第061話
八月八日、火曜日。
倖枝はこの日、三十五歳になった。今日から盆休みだが、勉強に頑張る咲幸を予備校に送り出すため、午前七時に起きた。
「ママ! 誕生日おめでとう!」
自室を出てリビングで、支度を終えた咲幸と顔を合わせると、笑顔で祝われた。
「ありがとう、さっちゃん……」
老けることの憂鬱は拭えないが、倖枝は素直に嬉しく、咲幸を抱きしめた。しかし、自分がまだ寝起きの状態だと理解すると、すぐに離れた。汗や口臭が気になり、恥ずかしかった。
「今日はサユがディナー準備するから、楽しみにしていてね! ……今年は作るの無理だから、買ってくるけど」
「ほどほどでいいからね……。それじゃあ、いってらっしゃい」
「いってきまーす!」
倖枝としては、咲幸には勉強に集中して欲しい。だが、咲幸の気持ちがとても嬉しく、無下には出来なかった。
ひとりになり、肩の力を抜いた。溜まった疲れと冷房下に長時間居ることから、気だるさを感じていた。しかし、不思議と眠気は無いので、二度寝をする気にはなれなかった。
仕方なく洗濯機を回すと、トーストとドリップコーヒーを準備し、朝食にした。
結局のところ、今日の十一時から納車式があることを咲幸に伝えていない。一緒に行きたいのは山々だが、そのために予備校を休ませてはいけなかった。
次に自動車を買い換えるのは何年後か分からないが、その時は一緒に行こうと思った。
朝食を済ませ洗濯を干し、朝のワイドショーを観ていると、時刻は午前九時半になった。そろそろ出かける準備を始めようとした、その時――インターホンが鳴った。
倖枝はなんだか嫌な予感がして、カメラを確かめると。
「……あんた、予備校は?」
嫌な予感が的中した。月城舞夜の笑顔が映っていた。
居留守を使うという思考が働かず、思ったことをマイクに告げた。咲幸と一緒に今日も予備校に通っているはずなので、この場に居るのはおかしい。
『今日はお腹が痛いんで、お休みです』
言葉の割には、満面の笑みだった。
もはや嘘すらつかないのだと倖枝は理解し、怒る気にもなれなかった。呆れると同時、マンション入口を解錠した。
しばらくして、部屋に舞夜が姿を現した。ここまでの流れは、数日前と同じだった。
フリルの付いた薄いピンクのブラウスと、青い膝丈スカート。今日は随分と子供っぽい格好だと、倖枝は思った。
「お母さん、お誕生日おめでとうございます」
舞夜は下ろした両手を前方で重ね、丁寧に辞儀をした。
言動は無茶苦茶だが淑やかさはしっかりと備わっているため、倖枝は不思議な印象を受けた。突然の訪問といい、理解が追いつかないが――だからこそ、ふとした疑問が浮かんだ。
「あれ? あんたに私の誕生日言ったっけ?」
「何言ってるんです? わたしとお母さんの仲じゃないですか」
意味不明な回答を無視し、倖枝は考えた。
咲幸が話した可能性がある。他には、舞夜の未成年後見人への申し出の際、必要書類としての戸籍謄本を舞人に渡した。そこに記載されている生年月日から知られた可能性もある。
どちらかというと後者なのだろうと、倖枝はひとり納得した。
「それで? 予備校サボってまで何しに来たのよ?」
「お誕生日をお祝いに来ちゃいけませんか? プレゼントを持ってきました」
舞夜はベージュのハンドバッグの他、暗い金色のショップバッグを持っていた。倖枝も知っている、有名な高級宝飾品ブランドの銘が書かれていた。
「ちょっと、あんた。それ――」
倖枝が驚くも、舞夜はショップバッグから大きい箱を取り出した。箱も暗い金色であり、天面には円と正方形の細かい模様が網状に並んでいた。
それをダイニングテーブルに置き、舞夜が開けた。中には小箱が納められており、さらにそれを開けると――イエローゴールドの長いチェーンを取り出した。
「お母さんは、いっつも安物のアクセサリーしか着けてませんからね。一個ぐらい……こういうの持っていてもいいと思いますよ。わたしは、カッコいいお母さんが好きです」
舞夜が両手でチェーンを持つと、丸いものが下に垂れた。
倖枝は一瞬、厚い指輪にチェーンが通っていると思った。しかし、指輪にしては小さいので、チェーンを含めそれがネックレスだと理解した。実際、有名な円形競技場から着想を得て図案されたそれは、同ブランドで指輪としても在ることを、倖枝は知らない。
「あ、ありがとう……」
十七歳の少女からこのようなものを贈り物として渡されても、本来なら受け取らなかっただろう。屈辱とさえ感じたかもしれない。だが、倖枝は少女の正体を知っているので――渋々受け取った。
このような『ブランドもの』は購入したことが無いため、現在まで無縁だった。まして、他者から贈られたことも無かった。
初めての経験だった。誕生日にこうして祝われた嬉しさ、そして完全には消えない情けなさが入り混じり、複雑な心境だった。
「別に、毎日着けなくてもいいですからね」
舞夜に後ろに立たれ、倖枝は首筋の髪を上げた。タンクトップとスェットパンツ姿だが、舞夜から高級宝飾品をそっと着けられた。
首にぶら下がったイエローゴールドの――指輪のようなものを手に取ると、一周の縁に小さなダイヤモンドが埋められているのが分かった。
宝飾品には疎い倖枝だが、それでも知っているブランドだ。おそらく数十万円――いや、ダイヤモンドを含めると百万円近い代物だと思った。
しかし、この少女にとっては大した買い物ではない。『倖枝が受け取る範囲で最大限のものを用意して喜ばせたい』という意味では、まさに最適な一品だろう。
「……本当に貰ってもいいの?」
「似合ってますよ。歳を取るのは嫌かもしれませんけど……このブランドがしっくりくるのは、素敵です」
舞夜は答える代わりに倖枝の正面に立ち、微笑んだ。
言葉の意味が倖枝にはよく分からないが、老けたことを貶されているのではないように感じた。
「お母さんにとって、素晴らしい一年になるといいですね」
無邪気な笑顔を向けられた。
倖枝はそのようなことをするつもりは無いが、この贈物を売却されると舞夜は思ってもいないのだろう。
純粋さが倖枝に伝わり、舞夜の頭を撫でた。
「母親の心配して、こんな大層なもの用意して……とっても嬉しいわ」
舞夜がこれを選んだ意図を思い出した。節介だが、とても嬉しかった。
しかし、それも束の間――
「それじゃあ、そろそろ着替えてください。行きましょうか」
少女に無垢な笑顔のまま見上げられ、倖枝は再び嫌な予感がした。『連れて行きます』ではなく『連れて行ってください』の意味で聞こえた。
今日の外出先は、ひとつしかない。
「……行くって、どこに?」
「今日、納車式でしょ? 咲幸から聞きましたけど」
やはり、倖枝にとって嫌な予感が再び的中した。
伝えた咲幸に悪意は無いのだろうが、誤魔化すことが出来なくなり、代わりに頭を抱えた。
「わかったわよ……。ちょっと待ってなさい」
倖枝は素直に降参した。贈物を渡すよりも、このために予備校を休んだとさえ思った。
うるさい存在に付き纏われて鬱陶しいが、ひとりで行くことに少なからず抵抗があったので、良いように考えた。この令嬢は高級車ブランドに対し、最高の味方になるだろう。
倖枝は今日のために通信販売で用意した、タイトワンピースに着替えた。普段は滅多に着ない衣類だ。人柄から水商売のようにならないか危惧したが、グレンチェック柄のため、落ち着いた雰囲気に見えた。腹部の余計な盛り上がりもないため、安心した。
仕事で使用している腕時計を、右手首に着けた。鏡を見ると、舞夜からの贈り物であるネックレスが映えていた。
舞夜は、どのブランドの納車式かを知らないはずだが――まるで、この行事のために用意したかのように思えた。とても心強かった。
黒いリネンジャケットを肩に羽織り、サングラスをかけた。優雅さと知的さを兼ね揃えたように見えると、倖枝は自画自賛した。あのブランド車に相応しい人物だと思った。
「わぁ。お母さん、今日はカッコいいです」
舞夜からもそのように言われたので、自信を持った。
「今日はじゃなくて、いつもよ。さあ、行くわよ」
倖枝は照れるが、表情には出さなかった。
無理をして装っている自覚はあった。咲幸には見せたくなかった。
*
倖枝は自動車に舞夜を乗せ、ディーラーへと向かった。現在の自動車は、下取りに出す。
L字標章の看板の店に到着すると、駐車場から入口にかけて既に、従業員達から手厚い歓迎を受けた。試乗や契約の時以上だった。
「ほら。お母さんの名前書いてますよ」
入口にウェルカムボードが飾られていた。
倖枝の店でも予約客を迎える際は用意するが、いざ迎えられる立場に立つと、嬉しさと恥ずかしさが入り混じった。
世間は平日の午前十一時であるため、店内に他に客の姿は無かった。
「嬉野様、いらっしゃいませ。……そちらの方は、娘様ですか?」
入口で、店長らしき男性に迎えられた。隣には担当の者が居た。
「はい! 娘です!」
倖枝が否定するより早く、舞夜が倖枝の腕に抱きつき、代わりに答えた。
先に宣言をされると撤回出来ないので、倖枝はサングラスを外して愛想笑いを浮かべた。
「なんともまあ、お綺麗な娘様ですね。とても素敵な母娘じゃないですか」
「ありがとうございます……」
営業の世辞であると理解していても、そのように言われると倖枝は悪い気がしなかった。
今日の舞夜は幼い格好をしているが、それでも月城の令嬢として、上品さと淑やかさは健在だ。首にぶらさがっているものよりも宝飾として価値のある存在だと、倖枝は思った。
従業員の中で、舞夜の正体を知る者はおそらく居ないだろう。舞夜の思惑通りに運んだが、この場は母娘として立ち振る舞うことを倖枝は選んだ。
店内のガレージに、購入した白いSUV車が見えていた。しかし、まずはラウンジのテーブルに通された。
保険や下取り等も含め、契約内容を再確認された後、鍵を渡された。
ようやく、ガレージへと案内された。
倖枝としては改めて車内を覗きたいところだが、そうはいかなかった。スーツ姿やツナギ姿の男性達に加え、制服姿の女性達も――店内の全ての従業員達から、ガレージを囲まれた。
「おめでとうございます!」
そして、自動車の前で店長から大きな模造品の鍵を渡された。従業員達から一斉に拍手も贈られ、倖枝は驚いた。
視界の隅では、舞夜も拍手していた。
「あ、ありがとうございます……」
倖枝は嬉しさよりも恥ずかしさが込み上げ、はにかみながら小さく会釈した。
拍手が鳴り止むと、カメラを携えた男性従業員が前方に現れた。倖枝と舞夜を残し、店長が離れた。
「撮りますので、笑ってください」
舞夜が倖枝の腕にしがみつき、倖枝を見上げた。
無邪気な笑顔に、倖枝も自然と笑みが浮かんだ。そのまま、カメラの方を向いた。
――悪くない感覚だった。
格好良く着飾って出かけ、上品な娘と仲良く笑い合う。写真として記録に残そうとされている現在、この場では本当の母娘として認められているかのようだった。
もしも、自分にまともな旦那が居て、まともな家庭を持ち、まともに咲幸を育てられたなら――このような未来があったのだろうか。
倖枝はそのようなことを思いながら、カメラのフラッシュライトを受けた。
前方の従業員がすぐ、カメラの画面を見せた。思っていた通り、舞夜とは母娘のように映っていた。
満足のいく画に頷くと、店内に突然、大きな音が鳴り響いた。
「ひゃっ!?」
倖枝は驚き、身体が一度だけ大きく震えた。周囲を見渡したところ、従業員が一斉にクラッカーを鳴らしていた。
「ふふっ」
倖枝の反応を見て、舞夜が笑っていた。
恥ずかしさを誤魔化すように、倖枝は舞夜の頭をくしゃっと撫でた。
舞夜が携帯電話を従業員に渡し、そちらでも写真を撮って貰った。
その後、ラウンジのテーブルに移され、アイスコーヒーを出された。持ち帰る書類の準備を待たされた。
中古車とはいえ、噂通りの派手な納車式だったと倖枝は思う。過去、他店で受けたものとは比べ物にならなかった。気疲れこそしたが、来てよかったと満足した。
「舞夜が居て、助かったわ。私ひとりだと、このノリに耐えられなかったもん」
前方の舞夜は、記念品として貰った熊のぬいぐるみを抱きしめながら、オレンジジュースを飲んでいた。服装といい、倖枝の目には実年齢以上に幼く見えた。
「あんたさ……納車式、今まで来たことあるの?」
場馴れしているようには見えなかった。しかし、自動車を運転できない未成年とはいえ、月城の人間としてこれが初めてではないだろう。
「まあ、何度かありますけど……」
予想通りの回答だが――倖枝はどうしてか、残念に感じた。
首からぶら下がった高級ネックレスを、指先で弄んだ。
「でも……今日のが一番楽しかったです」
舞夜は笑顔で、熊のぬいぐるみの腕を挙げて見せた。そして、携帯電話を触った。
携帯電話のメッセージアプリで、舞夜から先程の写真が送られてきた。それを見下ろし、倖枝は微笑んだ。
そのようにしていると、店長が紙袋を持って現れた。
「お待たせしました。こちら、お持ち帰り頂く書類と……写真になります」
紙袋から平たい化粧箱を取り出し、中を開けて見せた。先程この店のカメラで撮った写真が、写真立てに収まっていた。
「ありがとうございました。また何かあれば、お邪魔します」
倖枝は紙袋を受け取り、立ち上がった。
最後まで、従業員総出で見送られた。倖枝はようやく新しい自動車に乗り、ディーラーを出た。
「これよ、これ! 見晴らしいいわよね」
乗り心地の良さだけでなく、中古車であることを感じさせないほど内装は綺麗だった。
以前から欲しかったものを、この日にやっと手に入れた。倖枝は気分が上がり、ドライブのつもりで適当に走った。
「写真、舞夜にあげるわ。……さっちゃんには絶対に見せないでよ?」
赤信号で停止した際、助手席に座る舞夜に、後部座席を指して見せた。ディーラーで預かった紙袋が置かれていた。
倖枝が写真を持ち帰ったところで、咲幸から隠すことになる。飾る機会が永遠に訪れないと思い、舞夜に譲った。
「いいんですか? ありがとうございます! 大切にしますね!」
「それだと私も嬉しいわ……」
倖枝にとっても、気に入った写真だった。
それ以上に、舞夜にとってはどうなのか――ネックレスの確かな重みと共に、倖枝は舞夜の嬉しそうな笑顔を一瞥した。写真を譲るのは、このネックレスに対する礼の意味も含まれていた。
「ねぇ。お腹空いたでしょ? どこかでランチしようか?」
特に行き先も無いまま走り、時刻は午後一時になっていた。
「わたし、冷たいお蕎麦が食べたいです。美味しいお店、知ってるんですよ」
信号が青に切り替わり、倖枝はアクセルを踏んだ。
舞夜の案内で、蕎麦屋へと向かった。これがこの自動車での、最初の目的地だった。




