第114話
須藤寧々とNACHTで酒を飲んだ倖枝は、ふたりでラーメン屋へと足を運んだ。
夕飯を摂り、そして帰路についた。寧々と身体を重ねる気分では無かった。
「おかえり、ママ」
午後十一時半頃に帰宅すると、リビングで私服姿の咲幸に出迎えられた。その後ろには、ソファーにリュックサックが置かれているのが見えた。
「さっちゃんも、現在帰ったの?」
「うん。バイトの後、舞夜ちゃんのところに寄って……ご飯食べて、喋ってたの」
「自転車で帰ったの?」
「そうだよ」
ヘラヘラしている咲幸に、よく無事に帰ってこられたと倖枝は思った。気持ちよく酔っていたが、一瞬で冷めた。
暗い夜道をひとり、さらにはクロスバイクで帰宅したのだ。
とても危険な行為だが――実際に危険を感じる、もしくは自動車を運転する身ではないと理解できないだろう。咲幸はまだ自動車学校で場内運転の段階なので、難しいと倖枝は思った。
「あのね、さっちゃん……。遅くなるならタクシー使うか、泊めて貰いなさい」
とはいえ、倖枝は注意するしかなかった。大学生になる身としては、今後さらにこのような機会が増えると思うので、念を押した。
門限を定めることもクロスバイクの使用を禁じることも無いが、節度ある行動を取って欲しい。
「はーい」
どこかいい加減な返事は、本当に理解しているのか、倖枝にはわからなかった。しかし、気怠さからこれ以上うるさく言う気にはなれず、呆れた。
その時、キッチンに設置されている給湯器のリモコンが、風呂が沸いたことを告げた。
「ねぇ、ママ。一緒にお風呂入ろうよ」
倖枝としては、帰宅すると既に咲幸が入浴を済ませていると思っていた。すぐ風呂に入るはずだった。
疲れとアルコールから、現在は眠気に襲われていた。風呂よりも早く寝たいところが、ただでさえ寝付きが悪いので、入浴で身体を温めて眠りたい。かといって、咲幸を待ってもいられない。
「わかったわ」
浴槽が狭くなるのは嫌だが、仕方なく頷いた。
いや、受験を終えた咲幸が後に入ればいいのに――これまでの習慣から、言えなかった。
「やった! おっふろー!」
咲幸は幼い子供のようにはしゃぎながら、自室へと入った。
倖枝も自室でスーツを脱ぎ、入浴の準備を行った。
洗面所で化粧を落とし、髪をまとめた。
そして、浴室に入った。シャワーでかかり湯を浴びると、浴槽に入浴剤――就寝の直前なのでラベンダーのものを入れ、肩まで浸かった。
少しの間を置き、咲幸も浴室に入ってきた。椅子に座り、頭から、まずは身体を洗うようだった。
「しつこいようだけど、明後日は空けてるわよね?」
倖枝は咲幸の背中に視線を向けたまま、訊ねた。
「うん。流石に、忘れるわけないって」
「家を買う機会なんて、人生で何回も無いんだからね」
モデルハウス購入にあたり、売買契約に咲幸を同席させることになっていた。
契約自体に咲幸は不要だが、貴重な経験のため、社会勉強のつもりだった。もっとも、咲幸にとって一連の流れを理解するには難しく、つまらないものになるだろうが。
「新しいお家、楽しみだなぁ」
「そうね。引っ越しはまだ先になりそうだけど……引き渡しさえ終われば、とりあえず住めるわよ」
月城舞人から、モデルハウスは家具をそのままにして譲ると言われた。
倖枝は内装を全て把握していないので、不要なものが中にはあるかもしれない。それでも、とても嬉しい申し出だった。彼の純粋な善意なのか、もしくは撤去が面倒なのか――或いは同情なのか、真意はわからないが。
新生活の準備が楽になったとはいえ、引っ越しが問題だった。現在の引越し業者は、現在が一年で最も忙しい時期だ。頼もうにも日時の空きが無いうえ、倖枝としても今月いっぱいは多忙であるため、進められない。引っ越しはおそらくゴールデンウィーク頃になるだろうと、倖枝は思っていた。
「そうだ。波瑠ね、実家出てひとり暮らしするんだけど、一緒に住まないかだって。こっちは新築だっていうのにさぁ」
咲幸が笑いながら話した。
倖枝はさらに腰を落とし、天井をぼんやりと見上げた。
咲幸にとっては冗談のように聞こえたとしても、波瑠が真剣に誘ったことを知っている。そして、咲幸が断ることは――想定内だった。
咲幸の選択が正しいはずだが、倖枝はどこか腑に落ちなかった。
「ひとり暮らしで寂しくなると思うから、遊びに行ってあげたら?」
それを払拭するように、嘲笑った。
「さっちゃんはさ……ひとり暮らしやってみたいとは思わないの? 同級生で、波瑠ちゃんだけじゃないでしょ? もしも、母さんが家を買わなかったとしたら、どうだった? 波瑠ちゃんと暮らしたかった?」
しかし、違和感のようなものが離れなかった。天井を眺めたまま、訊ねた。
咲幸の答えはわかっていた。ただ、確かめたかったのだ。
「そりゃ、ひとり暮らし始める子、他にも居るけどさ……サユには考えられないや。ていうか、サユには無理だよ」
やはり、倖枝の思っていた通りの回答が、苦笑と共に返ってきた。
咲幸にひとり暮らしを出来るだけの生活力があることを、倖枝は知っている。生活力が無いから『無理』なのではない。
きっと、親から離れることが出来ないと言いたいのだ。
「でも、母さん……ひとり暮らし出来る子、偉いと思うわよ」
倖枝は咲幸を否定すると同時、本心を語った。
親からの仕送りはあるだろうが、それでも家事をこなし、最低限の生活力を備えている十八歳は凄いと思う。倖枝がその歳の頃は、考えられなかった。
「偉くなくたっていいよ。サユは、まだママと一緒に居たいな……」
咲幸は拗ねる様子がなく、小さくぽつりと漏らした。
いつまで一緒に居るつもりなのだろうか。倖枝は疑問に思うも、訊ねなかった。
咲幸の言葉が聞こえなかった振りをして、話を流した。
「ていうか……来週の卒業旅行で、ホームシックになるかもね」
「もうっ。たかだか二泊三日でしょ?」
倖枝は気分を切換え、咲幸と冗談のように笑い合った。
十八日の月曜日から、咲幸は波瑠ら同級生らと卒業旅行に出かける。ハロウィンの時に行きたがっていた国内大手のテーマパークと、周辺の有名な寺だ。卒業旅行としては、よくある行先だろう。
かつて、咲幸は倖枝と共に行きたがっていた。倖枝もまた同じ気持ちだったが、この時期にこれ以上は仕事を休めないため、断った。
「舞夜ちゃんが行けないのは、残念だけどね」
舞夜もまた、用事があると断った。
もっもと倖枝が思うに、波瑠らも居るのだから『用事』が無くとも舞夜は同行しなかっただろうが。
「仕方ないわよ……。母さんと舞夜ちゃんの分まで、楽しんでらっしゃい」
「はーい。お土産、買ってくるね。でもさ……落ち着いたら、舞夜ちゃんと三人で、どこかに旅行しようね。もう春なんだし、お花見もしたいな」
全身を洗い終えた咲幸が、タオルで毛髪をまとめ、浴槽に入った。湯が溢れ、こぼれた。
倖枝は天井から前方へと視線を戻すと、咲幸が微笑んでいた。
咲幸の語るその夢を、想像できなかった――いや、してはいけなかった。
「そうね……」
しかし、この場は頷かざるを得なかった。
倖枝は風呂から上がると水を飲み、歯磨きや肌の手入れ等、就寝の準備を行った。
時刻は午前一時であり、眠気が限界だった。それにも関わらず――
「ねぇ、ママ。一緒に寝てもいい?」
咲幸から、とても元気な笑顔で訊ねられた。眠気が全く無いように見えた。
出来ることなら、倖枝は断りたかった。しかし、思考が虚ろになっている現在、中身の無い説教じみた論調になると思った。
「ええ、いいわよ」
そして、面倒臭いことも相まって、風呂と同じく仕方なく頷いた。
「うん! 寝よ!」
倖枝は自室のベッドで横になると、咲幸が入り込んできた。
こうして一緒に寝ると、受験前日のことを思い出した。あの時は、受験のためだと思ったが――現在は違う。
強い眠気に襲われ、倖枝の意識はすぐにでも落ちそうだった。心地良い温もりも、狭いベッドへの不満も、感じる余裕は無かった。
かろうじて残っている意識は、ひとつのことを考えていた。
咲幸の大学卒業までは、見守ろうと思っていた。
しかし、咲幸にある程度の自由を与える四年間は、きっと咲幸をより母親へと向けるだろう。咲幸と離れるための準備期間のはずが、逆に近づける時間となるのだ。
このままでは間違いなく『手遅れ』になると、現在の時点で目に見えていた。
だから、早く何とかしなければいけない――薄れゆく意識の中、大きな危機感を持ち、倖枝は眠りに落ちた。
*
三月十二日、火曜日。
午前九時頃、倖枝は目を覚ました。
咲幸と一緒に寝たことは覚えている。起こさないよう気遣いながら、咲幸がそっとベッドから出ていったことも覚えている。
もう、自宅に咲幸の姿は無かった。午前は自動車学校で、午後はアルバイトだ。夜に帰宅する予定であることを、倖枝は把握していた。
自室からリビングに出ると、明るい窓の外に、洗濯物が干されていた。きっと、風呂掃除も済んでいるのだろう。
受験を終えてから、再び咲幸が家事を行うことになったと、倖枝は思った。
あまりいい気はしなかった。
休日の午前は、自宅でぼんやりと過ごしていた。
正午を回り、昼食にインスタントラーメンを食べた。片付けまでを終えると、私服に着替え、夕飯の買い物へと出かけた。
だが、向かった先はスーパーマーケットではなく、舞夜の館だった。ただの気まぐれだった。
門でインターホンを押し、家政婦に招かれた。
「いっつもアポ無しで来ますよね……」
玄関の扉を開けると、ちょうど舞夜が二階から螺旋階段を下りようとしていた。呆れ顔だった。
突然押しかけて舞夜が居る可能性は、倖枝の中で半々だった。不在の可能性も考えていたが、居てよかったと思う。
「ねぇ……。あんたの部屋に行ってもいい?」
「構いませんけど」
どうせ家政婦は外して、ふたりきりになるのだから、どこで話してもよかった。倖枝はただ、久々に舞夜の部屋を見たかっただけだ。
螺旋階段を上り、二階の一番奥――舞夜の部屋へと入った。
いつ以来なのかは、わからない。綺麗に整理された部屋は家具が在り、以前見た光景から変わっていないと、倖枝は思った。
「意外と『準備』は出来てないのね……」
昨日、咲幸がこの館で夕飯を食べたと聞いて、もしやと思ったのだ。
玄関の様子も変わりは無かった。おそらく、館全体がそうなのだろう。咲幸が違和感を持つはずが無い。
「準備というか……この家は、このままですよ」
「ちゃんと固定資産税は払いなさいよ?」
倖枝は苦笑すると、舞夜を背後から抱きしめた。
咲幸と共にふたりを抱きしめたことはある。しかし、こうして舞夜だけを抱きしめるのは、久々だった。
細い肩、柔らかい腕、そして絹のように滑らかな黒髪――記憶に残っていた感触を、思い出した。
この部屋に変化は無いと感じていたが、倖枝は気づいた。
ベッドにはクラゲと猫のぬいぐるみが置かれ、本棚には納車式の写真が飾られていた。
いや、初めは机とベッドしか無い、ひどく殺風景な部屋だった。
あの秋の夕暮れに、この部屋で少女と『再会』したのだった。
そう。陽は落ちていた。
「私を巻き込んだ責任……取りなさい」
倖枝はぽつりと漏らし、舞夜を放した。
舞夜が振り返る。長い黒髪が揺れた。
「どうしたんですか?」
舞夜は素っ気ない表情で、倖枝を見上げた。
藍色の瞳は、やはり妖艶で――まるで、汚く濁った水槽のようだった。
ずっと、そこで溺れていた。ずっと、魅了されていた。
倖枝はこの小さな魔女に囚われ、手のひらで踊らされていた自覚があった。
それでも構わなかった。結果的に、ろくでもない人生が少しは良くなった。恨むどころか、感謝している。
しかし、この長い夜はじきに明けようとしていた。だから、この手できちんと終わらせなければならない。
もう選んだのだから――全ては『娘達』を幸せにしたいという一心で。
「今度は、私の計画に付き合って貰うわよ」
第42章『一心』 完
次回 第43章『魔女は暁に笑う』




