白木蓮( は )
内田さんがこの会社に来て5日目の、金曜日。
彼女は今、早手さんに任された書類の束と格闘している。早手さんは外出中だ。書類の束を彼女に渡し、簡単に手順を説明すると、分からないぶんはよけておいて後で質問するようにと指示をして、会社を後にした。
私は私で、溜まった仕事を片づけるために、PC画面と格闘している。彼女が入社してくるまでは、退職者が出た穴を埋めるために私も採用業務を手伝っていたのだが、そのツケが今に回り回ってきている。これ以上自分の仕事を後に伸ばすわけにはいかない。
彼女が仕事を覚えてくれるのは、本当にありがたい。おかげで自分の仕事に専念できる。私は遅れを取り戻そうと、猛スピードでテンキーを叩いた。
一通りの入力を終え、印刷した書類を取りに席を立つと、ふと彼女の机が目に入った。付箋の貼られた書類が、何枚も重ねられている。おそらく「分からなくてよけてある」ぶんだろう。仕事は、進んでいるのだろうか。
田中さんも気になったのだろう。しばらくして、心配そうな声がした。
「どーお? 進んでる?」
「ええと……」言いよどんだのち、彼女は書類を田中さんに見えるように掲げた。「なかなか判断がつかないのが多くて……田中さん、この書類、やったことありますか?」
「あーそれは私じゃ分からないわねえ。早手さんが戻ってからだねえ」
「そうですか……」
私も少しだけ目線を上げて、その書類を見た。2、3回手伝ったことのある書類だった。けれど私も分からないぶんは早手さんに任せていたし、中途半端な知識で口を出してなにか間違いがあったら、早手さんにも彼女にも申し訳ない。
私はなにも言わず、目線をPCに戻した。
◇
早手さんは、戻ってきたと思ったらどこかに電話をかけ始めたり、部長に呼ばれてなにやら話し込んだり、席に戻ってきたと思ったら部長に言われた資料を取りに来ただけでまた部長のところに行ったりと、とにかく慌ただしくて、彼女が質問を挟む余裕なんてまったくなさそうだった。
やっと部長から解放されたと思ったら、今度は自分の仕事だろう、険しい顔でPCに向かい始めた。隣では彼女がチラチラと様子をうかがっているが、それに気づく気配はない。
さっさと話しかけてしまえばいいのに。そんなことを思っていると、早手さんのもとに一人の女性が近づいてきた。
「早手さん、お久しぶりです」
その声に早手さんは手を止めると、途端に笑顔になって立ち上がる。
「あらー、リコじゃない! 久しぶりー! どうしたのー?」
「珍しく出張でこちらに来たので、ごあいさつと思って」
「えー、嬉しいー! ねー、そっちはどう? みんな元気?」
店舗時代の後輩かなにかだろうか。早手さんはずいぶん嬉しそうだ。そしてそのまま、世間話が始まってしまった。それがなかなか止まらない。
いろんな部署の人とコミュニケーションをとるのは早手さん流の仕事術なのかもしれないが、さっきまでの忙しさはどこへいったのだろう。そんなことを思うほど、おしゃべりは続く。
「――すみません、仕事のお邪魔してしまって。そろそろ行かないと」
しばらくして、「リコ」のそんな言葉が聞こえてきた。ようやく終わるようだ。
「ううん、こっちこそー」早手さんはそう返す。しかし、すぐに言葉を続けた。「いつ帰るの?」
「土日のイベント挟んで、月曜に」
「えっ、じゃあ飲もーよ! 時間ある?」
「ありますー! 早手さん、いつがいいですか?」
そして、2人はスマホを取り出し、時間調整を始めてしまった。会話はまだ終わらないようだ。ちらりと目線を動かすと、彼女も残念そうな顔をしていた。
なんだかこっちがハラハラしてしまう。こんなことなら、私がさっき、彼女に声をかけてあげればよかっただろうか。早手さんが戻ってきたときも、ひとこと言えばよかっただろうか。内田さん、がんばってましたよ。でも、分からないところがあるみたいです。なんて。
そんなことが頭をよぎったが、私はそれを振り払う。
いけない、いけない。そういうのは、この職場ではもうやらないんだった。
前の会社にいたときは、周りに気を配ってばかりいて、いい人キャラになってしまって、それに耐えきれなくなって、会社を辞めることになったんじゃないか。
せっかくそれから見て見ぬ振りも覚えて、なにが自分の仕事かもわきまえられるようになったのに。
それなのに、まさか今更こんな気持ちになるなんて。
◇
仕事を終え、会社を出て夜風を浴びたところで、彼女と顔を合わせた。私の方が先に退勤したと思ったが、お手洗いに寄っている間に追いつかれたか。
彼女はあの後なんとか早手さんに質問をすることができたようだが、質問待ちで時間をロスしたぶんそれから忙しそうにしていた。とはいえ、一応は常識的な時間には帰らせてもらえたようだ。
先輩のたしなみとして、あいさつだけ交わして足早に去ろうとしたが、
「やっぱり夜は寒いですねー。昼間はあんなにあったかかったのに。貝原さんは、電車は何線ですか?」
立ち去る間もなく、立て続けに言葉を繰り出される。気を遣っているつもりなのだろうか。私は、会社を出て緩みかけた気を軽く締め直す。そして、使っている地下鉄の路線名を正直に答える。
「そうなんですね。私はJRですー」
彼女はそう返した。私はこっそり安堵する。
しかしそれだけで会話は終了した。人影もまばらになった時間帯の路地に、彼女のヒールの音だけが遠慮がちに響く。
こうして並んで歩いてみて、彼女が思っていた以上に背が高かったことに気づく。彼女がヒールで自分がぺたんこ靴だから、余計にそう感じるのかもしれない。どうしてもヒールは苦手で、つい楽をしてしまう。
そんなことを頭の片隅で考えながら、私は無難な質問を探す。
「慣れた?」と訊くのは少し早い気がする。今日でやっと1週間だ。分からないことも多いのに慣れたと答えるのは差し出がましいのでは、かといって慣れていないと言うと向上心が足りないと思われるのでは、などという無駄な葛藤を与えてしまいそうな気がする。
「……そういえば、内田さんはどうして六花本舗に入ろうと思ったの?」
「えっと……その……」
訊いてから後悔した。「慣れた?」以上に難しい質問を投げてしまったようだ。
「やっぱりその、ドラッグストアで働くなかで、化粧品に対して興味が湧いて……そのなかでもとくに六花本舗は、落ち着いていて堅実なイメージが……」
「あーごめん。そういうの、大丈夫だよ」私は口を挟む。「別に、部長や早手さんにしゃべったりしないし。私なんか、社会人3年目のときに、とにかく転職がしたくて何社か応募して、たまたま縁があったのがここってだけなんだ」
「そうだったんですね」
「うん。別に美容に特別興味があったわけでもなかったし」
事実だ。六花本舗の化粧品も、面接の前日になって初めて手に取った。転職ができればどこでもよかったのだ。なんとなく、彼女もそうなんじゃないかという気がする。彼女も同じく社会人3年目。そろそろ環境を変えたくなる頃だろう。オフィスワークがしたくなったのかもしれない。
「だから、面接と同じこと言わなくても、大丈夫だよ」
私は言った。それに対し彼女は、まっすぐに前を見て、口を開く。
「私は、実家を出たかったんです」
その言葉は、私の予想とは違っていた。
「もともと、就活の時点で、就職したら家を出るつもりでいたんです。それで、都内に本社のある全国チェーンのドラッグストアに就職が決まって、全国どこへでも行ってやるぞって気でいたんですけど、まさかの配属先が、実家の近くの店舗で……」
彼女は頭をかきながら続けた。
「それで、一応3年はがんばったんですけど、異動の話もなさそうですし、いっそ違う会社に行こうって思ったんです。……そうでもしないと、実家から離れる理由が作れなくて」
なんとなく、含みのある声だった。自立して偉いねと言葉をかけるのは、ちょっと違う気がした。なにか事情があるのかもしれない。いっそ聞いてほしそうなオーラを感じないでもないが、そこは深入りしないことにした。
「そっか。じゃあ、東京には来たばっかりなんだね。引っ越しとか大変じゃなかった?」
「あ、それが……」彼女は言いよどむ。「実は、引っ越し、日程が間に合わなくて……明日やっと入居なんです」
「そっか。入社までの日程、急だったもんね」
部長曰く、急な募集に対し、真っ先に応募をしてくれて、もっとも早い入社日を提示してくれたのが彼女だったそうだ。もちろんそれだけで選んだわけではないと言っていたが。
「――って、じゃあこの1週間、どこから通ってたの!?」
あやうくスルーしそうになったが、私はあわてて訊き返す。
「あ、あの、実家は2時間ちょっとで来られるところにあるので、普通に、実家から通ってました」
「そうだったんだ。いや、2時間って、大変だったでしょう……」
それなのに、わざわざコピー用紙を補充するために朝早く来ていたというのか。そうだと知っていれば止めたものを。
「――って、そういえば、入社書類の住所、東京になってなかったっけ?」
私はまたもやスルーしそうになった事実に気づき、思わず尋ねた。彼女はしまったという顔になる。
「そのう……最初の契約のときに、入社までに引っ越しできると思って新しい住所を書いてしまったので……後からやっぱり間に合いませんでしたと言うのもあれかと思って、どうせすぐに引っ越すんだし、黙っておこうと思ってたんでした……。そういえば、貝原さんが、そういうのご担当なんですもんね……」
彼女はしどろもどろにそう言った。
私はなにをやっているんだ。無難な質問を探したつもりで地雷を踏みかけてしまったり、会話の流れで余計な事実に気づいたり。でも、聞いてしまった以上は仕方がない。
「まあ気持ちは分かるし、責めるつもりもないけど、そういうのはちゃんと申告してね。この1週間の交通費だって、だいぶ変わってくるだろうし。自腹切らせるわけにいかないよ」
「すみませんでした……ええと、そうしたら……」
「来週出勤したときに、メモ書きでいいから私にちょうだい。もし私が忘れてても、必ずね」
「分かりました。余計なお手間をおかけてしてしまって、申し訳ないです……」
「いいよ、それが仕事だもん」
「はい……」
また沈黙が流れかけたところで、JRの駅が見えてきた。駅の明かりがいつもよりまぶしく見える。
「では……私、こちらなので」
「うん。おつかれさま」
「おつかれさまでした」
彼女は一礼すると、駅前の雑踏に消えていった。
一人になって、思い出したようにひんやりとした空気がただよう。
夜の空気はやっぱり冷える。うっかり今日も春のコートで出てきてしまったけど、もっと厚着をしてくればよかった。マフラーだって、してくればよかった。けど、真冬の大判のマフラーは、さすがにもうおかしいかな。
春が来るのはありがたいけど、冬の間はこんなこと考えなくて済んだのに。
そんなことを思っていたら、急に激しい風が吹き起こった。
次回は、3月21日(金)18時頃の更新予定です。




