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枝先の彼女【一年かけて季節を一周する短編集】  作者: 笠原たすき
白木蓮

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白木蓮( に )

「ぜんっぜん使えないのよ、あの子」


 残業中、2人きりになった人事部のデスクで、早手さんは堪え兼ねていたように口を開いた。


「今日、支店に郵送する書類があって、中身は私が用意してたから、後は送付状と宛名だけお願いってあの子に頼んだの。そしたらね、あの子、送付状ってなんですかって言ったの。驚いちゃった。送付状も知らないの。しかも、支店に書類送るの頼んだのなんて、これが初めてじゃないのよ? 今までどうしてたのって聞いたら、送付状つけずに送ってたって言うの。信じられる? まったく、新入社員じゃないのよ。前の職場でなにやってきたのかしら」


 私は、「えーっ」とか「うーん」といった、否定も肯定もしないあいづちをところどころ挟む。


 たしかに社会人として知っておいてほしいことではあるが、そんなに騒ぎ立てるほどのことだろうか。そもそもこのデジタルの時代に、いちいち書類を郵送でやり取りをしているこっちの方が珍しいんじゃないだろうか。


 それに、彼女だって前の職場でなにもやってこなかったわけじゃないだろう。前の勤務先はドラッグストアの店舗だ。事務的な仕事はする機会が少なかったのかもしれない。それに送付状ならテンプレートが共有フォルダにあったのに、最初に説明しなかったのだろうか。けれど早手さんは、説明しなかった自分の責任なんて、考えもしないだろう。


「それに、報連相も全然できてないの。この間も――」


 私は感情が顔に出ないようにつとめながら、嵐が過ぎ去るのを待つ。


「これなら貝原さんにお手伝いしてもらってたときの方がずっとよかったわ。ほんと、貝原さんが2人いてくれたらいいのに」


 なに言ってるんですか。私はそう返す。


 こんな文脈なのに、早手さんの言葉に少しだけ自己肯定感が上がるのを感じて、自分で自分が嫌になる。


 ◇


「ねえ、頼んだ仕事、まだできないの?」


 ある日の午後、早手さんがいらだった様子で尋ねる声が耳に入った。


「すみません、あと少しだけ……」


 内田さんが、弱々しく答える。


「なんでそんなに時間かかってんの。こんなの10分くらいで終わるでしょ。なにやってたのよ、今まで」


「すみません。エクセルの操作で分からないところがあって、調べていたら……」


「なんで調べてるの。隣に私いるんだから、一言訊けばいいじゃない。訊けば一瞬で済むのに、時間無駄にして。こっちは時間ないんだから。この間だって質問抱え込んで仕事遅らせてたでしょ? 自分から質問することもできないの? そんなの幼稚園児だってできるでしょ。ねえ――」


 時間がないと言っておきながら、説教をする時間はあるのだろうか。これこそいちばん無駄で不毛な時間だ。


「で、どこが分かんないっていうの? ほら、見せなさいよ」


「あ、あの、そこはもう解決して、あとは最後のところだけで……」


「なら先に言いなさいよ。もうあと少しじゃないの。だったら早く終わらせて!」


「はい……」


 彼女がそう答えたところに、電話が鳴る。彼女は受話器に手を伸ばす。


「電話なんて取らなくていいから! また遅くなるでしょ!?」


「すみません、すみません……」


 私は受話器を持ち上げると、耳をふさぐように押し当てた。


 ◇


「そんなの、どう考えたっておかしいでしょ? 『そういうものだと思った』で済まさないで! それくらい自分の頭で考えないとダメじゃない!」


「どうして言われたとおりのことができないの! 指示どおりにやればなんの問題もなかったのに、それをこっちの方が安いとか余計なこと考えるから間違えるの! 新人なんだから余計なことしないでよ!」


「マーカーなんて引かなくていいから!」


 早手さんの叱責は、日を追うごとにひどくなる。それでいて、怒っている内容はどんどん些細なものになっていく。端から聞いているだけではなんのことだかよく分からないが、なかにはほとんど言いがかりにしか聞こえないものもある。彼女を怒りたい気持ちが先にあって、後から怒る理由を探しているようにすら見える。


 しかも、怒鳴り散らすのはたいてい部長が席を外しているときだ。一方で、彼女が明らかなミスをしたときは、あえて部長や周囲に聞こえる声でアピールする。


 さすがにこちらも聞くに堪えなくなり、口を挟みたい気持ちになる。


 いけない、いけない。私は自分に言い聞かせる。


 ◇


 今日は朝から風もなく暖かい。


 早手さんは今朝はオフィスに出社せず、採用活動の会場に直行した。


「はい、どーぞ」


 そう言って田中さんは私の机にお菓子を置く。つづいて彼女の机にも。おだやかな空気の中、私はしずかに入力業務を進める。


 電話が鳴り、彼女が受話器を取る。


「六花本舗人事部、内田です」


 彼女の電話対応もずいぶん落ち着いてきた。毎日積極的に電話を取ってきた成果だろう。


「早手はただいま外出しておりまして、戻りは夕方の予定ですが――よろしければ、代わりにお伺いいたしましょうか――はい、はい――あっ……そうですか……そうしましたら……ええと――」


 そう思ったら、苦戦しているようだ。私はテンキーを叩きながら、ちらりと彼女の様子をうかがう。


「ええと、こちらで対応を確認いたしますので、折り返しのお電話でもよろしいでしょうか――折り返しのお時間は――そうですよね早い方が――はい、では一旦失礼いたします」


 そう言って、彼女は電話を切った。そしてそのまま固まっている。ここは先輩としてなにか声をかけてあげるべきか。それとも彼女の方から質問してくるのを待つべきか。いや、たまにはこちらから手を差し伸べてあげてもいいんじゃないだろうか。よし、今やっている入力が、この列まで終わったら声をかけよう。もうあと数秒で終わる。


「どしたの? なんかあった?」


 そう思っていたら、田中さんが口を開いた。先を越されてしまった。彼女は、困った様子で田中さんに話し始める。


「実は、明日の座談会に参加予定のBAさんから連絡があって……」


 私はとりあえず、手を動かしながら耳だけ傾ける。


 座談会というのは、採用活動の一環として行われる、社員と就活生の交流を図るイベントだ。実際に現場で働いているBAや、BA経験者たちが先輩社員として駆り出される。


「明日、急なクレーム対応でお客様のお宅に行かないといけなくなって、こちらは欠席させてもらえないかということで……」


「あら、大変。前日なのに、困ったわねえ」


「分かりましたって答えていいのか判断がつかなかったので折り返しにしたんですけど、もし無理な場合は、お客様に日程を変えていただかないといけないので、早めに返事がほしいとのことで……」


「そしたら、早手さんに電話してみたら?」


 田中さんはそう提案する。私も同じことを思った。けれど彼女はためらう素振りを見せる。


「ただ早手さん、学生さんの対応をしている頃ですし……ご迷惑じゃないでしょうか……」


 すると、田中さんが言う。


「じゃ、部長に相談してみなさいな」


 彼女は意外そうに返す。


「えっ、いいんですか。こういうの、部長に聞いても」


「いーのよ、遠慮しなくたって」


「そう……ですよね。すぐ近くにいらっしゃるんですもんね」


 そう言って、彼女は席を立ち、部長席に向かった。


「――じゃあ、僕の方から、代わりにいい人がいないか聞いてみるから――」


 部長席からは、そう話す部長の声が届いてくる。私はしずかに入力業務を続ける。


 彼女は席に戻ると、慌ただしそうにPCに向かい、


「セミナーのスケジュールと概要のデータ、いまそちらに送りました!」


 部長席に向かって声を飛ばす。


 部長は「了解」と言って電話を手に取る。彼女は彼女で受話器を取る。


「――はい、こちらで代わりの方をお探ししますので――いえ、とんでもないです。また機会がありましたら――」


 そして、彼女はほっとした顔で電話を終えた。


「よかったわね」


 そう田中さんが言った。


 ◇


 早手さんが戻ってくると、彼女は、早手さんがPCの電源を入れるより先に声をかけた。


「午前中、明日の座談会に出席予定のBAさんから、クレーム対応で出席が難しくなったとご連絡がありまして……」


 彼女が続きを言う前に、早手さんは口を開く。


「分かったー。じゃあ明日はその子抜きでやるしかないね。どの子?」


 予想外の返答に、彼女は言葉につまったようだった。


「えっと、新宿店の大島(おおしま)さんっていう方ですが、その、いいんですか? 代わりの人に頼んだりとかは……」


「だって、座談会だし。先輩社員は何人もいるんだし。ほら、1人の社員に対して何人かの学生さんで机囲んで、っていうグループをいくつか作るわけでしょ? 机の配置を工夫してさ、1グループあたりの学生さんの人数を増やせばなんとかなるじゃない。そりゃあ、もうちょっと日にちの余裕があれば代わりも考えるけど、前日に急に頼まれたって現場も迷惑だろうし」


「あの、早手さん、実は……もう部長に相談して、部長が代わりの方を見つけてくださっていて……」


「ちょっと、それを先に……」


 彼女が言いにくそうに切り出すと、早手さんはあわてたように部長席に目をやった。そして、部長席が空なのを確認すると、一気に怖い声になる。


「ねえ、なんで勝手にそんなことしたの」


「すみません……」


「どうしてそう話を大きくするの。ちょっと工夫すればなんの問題もないことでしょ?」


「はい……」


「どうせなんにも考えずに、『部長のとこ持っていけば部長がなんとかしてくれるだろー』くらいに思ったんでしょ。部長の方はまさかそんなお気楽な気持ちで持ってこられたとは思いもしないから、一大事だと思って対応してくれたんでしょうよ。部長だって忙しいのにさ。現場だってびっくりだろうよ。いきなり人事部長から明日人出してくださいなんて言われてさ」


「はい……」


「一度こういうことすると、人事は現場のこと分かってないって思われちゃうんだから。そしたら次から頼みづらくなるでしょう」


「はい……」


「だいたい、代わりって言っても誰なの? そんな急につくろってきた人で大丈夫でしょうね」


「あ、上野店の関山(せきやま)さんって方で……」


「誰それ、知らないんだけど。こっちだって学生さんにアピールできるような人を選んで頼んでるのに、そんな聞いたこともない人で本当に大丈夫なんでしょうね」


「あの、そうしたら、今からやっぱりいいですって電話しましょうか……?」


「ねえ、なに言ってるの、あなた!?」


 早手さんは、声を荒らげた。


「部長が代わりが必要って判断して、わざわざ探してくれたのを、どうしてあなたが必要ないって言えるの! あなたいつ部長より偉くなったの!?」


「すみません……」


「だいたいねえ、あなた報連相がなってないの! そもそも最初に連絡があった時点で私に電話なりメールなりすればよかったじゃない! なんでそんな簡単なことができないの!?」


「早手さん、早手さん、私が部長に相談したらって言ったのよお」


 見兼ねたのか、田中さんが口を挟んだ。早手さんは一瞬口をつぐむと、彼女に尋ねる。


「なに、そうなの?」


「はい……」


 彼女が肯定すると、


「あっ、そうやって田中さんのせいにするんだ」


 意地の悪い口調で早手さんは続けた。


「社員のくせして、そうやってパートさんのせいにするんだ? なんのために高い給料もらってると思ってるの!? ねえ……」


 田中さんの擁護も、火に油だったようだ。彼女は小さく縮こまり、ひたすらに叱責を受ける。


 早く終わってほしい。この時間も、この時期も。


 この繁忙期が終われば、早手さんだってもっと落ち着くはずだ。普段の早手さんはここまでひどくない。それこそ、お菓子でも食べてのんびり談笑しながら仕事をするような人なのだ。


 つらい時期は、今だけだ。


 だからどうか、乗り切ってほしい。私は心の中で祈った。

次回は、3月28日(金)18時頃の更新予定です。

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― 新着の感想 ―
早手さんみたいな人、どこにでも一人はいますよね。 「あっ、そうやって田中さんのせいにするんだ」 この追撃がリアルでキツくて…凄い迫力です。
うわぁ、きっっついですね…… どんなスプラッターや暴力のシーンよりもグロいですよこれは…… と、オフィスワークを経験したことがない私ですらここまで思ってしまったので、人によっては相当忌避してしまう方も…
こういう人、たいていどこの職場にもいますね。 自分ができることは人もできて当然。日ごろの自分の態度も顧みず分からないことは聞いて当然。 そういう人に限って報連相だーってうるさいんですよね。 最初の印象…
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