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魔女は暁に笑う  作者: 未田
第41章『二択(後)』
122/138

第111話(前)

 三月一日、金曜日。

 倖枝は起床すると、リビングのテレビからニュース番組が流れる中、咲幸がダイニングテーブルで朝食を摂っていた。午前七時という倖枝にとってはいつもより早い時間帯を除き、何ら変わらない日常風景だった。


「おはよう、ママ」

「おはよう……。晴れてくれて、よかったわね」


 リビングの窓――レースのカーテンの向こうはまだ薄暗いが、雲は無く、雨音も聞こえない。肌寒い気温も含め、おそらく昨日聞いた天気予報通りだろう。

 午前七時半、倖枝も朝食を食べ終えた頃、咲幸は学生服に着替えていた。


「その制服着るのも、今日が最後ね」

「うん。……所々ボロボロだけど、三年間着れたよ」


 咲幸は苦笑した。

 学生服の補修箇所はあれど、大きさが合わなくなって買い替えたことは一度も無かった。入学式に購入したものと、その後一年生時で買い足したものしか所持していない。つまり、高校三年間で身体成長が無かったとも言える。


「ま、まあ……これからM寸着れるようになるかもしれないじゃない」


 これから成長する根拠は無いが、倖枝はそう願った。


「後輩からボタン全部取られても、最後にクリーニング出して仕舞いましょ」

「ママ……そういう文化、もう無いよ?」

「え? そうなの?」


 咲幸はセーラー服であるため、そもそもボタンの総数が少ない。そうでなくとも、咲幸の口振りでは、学生服の種類を問わないように聞こえた。倖枝は驚くと同時、自身の価値観が古いのだと、少し落ち込んだ。

 とはいえ、こうして最後まで学生服を着ることが出来たのは、良かったと思う。そして、娘の学生服姿が今日で見納めになるため、やはり物寂しい気持ちになった。

 学生服に大きな傷みや汚れが無いことを確認すると、倖枝は頷いた。

 咲幸はいつも通りリュックサックを背負うと、クロスバイクのヘルメットを持ち、玄関へと向かった。


「行ってらっしゃい。母さん、なるべく早く行くからね」

「そんなに慌てなくてもいいよ。……それじゃあ、行ってきます」


 咲幸は笑顔で手を振り、自宅を後にした。

 倖枝は玄関で、卒業式に向かう娘を見送った。


 その後、倖枝はふたり分の朝食の片付けを済ませ、スーツに着替えた。仕事柄、複数を所持しているが、その中でも特に落ち着いているネイビーのものを選んだ。

 咲幸の小学校と中学校の卒業式に参加した直後は、周囲の保護者が着ていた――ワンピース型のセレモニースーツを自分も持っておこうと思った。だが、購入する機会が無く、結局は未だに一着も無かった。

 それでも、後悔や後ろめたさは無く、普段から着用しているスーツを堂々と着た。

 化粧も普段通りであった。違うところは――装飾品だ。

 かつて、舞夜から誕生日に貰ったネックレスがあるが、スーツとは合わない。安物にしろ、真珠のネックレスを着けるだけで雰囲気が随分変わったと、鏡を見て倖枝は感じた。まるで『保護者』のようだった。


 ハンドバッグに必要なものを詰め、準備は整った。

 午前八時四十分、倖枝はスプリングコートを羽織ると、自宅を出た。今日から三月だが、朝方だからか、まだ肌寒かった。本来なら、ダウンジャケットを着たいぐらいだ。格式を優先したため、断念したが。

 自動車で学校まで走り、近くのコインパーキングに駐車した。満車の可能性を恐れていたが、時間が早いせいか、まだ空きはあった。結局、三年間で学校を訪れる際はいつもここを利用していた。これで最後だと思うと、なんだか寂しかった。


 校門には『卒業式』の立て看板が置かれていた。倖枝は携帯電話で看板の写真を撮り、中へと入った。

 式自体は午前十時から開始するが、保護者の受付は午前九時からだった。既に十分が過ぎており、校門近くの受付には列が出来ていた。

 保護者の観覧席は、指定席ではなく自由席だ。なるべく前方に座ろうと、これでも早めに自宅を出たつもりであった。

 倖枝は失敗したと思いながらも、列に並んだ。


 以前は、他の保護者達と一緒に居ることが嫌だった。この中に溶け込めないと思っていた。

 だが、今日は違った。娘をきちんと三年間通わせ、卒業の日を迎えた。まだ第二志望校だが、大学も合格させた。それらの実績がある現在、倖枝は自分が紛れもなく咲幸の保護者であると、胸を張って言えた。周囲に比べ若くとも、劣等感など無かった。


 しばらくして受付を済ませると、ようやく校内へと入ることが出来た。

 晴れた空の下、校舎の周辺は保護者達で賑わっていた。知った者同士なのか、所々で立ち話をしていた。

 倖枝はそれらを横目に、会場である体育館へ早く向かおうとしたところ――中庭のベンチに、ひとりの男性が座っているのが見えた。

 オールバックにセットした髪と、上物であろうスーツを着こなしている様は、いつも通りだと思った。

 貫禄が無いわけではない。だが、日向ぼっこしているかのように寛いでいる姿は、とても大企業の社長には見えなかった。


「もういらしていたんですね……」


 倖枝は男性の目の前に立つと、胡散臭く感じるほどの優しい笑みを向けられた。


「せっかく休日(やすみ)取ったはいいものの、他にやること無かったから、早く来ただけです」

「そうですね。私も今日は、完全に休日(オフ)です。めでたい日なんですから、今日ぐらいは仕事のこと忘れましょう――お互いに」


 倖枝はベンチに座る月城舞人を見下ろし、作り笑顔で会釈した。

 この男も保護者として卒業式に参加することは、これまでのことから、倖枝の予想通りであった。来なければ同じ保護者として、むしろ軽蔑すらしていただろう。だから、舞人と遭遇しても特に驚かなかった。


「こんな所で何してるんですか? 早く行かないと、良い席無くなりますよ?」

「おや。先着順なんですか?」

「普通に考えて、そうでしょ。受付で座席の番号なんて教えて貰ってませんよね?」


 咲幸から渡された案内のレジュメに、指定席との記述は無かった。もっとも、この男の場合は学校への寄付、もしくは何かの役員として、学校側から忖度があるのかもしれないが。

 倖枝がベンチから離れようとしたところ、舞人は立ち上がった。

 結局、ふたり並んで体育館へと向かった。

 隣のにこやかな男はどうなのか知らないが、少なくとも倖枝は周辺からの視線を感じた。これまでの『若い』という憐れみとは違い、羨むようなものだった。

 かつての自分と同じで、おそらく周囲も舞人の正体を知らないだろう。それが無くとも、若く見える外観と気品ある雰囲気は、ひとりの男性として申し分ない。

 そのような人物と、歩いているのだ。ただの知人ではなく――夫婦として見られているように、倖枝は感じた。それまで堂々としていたが、一変して居心地が悪くなった。かといって、舞人に対し離れたいと言うのは失礼であるため、仕方なく同行した。

 やがて、体育館に着き、渡されたスリッパに履き替えた。


「よかったですね、嬉野さん。まだ余裕で空いてますよ」


 体育館内、壇上に対して後方に整列しているパイプ椅子の群れである保護者席は――流石に最前列はもう埋まっていたが、二列目以降は座ることが出来た。


「これでも、早めに来たつもりだったんですけど……もっと早い人達、居るんですね」


 倖枝は出遅れたが、もしかすれば最前列を狙えるかもしれないと僅かな希望を持っていたので、少し残念だった。


「え? 一番前がいいですか? それなら――」

「二列目でも全然大丈夫なんで、余計なことは結構です!」


 体育館の壁際には、教員もしくは学校関係者と思われる人物が数名居た。舞人が手を挙げて彼らを呼ぼうとするのを、倖枝は慌てて制止した。

 冗談のようだが、この男には座席を『特別待遇』させるだけの権力があるのだと実感した。それを行使することで誰かが迷惑を被るので、それだけは避けたかった。


「ほら、ここに座りましょう」


 倖枝は舞人の腕を引き、二列目の中心部に座らせた。癪ではあるが、自身もその隣に座った。一応、この男が保護者として唯一の知り合いとなる。

 体育館内には教員の他、何名かの在校生達が準備の最終確認で慌ただしく動いていた。そして、周囲の保護者達は相変わらず、知り合い同士で喋っていた。疎らではあるが、騒がしかった。

 式の始まる午前十時まで、あと四十分ほどある。倖枝は座席を確保したものの、どのように時間を潰せばいいのか分からなかった。

 ふと隣の舞人を横目で見ると、携帯電話を触ることなく、ただ座っていた。気配からは何の感情も読み取れない。仕事を完全に切り離し、のんびり寛いでいるようだった。

 倖枝は何か話しかけようとするが、言葉が浮かばず、落ち着かなかった。


「緊張しますね……。僕、卒業式に出るの初めてなんですよ」


 舞人がぽつりと漏らした。倖枝は、気遣われたように思えた。


「そうなんですか? 息子さん、いらっしゃいませんでしたっけ?」

「あの時は、前妻が行きました。僕も一緒に行こうとしたんですが、ふたりは恥ずかしいからって、拒まれたんですよ」

「な、なるほど……」


 おかしそうに笑う舞人に、倖枝は苦笑して相槌を打った。

 確かに、年頃の少年にしてみれば、家族との繋がりを同級生に見せたくないのかもしれないと思った。


「ちなみに、娘からも今日は来るなと言われてます。こっそり来てるんで、あの子は知りません」

「なんか……おふたりから、すっごい嫌われてますね」


 舞人が嫌われる理由は分かるが、実状をこうして耳にすると、倖枝は白けた。

 約二十年前――自身の高校入学式を思い出す。倖枝は理解出来なかったが、あの時も、保護者が入学式に来るのが恥ずかしいという風潮が一部であった。

 今日も、他用で来られない者を除いたとしても、卒業生全員の保護者が来るわけでは無いだろう。


「私は、むしろ歓迎されています」


 恵まれているのだと、倖枝は思った。

 嬉しかった。この時ばかりは、咲幸にとって自慢の母で居たかった。


「それは羨ましい。そういえば……娘さんは法学部でしたっけ?」

「そうです」

「やっぱり、お店を継がせるんですか?」

「本人は割と乗り気なんですけどね……。でも、私としては、公務員にでもなって欲しいですよ」


 やはり、倖枝の気持ちは変わらなかった。HF不動産販売を継がせる気は毛頭無かった。

 だから、大学は更に知識を身に着ける他、将来の進路(ゆめ)を探す『猶予期間』でもあると思う。


「へぇ……。なんだか、勿体ない気がしますね」

「……」


「へぇ……。なんだか、勿体ない気がしますね」

「……」


 舞人からつまらなさそうに言われ、倖枝は黙った。

 娘の将来を案ずる気持ちは、この男には分からないと思った。

 その後も、倖枝は舞人と適当に雑談を交わした。

 いつの間にか、体育館内は随分騒がしくなっていた。前方には在校生が座り、後方には保護者で溢れていた。


 午前十時を迎えた。壁際で在校生が音楽を演奏し、卒業生入場と放送された。

 胸にリボン記章を着けた卒業生が担任教師を先頭に、後方の出入り口から続々と入ってきた。体育館内は一斉に拍手が湧きあがり、倖枝も両手を叩いた。

 見知った担任教師の顔が倖枝の目に映ると共に、そのすぐ後ろに咲幸の姿があった。おそらく、生徒は出席番号順に並んでいるのだろう。

 倖枝は立ち上がりたい衝動を抑え、手を挙げて咲幸に振った。

 それに咲幸は気づいたようで、笑顔で手を振り返した。中にはしんみりした様子で入場する生徒も居るが、倖枝の目にはいつも通り明るく映っていた。

 そして、次のクラスが入場してきた。


「ほら。舞夜ちゃん、あそこに居ますよ」


 他の生徒に比べ、淑やかな雰囲気で気品があるからだろうか。特に意識せずとも倖枝は舞夜の姿を見つけ、舞人に教えた。

 咲幸へと同様に手を振ると、舞夜もこちらに振り返した。隣で手を振っている舞人の存在を認識しているはずだが、驚きや嫌悪は特に無く、笑顔だった。拒んだ割には父親が来ることを信じていたのだと、倖枝は思った。


「いよいよですね、嬉野さん」


 舞人の拍手が一層強くなり、この男なりに何か込み上げるものがあるのだと感じた。

 それは倖枝も同じだった。式の様子を目にしっかり焼き付けようと、意気込んだ。

 しかし、それも束の間――

 式が始まるや否や、校長をはじめ壇上での講話が続き、倖枝は眠くなった。静まり返った中での、マイク越しに響く声だからだろうか。自身の学生時代を思い出し、つまらないという先入観から、話を聞く気になれなかった。

 気分は下がり眠気が漂う中、ふとマイクで『嬉野咲幸』と呼ばれ、倖枝は我に返った。

 前方で立ち上がった後ろ姿は、紛れもなく咲幸のものだ。それからも、卒業生の名前がいくつか呼ばれては疎らに起立した。


「娘さん、凄いですね。三年間皆勤なんて、中々できることじゃないですよ。……ウチは、出席日数だいぶ危なかったですから」


 舞人から小声で褒められ、現在は皆勤者の表彰だと倖枝は理解した。

 部活動の遠征があったため、厳密には咲幸が毎日必ず登校したわけではない。だが、怠けることも体調を崩すことも、三年間で一度もなかった。難しいことを成したのだ。

 倖枝は、素直に立派だと思った。壇上に上がり表彰された代表者が咲幸でないのが残念だが、人一倍拍手をして娘を称えた。


 その後、卒業証書の授与へと移った。

 間違いなくこの式典一番の目玉であり、倖枝の気分は更に盛り上がった。ハンドバッグから携帯電話を取り出し、いつでもカメラを起動できるように準備した。

 担任教師が生徒の名前を順に読み上げ、卒業生はそれに応え起立していった。だが――


「え? 全員貰えないんですか?」


 壇上に上がり校長から卒業証書を受け取ったのは、各クラスを代表とするひとりだけだった。倖枝は全く予想していなかった。咲幸が受け取る姿を、写真に収める気で居た。


「時間の都合で、どこの学校もこうじゃないですか? 式が終わってから、教室で担任から受け取るのが一般的だと思います。僕の時も、確かそうでしたし……」


 舞人からそのように聞くが、倖枝は釈然としなかった。自分の中学校卒業の時はどうだったのか――思い出せないが。

 とはいえ、咲幸の名が呼ばれ立ち上がる姿を、倖枝は遠くから目に焼き付けた。

 それから行われた在校生の送辞も卒業生の答辞も興味は無く、卒業生の退場を再度気分を上げて見送った。

 あっという間に式典が終わったと、倖枝は感じた。実際、一時間も経っていない。早く訪れるほど意気込んだのだから、なおさら肩透かしを食らったようだった。


「さて……教室の方に行きましょうか」


 舞人が席から立ち上がり、倖枝も続いた。


「これからが本番ですよ? ハンカチ持ってきてます?」

「ま、まさか――泣くわけないじゃないですか」


 舞人から冗談感覚で訊ねられ、倖枝は内心で焦りながらも否定した。

 ふたりで体育館から出ると、校舎の三階へと上がった。

 倖枝が三年生になった咲幸の教室を訪れるのは数えるほどしか無いが、階段での移動がその度に堪えた。そして、毎日上り下りしている咲幸が偉いと思った。

 これも今日で最後だと思うと、なんだか感慨深かった。


「それじゃあ、僕はこれで……」


 教室が隣ではあるが、咲幸と舞夜のクラスが違うため、廊下で舞人が離れようとした。


「社長さん――この後、ちょっとお時間いいですか?」


 しかし、倖枝は舞夜の教室に入ろうとする舞人を呼び止めた。

 今日これまで伝えなかったが、舞人には大事な用件がある。


「構いませんよ。また帰り際にでも、適当に会いましょう」


 舞人の了承を貰い、廊下で改めて別れた。

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