第104話
二月六日、火曜日。
午前十一時半、休日の倖枝はスーパーマーケットで買い物を終えると、帰路とは別の道を自動車で走った。預かっている月城住建の分譲地へと寄った。
外は寒いが自動車から下り、ほぼ更地の分譲地を入り口から眺めた。
昨年八月に成約した一件目の工事が、ようやく始まっていた。買い手にしてみれば、人生で二度目は無いほどの高額な買い物だ。時間を費やして設計の打ち合わせを念入りに行ったのだと、倖枝は思った。
昨年の初夏にここを預かったことが遠い過去のようであり、時間の経過を感じた。現在はまだ物寂しい景色だが、いずれ八軒の家屋が立ち並び、賑やかになるのだろう。
先日、五件目を成約した。残るは三区画、いや実質は二区画となる。
既に工事を終えている一軒の家屋――モデルハウスに、倖枝は視線を向けた。相変わらず、外観はまだ綺麗なままだ。
現在、購入意欲が全く無いわけではない。舞人には求婚という理由で断られたが、もしもこちらが求婚を断った場合、譲ってくれるのだろうか。いや、こちらにとって都合の良い条件を、飲んで貰えるとは思えない。
倖枝はそのように考え、苦笑した。
購入意欲も――そして、咲幸とふたりで暮らすという未来図も、現在はすっかり薄れていた。
諦めたわけではない。事態は、さらに良い方向へと進んでいるのだ。
その後、倖枝は帰宅した。
時刻は正午になりそうであり、洗面所で手洗いうがいを行いながら、空腹を感じた。
「待たせたわね、ご飯作るわ」
「おかえり、ママ」
「おかえりなさい。お腹空きました」
ダイニングテーブルでは、咲幸と舞夜のふたりが向かい合って勉強していた。
咲幸の誕生日に和解して以降、舞夜がよく訪れていた。
二月になり、三年生は自由登校期間となった。週に一度の登校日を除き、来月の卒業式まで時間の使い方は各自の自由だ。とはいえ、自宅、学校、もしくは予備校での自習がほとんどだろう。既に推薦入試で進路が決定している者は、アルバイトや自動車の教習所に通っていると、倖枝は聞いたが。
「ねぇ。今更だけど、こんな所で勉強はかどるの?」
倖枝は水を汲んだ鍋ふたつに火をかけ、ふと訊ねた。
咲幸ひとりなら自室でいいが、ふたりでダイニングテーブルは狭いため、勉強に適さないと思った。ここではなく、学校か予備校の自習室を使用するべきだろう。
「うん。なんやかんやで、自宅が一番落ち着くよ」
「私は、監視役じゃないですけど……誰か側に居てくれた方が、はかどります」
「ふーん……。ていうか、自宅が広いからこその悩みね、それ」
舞夜にその意図が無いにしろ、倖枝には些細な皮肉のように聞こえ、苦笑した。
ふたりを自宅から追い出したいわけではない。本人達がここで問題無いと言っているなら、倖枝は尊重することにした。
朝からふたりの様子を見ているが、わからない部分を教え合ってはいない。もうじき私立大学の試験が始まるのだから、わからない部分も無ければ、追い込むような段階でも無いのだろう。ふたり共、受験生としてもう仕上がっているのだ。勉強というより確認の意味で、落ち着いた雰囲気だった。
「おあげさんとかき揚げあるけど、どっちがいい?」
倖枝は鍋でうどんを三玉茹でている間、長ネギを細かく切りながら一応訊ねた。
「サユは、かき揚げがいいな」
「それじゃあ、わたしはあげで」
「了解。そろそろテーブル片付けなさい」
ふたりの返事を聞き流し、倖枝は料理を続けた。
もう片方の鍋の湯を丼の粉末スープに注ぎ、茹でたうどんを分け、さらに具とネギを載せた。
「じゃーん。全部載せ、できたわよ」
わざわざ訊ねたが、倖枝は油揚げと野菜のかき揚げ天ぷらを、それぞれ三つずつ購入していた。ひとつの丼にその二種と、さらに卵まで落とした。
「うわぁ。凄いね」
「こんなにも食べらられませんよ……」
「何言ってんの。大事な時期なんだから、しっかり体力つけなさい。ダイエットは春からよ」
いくら勉学が仕上がっているとはいえ、ここで体調を崩しては元も子もない。現在は特に、一年で最も寒い時期だ。風邪だけはひかせないよう、倖枝は暖房をきっちり動かす他、加湿器まで用意した。あとは食事と睡眠、そして外出からの手洗いうがいに気をつければ大丈夫だろう。
受験生ふたりにだけでなく、倖枝本人も風邪を意識していた。そのような緊張感を持つ一方で、母娘で受験に取り組んでいるのだと実感が湧き、嬉しかった。
受験生ふたりはダイニングテーブルで、倖枝はリビングのテーブルでうどんを食べた。
受験生を応援するという名目で『全部載せ』という大胆なものを料理した。しかし、倖枝自身、以前から一度食べてみたいと興味があった。
値段自体は大したことないにせよ、豪華さには確かに満足感を味わえた。だが、それもすぐに消え失せた。
「ごめん、やり過ぎたわ……。ふたり共、無理しないでいいからね」
倖枝は半分ほど食べたところで、満腹になった。油揚げは食べられるとして、かき揚げ天ぷらが大きかった。ひとつを三等分するほどで丁度良かったと、後悔した。
「え? ふたり共、無理なの?」
「逆に、咲幸はどうして食べられるのよ……」
舞夜も苦しそうな声で、咲幸に呆れていた。
咲幸はまだ日課のジョギングを続けて、代謝を維持している。だから食べられるのだろうと、倖枝は思った。
「舞夜ちゃんは残しなさい」
「勿体ないから、サユが食べるよ――ママのも」
倖枝がキッチンカウンターに丼を戻した際、咲幸が食べかけのかき揚げ天ぷらを箸で取った。
咲幸の丼に、ふたつの食べかけが移った。既に食べたものと合わせると、丸々ふたつ分にはなるだろう。それを咲幸は、難なく食べた。
量だけでなく揚げ物をこれだけ食べられるのは若さだと、倖枝は思った。
食後、倖枝は三杯のホットコーヒーを淹れた。リビングのソファーで寛いでいる咲幸と舞夜に渡した。
テレビではワイドショーが流れていた。倖枝はキッチンから――三人で、ぼんやりとそれを眺めていた。
この時期だからか、バレンタイン特集だった。各デパートで販売されているものが紹介されていた。
ふと、咲幸がソファーから立ち上がり、壁のカレンダーに向かった。書き込まれている直近の予定では、咲幸の私立大学の入学試験が十日と十一日に二校分控えている。
「舞夜ちゃんの滑り止めは十日と十二日だっけ?」
「ええ、そうよ」
咲幸は黒色のマジックペンで、その予定を加えた。
「それじゃあ、バレンタインは空いてるね」
さらに、赤色のマジックペンで十四日に『ケーキ』と書き込んだ。
私立大学の合格発表日を赤色で記しているため、それらと同じぐらい目立っているように、倖枝の目に映った。
「今年は三人で、ケーキ作ろうよ! それぞれ用意するのは大変だろうし」
先に予定を書き込んでいるが、都合がつかなければどうするのだろう。今年はバレンタインに構っている余裕は無いのではないか。
倖枝は口を挟みたいのを我慢し、出涸らしで淹れたコーヒーを飲みながら、リビングの様子を眺めていた。
咲幸の言いたいことは理解できる。ふたりに限れば、私立大学の受験が終わり、一段落ついた時期である。そして、三人で甘いものを作るのは確かに効率的でもある。
しかし、舞夜本人はどのように考えているのか、倖枝は出方を伺っていた。受験生ふたり共が同じ意見なら、肯定する。舞夜が嫌がるなら、共に否定する。三人という枠なので、多数意見が通るだろうと思った。
「いいわね、それ。皆で作るの、楽しそう」
舞夜は微笑んで、頷いた。
「でしょ? 絶対に楽しいよ!」
受験の本番真っ只中だというのに、緊張感はどこに消えたのか――和やかな雰囲気に、倖枝は感じた。いや、下手に緊張するよりは良いのだが。
「それじゃあ、材料リストアップしておいて。……私は買い出し担当ね」
「何言ってるの? ママも一緒に作るんだよ?」
「そうですよ。いつぞやのケーキは、それはもうひどかったんですから……リベンジです!」
昨年の咲幸の誕生日のことを、舞夜は言っているのだろう。あの不格好なケーキを思い出しただけで、倖枝は恥ずかしかった。
今回は咲幸も居るので大丈夫だろうが、倖枝としてはなんだか面倒だった。
「わかったわよ。バレンタインを楽しく迎えるためにも、ふたり共頑張りなさいよ? いくら滑り止めだからって、全力なんだからね?」
とはいえ、この空気で断ることは出来ないため、渋々頷いた。十四日は水曜日のため、倖枝は偶然にも休日だ。それに、これが受験への動機付けとなればいいと思うことにした。
「当たり前だよ」
「はい。任せてください」
ふたりの少女の自信に溢れる返事を聞き、倖枝はひとまず安心した。共通試験が実際に上手くいっているので、説得力があった。
私立大学の試験とバレンタインを得て――来月の国公立大学の試験に万全の状態で臨ませるのが、母親としての役目だと思った。
午後からもふたりは勉強に励み、倖枝は自室でゆっくりと過ごした。
陽が暮れ、夕飯の鶏鍋を三人で食べた後――午後八時過ぎ、舞夜を館まで送り届けるため、自動車の助手席に乗せた。
その間、咲幸が入浴している。自動車には、倖枝と舞夜のふたりきりだった。
「ごめんね。ウチ、狭いから……あんたの寝る所無くて」
寝床さえあれば、舞夜が一日中居られる環境だった。倖枝は自身のベットを貸し、ソファーで寝ようかと考えたほどだ。
「流石に、そこまでは悪いですよ」
「なに気を遣ってるのよ。遠慮することなんて、無いでしょ?」
家族になるのかもしれないのだから――倖枝は敢えて口にはしなかったが、意味合いが伝わったと思った。
まだ、期待を持たせてはいけない。倖枝自身、大きく掲げたくない。しかし、現在は倖枝の望む未来がはっきりと視えていた。
「今日は、とっても楽しかったです。ありがとうございました」
休日のため、今日ほとんど一緒に居た倖枝も同じだった。
幸せだった。姉妹の娘ふたりに囲まれたような感覚だった。家族としての温もりを、確かに味わった。
願わくば、これがずっと続いて欲しいと思う。
「たぶん、現在だけなのよ……」
冬の夜道を走っているからだろうか――フロントガラス越しに見える澄んだ空気と静けさが、倖枝を現実に留めた。
「私は大学に行ってないけど……あんたらが大学に通うようになれば、三人で一緒に居られる時間は減ると思うのよ。そして、それぞれ別の進路を歩き出す……」
咲幸と舞夜がそれを拒んだとしても、倖枝は送り出さなければならない。そのために、それぞれの十八歳の誕生日に、あのようなものを贈った。
「でも、それは悲しいことじゃないわ――ずっと会えなくなるわけじゃないからね。現在は、そのための基礎作りみたいなものよ」
家族としての思い出と絆を作れば、きっとそれぞれが頑張れると、倖枝は思った。
そう。家族に成るのだ。それらを作り出すだけではなく――ふたりを送り出すためにも身を固めなければいけないと、倖枝は自覚していた。
現在になれば、決して無謀な計画ではない。だが、この未来を選んでいいのだと、舞人の求婚を受けていいのだと、確かな根拠が欲しかった。倖枝はそのためにも、三人の時間を過ごしていた。
「そうですね……」
助手席の舞夜が、ぽつりと漏らした。
「わたしはこれから先もずっと、一生……この時間を忘れないと思います」
倖枝は前方を見て運転しているので、舞夜の表情がわからない。
しかし、暗闇の中ではっきりと聞こえたその声は、なんだか今生の別れを告げられたかのようだった。まるで、覚悟を決めたかのように――
別れは、いずれ訪れる未来なのかもしれない。だが、現在はまだ、あまりにも早すぎる。
「……」
いや、きっと何気ない言葉なのだろう。不安と共に戸惑う倖枝は、そう思うことで精一杯であり、触れられなかった。前方だけを見て運転した。
やがて、館へとたどり着き、舞夜を下ろした。
「それじゃあ、おやすみなさい。明日もいらっしゃい」
「はい。気をつけて帰ってください。おやすみなさい……お母さん」
屈託ない笑顔と共に去っていく舞夜からは、先ほどまでの不安は感じられなかった。
むしろ、久々に聞いたその呼称に、倖枝は安堵すら覚えた。




