第033話
「ええ。お久しぶりです、お母様」
薄い青色のミディドレスに身を包んだ月城舞夜は、肩のストールを掴みながら、下卑た笑みを浮かべた。
宴会場のテラスには、三人の他に誰も居なかった。それがまだ幸いだと、倖枝は思った。冷たい夜空の下――寒さを忘れるほど、凛とした緊張感が漂っていた。煙草を吸うという本来の目的も忘れていた。
恐る恐る、隣の御影歌夜に振り返った。
「そうね……。貴方がここに居ても、珍しくないわね」
歌夜からは、最近まで見せていた柔らかな雰囲気は無く、つまらないものを見るような目で少女を眺めていた。
「あの人の代わりに来たの?」
「いいえ。わたしは、わたしの意思でここに居ます……。お母様と違って、他の方々と有意義な話をしていると思いますけど?」
倖枝は、ふたりの会話があまり理解できなかった。
舞夜は自分の都合でこの宴に参加し、他の客達と親睦を深めている――何か、金銭に関わる話をしているように思えた。
ただ、クスクスと笑う様は、明らかに歌夜の神経を逆撫でしていた。
「やめなさい! 私はもう、貴方の母親じゃないのよ!?」
かつて『月城歌夜』だった人物は、かつて自分の娘だった少女に怒鳴った。
明確な拒絶を突きつけた。
「ちょ――御影様」
倖枝は流石にまずいと思い、苦笑しながら歌夜を制止した。
ガラス張りの壁の向こう――会場内を確かめるが、誰もこちらに目を送っていなかった。どうやら、歌夜の怒鳴り声は聞こえていないようだった。
「嬉野さんに忠告しますけど、この人は実の娘を平気で捨てる人ですよ? せいぜい切られないように、注意してくださいね」
怒鳴られても、舞夜は動じることなくまだ笑っていた。それどころか、先ほどより表情が歪んでいるように倖枝には見えた。
舞夜の台詞に、倖枝は違和感があった。
歌夜との関係――顧客としての付き合いであることを、舞夜は知っているはずだ。こうして仲介契約を結んでいる以上、切るということはあり得ない話だ。
だから、その台詞が自分にではなく、歌夜を遠回しに煽っているのだと、倖枝は理解した。
「舞夜! 貴方ね!」
その意図はやはり歌夜に通じ、再び声を荒らげた。
――この場合、どちらの肩を持つべきなのか、倖枝は両者を天秤にかけた。
どちらとも面識があるので、立場としては中立だった。それが厄介だった。
付添としてこの場に居るならば、普通は歌夜側につくべきだろう。
しかし、私情では、舞夜との対立は避けたかった。そして、何より――
「御影様、落ち着いてください。……舞夜ちゃんも、お母さんに向かってそういうこと言わないの」
単純に、母娘の喧嘩を見たくなかった。
歌夜の気分を損ねるかもしれないが、倖枝は中立らしく、ふたりを仲裁することを選んだ。
「わたしは――」
舞夜が勢いのまま何かを言いかけた。しかし、開いた唇は閉じ、口角が下がった。
やるせない表情で俯いた。
「……嬉野さん。私、先に戻ってるわね」
歌夜は踵を返すと、素っ気なく言い残して室内へと戻っていった。
「すいません。一本吸ってから、すぐに戻ります」
倖枝がこの場に残ったのは、歌夜に向けた中立の意思表示のつもりだった。
――いや、舞夜をこのまま放って置くのは気が引けたからだった。
倖枝は舞夜を横目で見ながら、ストーブから少し離れた喫煙スペースへと歩いた。
「さっぶ」
緊張から解かれたのとストーブの熱から離れたのが同時であるため、強烈な寒さに襲われた。歯をガタガタと震わせながら、倖枝は加熱式煙草の電源を入れた。
すぐに、喫煙スペースにひとつの人影が現れた。
その人物は左隣に立つと、倖枝の肩にもたれ掛かった。
「まさか、ここであんたと会うとはね……。ビックリしたわよ」
倖枝は煙草を一口吸うと、隣を見ることなくぽつりと漏らした。
風は冷たいが、テラスから見下ろす都心の街明かりは、とても綺麗だった。この高さでは、星も明るく輝いているように見えた。
「ただの偶然? それとも……私らがここに来るの、知ってた?」
「さあ、どうでしょう……。秘密です」
舞夜は答えなかった。
倖枝としては、確率はそれぞれ半々だった。どちらにも捉えることが出来るため、分からなかった。
「頑張ったわね。あんまり褒められた態度じゃなかったけど……」
その言葉と共に、倖枝は左隣を見た。
肩にもたれ掛かった舞夜の頭は動くこと無く、正面を――夜景を眺めているようだった。
「……」
無言の舞夜から、返事の代わりに左手を握られた。
その手はとても冷たく、そして震えていた。
――きっと、寒さだけのせいではない。
あれだけ威勢が良かったのに内面は怯えていたのだと、倖枝は思った。
かつて、自分が娘と向き合えなかったように――この少女もまた、母と向き合うことが怖かったのだ。
「あんたのお母さんはお客さんだけど……私は、あんたの味方でもあるからね……」
倖枝はその言葉と共に、舞夜の冷たい手に指を絡め、力強く握った。小指に嵌っている指輪の感触が伝わった。
すぐに震えは止まらなかったが、しばらくして落ち着いた。
「……倖枝さん、初めてわたしのこと『舞夜ちゃん』って呼んでくれましたね」
「はい?」
舞夜の微かに笑みを含む声に安心したが、言葉の内容は呆気に取られた。
そういえば、歌夜との間を制した時に確かに呼んだと思い出した。
「いやいや。初めてなことないでしょ?」
普段から割と呼んでいる気がしていたが、それは咲幸との会話内であった。
それでも、本人を前に一度ぐらいは呼んだことがあると思った。
「わたしにとっては、初めてなんですよ。いっつも『あんた』呼びされてるの、地味に嫌だったんですから……」
舞夜は顔を上げた。無邪気な笑みを浮かべていた。
「お母さんには……舞夜って呼んで欲しいです」
この少女の言う『お母さん』に、倖枝は歌夜の姿を真っ先に思い浮かべた。現に、歌夜が先ほど舞夜を呼び捨てにしていたのが、印象的だった。
だが、自分との擬似的な母娘関係であることを――ふたりきりの時はそう呼ばれていることを、倖枝はすぐに思い出した。
「舞夜……。これでいい?」
倖枝は照れるのを隠す代わり、舞夜の頭を右手で撫でた。
呼び慣れない注文を受けてもすぐに適応出来ないかもしれないが、なるべく意識はしようと思った。
「ありがとうございます――お母さん」
薄暗い寒空の下、舞夜が満足気に微笑んだ。白い息が消えた。
「それじゃあ、私そろそろ戻るわね。また近い内に連絡するから、会場内で……ちょっかい出さないでよ?」
「わかりました」
舞夜を気遣う意味で、倖枝は立ち去り際に、歌夜の名前を出すことを躊躇した。
こうして舞夜と話を合わせたとはいえ、ふたりがなるべく近寄らないよう注意しようと思った。
「すいません、遅くなりました」
「おかえりなさい。それじゃあ、続き紹介するわね」
会場内で歌夜を見つけ、合流した。
テラスでの素っ気ない雰囲気ではなく、和やかに迎えられた。切り替えの要領の良さに、曲者だと倖枝は思った。
再び歌夜に付き添い、様々な客人を紹介された。警戒していたが、それから舞夜の顔を見ることは一度も無かった。
午後九時頃、パーティーが閉会気味の空気となったため、歌夜と帰路についた。
車内では、感想と雑談が終始続いていた。
歌夜の部屋に戻るとすぐ、歌夜はドレス姿のままソファーにうつ伏せで倒れ込んだ。
「御影様、大丈夫ですか?」
だらしないと思いながらも、倖枝はソファーに近寄った。
「ごめんなさいね。なんだか疲れたわ……」
歌夜は約二時間、会場内では笑顔を絶やさなかった。酒にどの程度強いのか分からないが、それなりに飲んでいるはずだ。それでも酔っている素振りは無く、常に一定の気分で数多くの人間と接していた。
貴婦人として場馴れした立振舞だった。しかし、心身共に負荷が掛かっていることを、営業職の倖枝は理解していた。
そして、思いがけない人物までが現れたのだ。堪えて当然だと思った。
「本日は、ありがとうございました。とても実のあるパーティーでした。感謝しています」
ソファーに突っ伏している歌夜からはこちらが見えないが、それでも倖枝は頭を下げた。
「着替えておいとましますので、早めにお休みください。ドレスはクリーニングのうえ、お返し致します」
「クリーニングはいいわよ。私の方で一緒に出しておくから、置いておいて」
歌夜はむくりと起き上がり、ソファーに座った。気だるそうに頭を抑えながらも、ソファーの片側に寄って空きを作った。
「……ちょっと、座ってくれない?」
歌夜に言われるまま、倖枝は歌夜の左隣に座った。
本心としては、明日も仕事があるので、早く帰宅したかった。
「しんどかったけど、楽しかったわ。やっぱり、誰かと一緒にお出かけするのはいいわね」
「御影様も楽しまれたなら、何よりです……」
疲れた表情で大げさに笑う歌夜に、倖枝は苦笑して相槌を打った。現在になって酔いの回ってきた可能性を危惧した。
「ビジネスの関係だけど、貴方と出会えてよかったと思うわ……。どうかしら? 私とお友達になってくれない?」
面倒な話になってきたと、倖枝は思った。
顧客と度を過ぎた親密な関係になってはいけない。定期的に行われている社内研修で、社内倫理のひとつとして聞かされていた。企業として、顧客との厄介事は避けたいからであった。
今回のパーティー同行は、それに該当しているのかもしれない。法務部に知られたなら、詰められる可能性があった。
しかし、倖枝としてはあくまでも営業活動の一環であった。
「御影様に釣り合いませんが、私でよければ……。よろしくお願いします」
言い訳にならないのかもしれないが、所詮は表面だけの関係だった。利用するだけの繋がりに過ぎなかった。
それに――あの館の売却が済むまでだ。
歌夜が大金を手にした後、祖国に帰ると聞いているので、倖枝は頷いた。会社に知られることはないと踏んだ。
「ありがとう。早速なんだけど、ちょっと甘えさせて……」
いつになく弱々しい声と共に、歌夜は倖枝の右肩にもたれ掛かった。
やはり、現在になって酔っているのだと倖枝は思った。酒の力でこうして本心を曝け出していた。
だが、それは倖枝にとって関係なかった。
ふざけないで――今すぐにでも、そう拒みたかった。奥歯を噛み締めて、我慢した。
弱さを預ける相手。温もりを求める相手。孤独を埋める相手。それに、自分が選ばれた。
歌夜にとっての倖枝は、倖枝にとっての須藤寧々なのだ。自分がそうであるから、痛いほどに理解した。
虫唾が走るほどの同族嫌悪だった。類似点がさらに見つかったため、以前よりも悪化していた。
だからこそ、苛立つのに――放っておけなかった。
彼女を否定することは、即ち自分自身を否定することになる。
なんて憐れな女なんだろう……。
歌夜を、そして自分をそのように思いながら、行き場の無い憤りに打ちひしがれていた。
「うん……。ちょっとだけ元気出たわ」
「それはよかったです。おひとりで暮らしていると、寂しくもなりますからね……」
身を起こした歌夜に、倖枝は皮肉の意味で、精一杯の笑顔を作った。
「そうなのよ。ねぇ……近い内に、ふたりで飲まない? いつ空いてる?」
遅かれ早かれ、こう誘われる予感はしていた。しかし、まさかこれほど早く誘われるとは思わなかった。
倖枝はいい加減に溜め息をつきたかったが――これほど早いからこそ都合が良いと、気づいた。
「でしたら、私の週末が次の月曜日になりまして……十六日はどうでしょうか? どこかのお店、抑えましょうか?」
「わかったわ、十六日ね。店に行かなくても、ここでいいわよ」
「かしこまりました。それでは、午後九時前ぐらいに参ります」
そう。おそらく、歌夜がここまで精神を擦り減らした原因である――舞夜に関する話を、日の浅い内に聞きたかった。この母娘に一体何があったのかを、いい加減に知っておきたかった。
倖枝はソファーから立ち上がると、衣装部屋に移り、ドレスからスーツに着替えた。
「うんと美味しいワインと料理を、準備するわね」
「楽しみにしています……。それでは、おやすみなさい。失礼します」
玄関まで歌夜に見送られ、倖枝は歌夜の部屋と、そしてマンションを後にした。
寒空の下をコインパーキングまで歩きながら、今夜のことを振り返った。
歌夜と舞夜、かつての母娘が対面した。いがみ合ったので、仲裁に入った。そして、ふたりがそうなった原因に興味が湧き、訊き出そうとしている。
――それを知って、どうしたいのだろう。
確かに中立の立場だが、わからなかった。知らないよりは知っておいた方がいい、という程度だった。
ただ――クリスマスに、涙を流しながら何かを訴えていた舞夜の顔が、ぼんやりと浮かんだ。




