


「当たり前でしょー。そんなこと言ったら舐められるもの。人事は新入社員の前に立つ存在なのよ。威厳を持たなくっちゃ」


「なるほど……そうですよね」


 彼女は答えた。


 ◇


「これからは、社会人としての自覚を持ち――」


 新入社員代表が、マイクの前に立ち挨拶を述べる。晴れやかな笑みを浮かべる頬には、やわらかなピンク色のチークがほどこされている。


 会場に勢揃いした新入社員たちの姿には、目を見張るものがある。列席した社員たちはみな、彼女たちに熱い視線を向けている。男性社員なんかは、すっかり見とれているようだ。


 あるいは、新しい1年の始まりに思いを馳せているのかもしれない。それもそうだろう。彼女たちは、連綿とした日々を送る私たちに、新たな季節の到来を告げてくれる貴重な存在なのだから。


 ◇


 入社式のセレモニーが終わると、もうお昼だ。彼女たちが会社の用意した弁当を食べている間に、私も昼食を済ませ、午後のガイダンスに備える。私は午後いちばんに、就業規則や社内制度についての説明を行う予定だ。


 資料をそろえ、会議室の方へ向かうと、廊下まで彼女たちの華やかな声が聞こえてきた。まだ予定時間より少し早い。私は会議室の外の廊下で、時間になるのを待つ。


 廊下には長テーブルが出してあって、その上に弁当の空き箱が入ったケースが置いてある。テーブルの端には、ガムテープでゴミ袋が固定してあり、その中には、弁当とともに会社が用意したお茶の空き缶が捨ててある。どちらも弁当を配達した業者が、あとで回収に来ることになっている。


 ただ、目についたのは、テーブルの上に置かれた複数の缶だ。タブは空いているが、袋に捨ててあるわけではない。おそらく飲み残しだろう。


 飲み切れないのも仕方ない。今回用意されたお茶は、ビールと同じくらいのサイズの缶で、蓋もないタイプのものだ。むしろ、なぜこれを発注したのだろう。ペットボトルにしておけばよかったものを。


 そんなどうでもいいことを考えていたら時間になったので、私はドアを開け部屋に入った。


 おしゃべりがぱっと止み、全員の顔がこちらを向く。入社式では部屋の脇から見ていただけだったが、改めて彼女たちの前に立つと、その存在感に圧倒されそうになる。そうか、去年もこうだったっけ、と毎回この瞬間になって思い出す。


 けれども、私はそんな戸惑いを見せないよう努める。そして冷静に、自分の役割をこなす。


 私の話は、制度などについての事務的なものだ。この後部長や早手さんが担当する「社会人の心得」のような話とは違い、熱っぽく語りかける必要もない。内容が分かりやすく伝わり、過度な眠気を誘わなければそれでいい。多少の眠気は、食後なのでやむを得ないだろうが。


「――それでは、なにか質問のある方はいらっしゃいますか?」


 私は一通りの説明を終えると、全体に向かって問いかける。手を上げる人はいない。今年も無事、私の役目は終わったようだ。


 私は最後に必要書類を回収すると、不明点があればいつでも人事に連絡するよう申し添え、ガイダンスを終了させた。


 予定よりだいぶ早く終わってしまったが、彼女たちには長めの休憩時間を伝えておくことにした。次のガイダンスまで、また話に花を咲かせてもらえればよい。


 私は廊下へ出ると、小さく息をつく。目の前には、先程と同じ無機質な世界が広がっている。


 と言いたいところだったが、目の前の様子は先程とほんの少しだけ変わっていて、具体的に言うと、テーブルの上に並んでいた缶の飲み残しがきれいに消えていた。弁当の容器と空き缶の袋は残っていたので、業者が回収に来たのではなさそうだ。


 じゃあ誰が、と思いながら私は廊下を進む。すると、給湯室の方から、早手さんの声が聞こえてきた。


 この会社の給湯室には、出入り口のドアがない。だから話し声は外まで聞こえてしまう。給湯室での噂話には気をつけろ。誰よりも噂話の好きな早手さんが、いつかそう言っていた。けれど今早手さんは、自分でそんなことを言ったのも忘れたかのように、大きく声を張り上げていた。そしてその声とともに、頼りなく弱々しい声が耳に届いた。なんと言っているかは聞き取れなかったが、そちらの声の主は内田さんのようだった。


 気づかなかったふりをして、さっさと通り過ぎてしまおう。そう思って足を速めた瞬間、早手さんが声を荒らげた。


「――そうじゃなくて! なんであなたがそれを片づけてるのかって聞いてるの!」


 大声に思わず足が止まる。早手さんの声が、嫌でも耳に入ってくる。


「それみんな、新入社員の飲み残しでしょ! そんなの自分で片づけさせなきゃダメじゃない!」


 飲み残し。その言葉を聞いて、私は納得がいく。なるほど、あの缶を片づけたのは彼女か。そして、その現場を早手さんに目撃された訳か。


「その……私が間違って缶のお茶を注文してしまったのが悪いので……余計なことせずに、例年と同じペットボトルのにしていればこんなことには……」


 そうか。この缶を発注したのも彼女か。そういえば、以前そんなことで怒られていたような気がしなくもない。すると早手さんは、さらに声を上げる。


「それとこれとは別でしょう! そうやってあなたが全部片づけちゃったら、あの子たち、誰かがやってくれると思って自分で片づけなくなるでしょう! 現場でもそうするようになっちゃったらどうするの!? 研修でなに教わってきたんだってなるでしょう!」


「すみません……。あの、そうしたら、この残りはどうしましょう……」


「それはもう、あなたがそこまでやっちゃったんだから、最後まで自分で片づけなさい! その代わり、後でみんなに注意すること!」


「えっと……この後、ですか?」


「この後は部長来ちゃうでしょ。あなた終礼で司会するんだから、そのときにでもすれば?」


「分かりました……」


「もう、しっかりしてよね。いけない、もうこんな時間」


 そう言うと、早手さんは給湯室から姿を現した。私は即座に、まさに今ここを通りかかりましたという表情を作る。


「あ、早手さん、お疲れ様です。こっちは少し早いですが、終わって休憩にしたところです」


「りょうかーい」


 早手さんも何事もなかったかのように答え、会議室の方へ向かった。


 私は、彼女と顔を合わせる前にと、足早に給湯室の前を通り過ぎる。


 これ以上、かかわらないでおこう。私の出番は終わったのだ。今年はもう新入社員の前に立つこともないだろう。


 ◇


 そう思っていたのだが、その後デスクで新入社員から回収した書類をチェックしていると、何枚か不備があることに気がついた。説明が分かりづらかっただろうか。個別に確認をする必要がありそうだ。どこかで時間をもらわなければ。


 そう考えていたところに、早手さんが資料を取りに戻ってくる。私は早手さんを呼び止め、新入社員数名に確認事項があることを伝えた。すると、終礼の後に時間を取らせてくれることになった。


 そんなわけで、私は終礼の頃にまた会議室へ向かわなければいけなくなってしまった。


 ◇


 会議室に向かうと、ちょうど今日のガイダンスが終わってこれから終礼を始めるというタイミングだった。


 ドアの外から覗き込むと、早手さんがこちらに気づいて手招きをしてくれた。別に部屋の外で待っていたってよかったのだが、終礼後すぐに該当者を呼び出さないといけないので仕方がない。私は、室内に入ると早手さんと一緒に部屋の脇に立った。脇に待機していた彼女が、入れ替わるように新入社員たちの前へ立つ。


 彼女は緊張した面持ちで、というより険しい表情で、部屋全体を見渡した。無言の時間が、数秒あった。私は、やっぱり部屋の外で待っていればよかったと思った。やがて彼女は口を開く。


「終礼に入る前に、みなさんにひとつ、お聞きしたいことがあります」


 そして、こう続けた。


「昼食の後、お茶の飲み残しをテーブルに放置した人は、手を上げてください」


 部屋全体が、しーんと静まり返る。


「いないんですか? そんなはずありませんよね。いくつも置きっぱなしになっていました。全部私が片づけたんですよ」


 彼女は、再度全体を見回すと、さらに続けた。


「どうして誰も手を上げないんでしょう? 黙っていればバレないとでも思っているんですか? ここにいる人はみんなウソつきなんでしょうか?」


 私はちらりと、隣の早手さんを見た。早手さんは、彼女以上に険しい顔をしていた。その目は、彼女に対して向けられている。


 それもそうだろう。これはさすがにやりすぎだ。


 新入社員たちは誰も手を上げない。当然だ。こんな状況だったら、私だって手を上げないだろう。それを見て、彼女はさらに言う。


「今日、入社式で、社会人としての自覚を持つと言ったばかりですよね。これが社会人のすることなんですか。現場に出てもそうやって、自分の出したゴミも片づけないで、あげくの果てにウソをついて誤魔化そうとするんですか」


 彼女は厳しい口調で畳みかける。目はつり上がり、普段の彼女とは別人だ。新入社員たちは、すっかり縮こまっている。


 けれども、私には、彼女が心の底から怒っているようには見えなかった。彼女はきっと、彼女に課せられた仕事を忠実にこなしているだけなのだ。


 おそらく、これが彼女にとっての「注意」なのだろう。たとえば学校の先生や、部活の先輩といった、これまで彼女が目にしてきた「みんなの前に立って注意をしている人」の言動を、ただなぞっているだけなのだ。「怒っている人」の役を演じていると言い換えてもいい。


 だがそのテンプレートは、今の状況にはそぐわない。彼女たちがやったことはこんなに叱り散らすようなことじゃないし、そもそも大の大人に対する叱り方じゃない。早手さんだって、彼女がここまでするなんて思っていなかっただろう。


 私は、これまでただ頭ごなしに彼女を怒鳴りつけているだけだと思っていた早手さんの苦労に、つい思いを馳せてしまった。


「――いいですか、全部飲み切れなんてことは言いません。すぐそこに給湯室があります。自由に使っていただいて構いません。自分で出したゴミくらいは自分で片づけるのがマナーです。それだけは覚えておいてください。では、終礼に移ります」


 彼女はようやく着地点を見つけたようで、やっと終礼が始まった。けれども、気まずい空気は終礼の最後まで続き、その後の書類不備の確認のやりにくいことと言ったらなかった。


 ◇


「誰があそこまでやれって言ったのよ!」


 新入社員たちが帰ったあとの会議室で、早手さんは早速怒りをあらわにした。


「ちょっとマナーがなってなかったくらいで! 入社初日からあんな言われようして! あの子たちが可哀そうだと思わないの!?」


 一方、突然怒鳴られた彼女は、困惑した表情を隠さなかった。どうして自分が怒られなければいけないんだろう。言われた通りにしただけなのに。そう表情が物語っていた。


「あんなの、ちょっと自分で出したゴミは自分で片づけましょうねーって優しく言えば済むことじゃない! それなのにあんな大げさなことして!」


 だったら初めからそう教えてくれればよかったのに。自分だってあんな風に怒りたくなかったのに。彼女の目は、そう訴えていた。


「ちょっとみんなの前に立ったからって偉くなったつもり!? 入社してひと月も経ってないくせに調子乗ってるんじゃないわよ!」


 そんなこと思ってない。だって入社したばかりっていうのは隠さないといけないんじゃなかったの? 人事は威厳を持たないといけないって言ったのはそっちじゃない。


 もう帰ってもいいかな。そう思いながら、私は朝動かした机や椅子を、一人で黙々と元に戻す。朝の準備も手伝ったのだから、夕方だけ知らんぷりというわけにもいかない。早手さんがこっちに気づいて「いいよ戻って」なんて言ってくれることはない。


「ねえあなた、反省してるの!? これであの子たちが、明日から来なくなっちゃったらどうするつもり!?」


 ないない。これで会社に来られなくなるようじゃ、BAなんて務まらない。早手さんだってそんなこと分かったうえで、彼女を揺さぶるために言っているのだろう。


「……じゃあ、明日みんなに謝ります」


「どーしてそうなるのよ! そんなのもっとダメに決まってるでしょ!? こっちが悪かったって認めることになるのよ!?」


 じゃあどうすればいいって言うの。そもそも今こうして怒ってるのは、こっちが悪いことをしたからじゃないの? この人はなにを言ってるの? 意見がブレブレじゃない。


 しかし、いつまで続くんだろう。いくら私が見て見ぬ振りができる人だからって、いつも目の前で怒ってばかりで――


 やっぱり自分から、さっさとデスクに戻っておけばよかった。

次回は、4月4日(金)18時頃の更新予定です。

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― 新着の感想 ―
この人たちはもう一度教育を受け直したほうがいいと思ってしまった。 やって見せ、言って聞かせてさせてみて。褒めてやらねば人は動かじ 人を育てるというのはとても難しい。気分や感情で叱りつけたところで聞く耳…
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