第103話
一月二十七日、土曜日。
午後八時過ぎ、倖枝は事情を話し少し早く仕事を上がらせて貰うと、自動車で舞夜の館に向かった。
そして、ケーキの箱を持った舞夜を助手席に乗せ、次はチェーン店の宅配ピザ屋へと移動した。予約しておいたピザ二枚と皮付きポテトフライ、チキンナゲット、チーズフライを受け取った。
咲幸の誕生日を祝う準備は整った。
「咲幸には『あのこと』言ってあるんですか?」
ふと、舞夜が訊ねた。
舞人から求婚されたことを言っているのだろうと、倖枝は理解した。
あれからもう、一ヶ月が経つ。舞人から返事の催促は無いが、倖枝の中で現実味が薄れることは無く、未だ重く圧し掛かっていた。
「いいえ、まだ言ってないわ。私が『答え』を出してからね」
「咲幸は関係無いんですか?」
「当たり前じゃない。これは、私ひとりの問題よ」
咲幸の意見を参考にはしたくなかった。むしろ、倖枝が選ぶ方を、咲幸も必ず肯定してくれると信じていた。
もっとも、咲幸と舞夜の関係が、選択のための判断材料となるが。舞夜にしてみれば、おかしなことに因果と結果が逆転しているのだ。
「そうですか……」
舞夜は意見することなく、どこか無気力に相槌を打った。
館で拾った時もピザを受取に自動車を一度下りた時も、倖枝の目には憂鬱気味な舞夜が映っていた。あの夏の日以来――約五ヶ月ぶりにこれから咲幸と向き合うのだから、無理も無い。倖枝としても、緊張していた。
「安心して。何があっても、私が守るから……」
あの日、舞夜が咲幸から頬を殴られた光景が、現在でも倖枝の頭に焼き付いている。原因は自分にあるのに――怒り狂った咲幸に驚き、何も出来なかった。
今度こそは、手を上げさせない。罪は全て自分が被る。咲幸の母親である自覚と共に、その覚悟を倖枝は持っていた。
「ありがとうございます」
しかし、舞夜の声はまだ無気力であった。期待していないのだ。
ジャンクフードの匂いとうるさいエアコンの音に包まれた中、寒い夜道を走った。倖枝は、このままどこか遠くに行ってしまいたい衝動に襲われた。だが、現実としっかり向き合い、帰路から脱しなかった。
やがて、マンションへと到着した。倖枝は仕事の鞄を肩に掛けると、ピザ屋の袋を持って自動車を下りた。
ケーキの箱を大事に持つ舞夜と共に、駐車場からエレベーターで上階へと昇った。そして、自宅の扉を開けた。
玄関には咲幸のスニーカーが置かれていた。リビングの扉から灯りが漏れ、テレビの音が聞こえた。倖枝にとって、何の変哲も無い、いつもの我が家だった。
倖枝は無言で舞夜にスリッパを差し出し、共に玄関を上がった。
リビングの扉を開けると、ソファーに座りテレビを観ていた咲幸がゆっくりと振り返った。
「おかえり、ママ――」
声が途絶えると共に、咲幸の笑顔が硬直した。瞳が大きく見開いた。静かに驚いた後、苦笑した。
全て、自分の背後に居る人物への反応なのだと、倖枝は理解した。
「……どうしてそいつが、ここに居るの?」
咲幸から、乾いた笑みが漏れた。つまらないと言わんばかりの、失笑だった。
倖枝は手荷物をダイニングテーブルに置くと、改めて咲幸と向き合った。
「さっちゃん……お願いだから、話を聞いて」
「忘れようって言ったの、ママじゃん! もうちょっとで忘れたのに……どうして!?」
咲幸は聞く耳を持たず感情を露わにして、ソファーから立ち上がった。現在でも泣き出しそうな表情は、失望を強く訴えていた。
怒りの感情ではないにしろ、倖枝にとっては辛かった。いや、自分以上に背後の少女が辛いと思った。
――お互い、あのことは忘れましょう。
確かに、倖枝は昨年末そのように言った。ようやく風化しようとしたものを、言葉として取り纏めたに過ぎない。
しかし、現在は事情が違った。もう、見ない振りは出来ないのだ。
「ふたりして、あたしを裏切ったじゃん! もう出ていってよ! 最悪の誕生日だからさ!」
咲幸は苛立った様子で、自室に入ろうとした。一度籠ってしまえば、さらに大事になるだろう。
あの時と同じだった。倖枝は覚悟こそしていたものの、取り乱した咲幸を前にして戸惑っていた。
だが、今回は咄嗟に咲幸の腕を掴んだ。
「全部、私が悪かったのよ! 私が弱かったから、さっちゃんに縋ったの!」
「それを否定しないで! あたしの気持ちを、無かったことにしないで!」
咲幸の言葉に、倖枝は驚いた。掴んだ手を、振り解かれそうになった。
かつて、咲幸の気持ちを受け止めた。それが原因で、母娘の絆は一度崩れた。しかし、ふたりで正して現在まで過ごしたのに――まるで、現在も気持ちは変わらないような言い草だった。
いや、咲幸が現在も気持ちを隠しているのなら。そのうえで娘として振る舞っていたのなら。倖枝もまた、目の前の現実から失望感を誘われた。
「家族に縋って何がいけないの!? もう放っておいて!」
倖枝は目の前が真っ白になっていた。
掴んでいた手を、咲幸が強く振り解いた。今度こそ、自室に入ろうとした。
倖枝が呆然とした、その時――背後に居た舞夜が前方に踏み出し、咲幸に近づいた。
乾いた音が聞こえ、倖枝は我に返った。
咲幸の足が止まっていた。
舞夜が咲幸の頬を、平手打ちしたのであった。
「……いつまでそんなこと言ってるの? マザコンから卒業しようって、約束したじゃない」
舞夜の淡々とした――しかし、はっきりとした口調は、とても感情が込められているように倖枝には聞こえた。倖枝の目からは、舞夜の長い髪と背中しか見えない。だが、藍色の瞳で真っ直ぐに訴えかけている表情が、脳裏に浮かんだ。
――咲幸は『母』の貴方を支えるために、現在は勉強を頑張っています。
――これは可笑しいことなのかもしれないって、最近思うようになったの。
かつて、舞夜と咲幸が恋人として交際していた頃だ。舞夜は咲幸を倖枝から引き剥がし、歪んだ愛情を正した。倖枝が引き裂くまでは――咲幸もそれを受け入れていた。
だから、そのような約束を交わしていてもおかしくないと、倖枝は思った。
「うるさい! あたしのこと、裏切ったくせに!」
咲幸が、鋭い目つきで舞夜を睨みつけた。怒りに満ちた形相は、暴力に任せようとする気配だった。
自動車の中で、舞夜に守ると言った――倖枝は慌てて、咲幸と舞夜の間に割って入った。
「だから、違うのよ! この子は、さっちゃんを裏切ってなんかいないわ! 私とさっちゃんを、元通りにしようとしただけよ!」
辻褄こそ合うが、信じて貰うには根拠が無い。それでも、倖枝は訴えかけるしかなかった。
「わたしは現在でも……咲幸のことが好きよ? また、仲良くしたいって思ってる!」
背後から舞夜が姿を現し、倖枝と並んだ。
咲幸の表情が躊躇を見せるも、それも束の間――咲幸は再び、ふたりを睨んだ。
「もう遅いよ! あたしには、ママさえ居ればそれでいいの!」
ふたりで咲幸と向き合うが、平行線を辿る一方だった。だから、倖枝は今一度、冷静に考えた。
舞夜が先ほど漏らした『マザコン』という言葉が、頭の隅に引っかかっていた。
確かに、咲幸とは双方を『女』として捉えたことがある。しかし、舞夜が正そうとしたことも、秋に母娘の関係を戻して以降も――咲幸の持つ本質は『母親への固執』だと思った。
――うちの目から見れば、咲幸の母親想いは度を過ぎてるってだけですよ。
風見波瑠もそのように言っていたからこそ、舞夜の言葉が引っかかっていたのだ。そして、波瑠の意見が更に裏付けた。
そう。倖枝は勘違いしていた。どれだけ気持ちを隠そうとも、咲幸が現在まで恋人としての愛情を持ったまま過ごすのは不可能だ。一度はその過ちを犯したから――倖枝はよく理解していた。
おそらく、現在の咲幸は『娘』として執着しているに過ぎない。悪いように考えても『女』と半々ほどに入り混じっているだろう。
あれから互いの条件を飲み、母娘として過ごした時間に意味はあったのだと、倖枝は自信を持った。
ならば――肩に掛けたままの鞄から、包装された小箱を取り出した。
「さっちゃん、十八歳の誕生日おめでとう……。これ、プレゼントよ。舞夜ちゃんと一緒に選んだの」
咲幸に差し出すが受け取って貰えないので、倖枝は仕方なく包装紙を破った。
中の小箱に入っていたのは、片手で掴めるほどの大きさの、ピンクの革製品だった。『Sayuki』と名入れしているのを、咲幸に見せた。
そして、ボタンを外して広げた。中には四つの鍵留めがぶら下がっていた。
差し込み式の鍵から自動車のスマートキーまで収納可能なキーケースを、誕生日の贈物として選んだ。
「これから先……さっちゃんが鍵をいくつも持つと思ったから、これにしたのよ」
倖枝との住居の鍵だけではない。何年先になるのか分からないが、咲幸にとっての『自宅』の鍵を持って欲しいという願いを込めた。
「今すぐってわけじゃないわ。少しずつでいいから――さっちゃんも成人らしく、自分の世界を広げてちょうだい」
倖枝は、こういうかたちで親離れを促したのであった。
舞人への返事がどちらに傾くにせよ、こればかりは避けて通れないのだと思った。
舞夜は倖枝の手からキーケースを取ると、両手で持ちながら咲幸の手を掴んだ。
「大丈夫。わたしが付いてるから……」
舞夜の手と共にキーケースを受け取った咲幸は、瞳に涙が浮かんだ。唇が、小さく震えた。
「恋人じゃなくてもいいじゃない。舞夜ちゃんは、さっちゃんに似てるんだから……きっと、さっちゃんと一緒に歩いてくれるから……仲良くしなさい」
倖枝はふたりの肩に両手を置き、ふたりを抱きしめた。細い肩幅でも、ふたり分となれば、両腕を目一杯広げなければいけなかった。
「うん……」
震える肩――嗚咽を漏らしている咲幸が、涙の混じった掠れ声で頷いた。
それを聞いた倖枝は安心すると同時、これまでの緊張が緩んだせいか、自身も涙を流した。
咲幸と向き合う人物の肩も、小刻みに震えていた。
倖枝はふたりを更に強く抱きしめた後、両腕を離した。
「舞夜ちゃん……現在までゴメンね」
「わたしの方こそ、ごめんなさい……。咲幸に何の相談もしなかったこと、ずっと後悔してたわ」
ふたりの少女は涙を流しながら、互いの気持ちを伝えた。
倖枝は自身の涙を拭うと、両手でふたりの頭をくしゃっと撫でた。
「よし。それじゃあ、ご飯にしましょ。ピザ冷めちゃうわ」
倖枝は込み上げる喜びを誤魔化すように、夕飯の支度に取り掛かった。
考えていた中で、最良の結果だった。
親離れを促した以上、いつかは咲幸を送り出さねばならない。しかし、これで悲しい別れにはならないだろうと予感した。
現在はそれを追うことなく――ただ、この温もりを感じていたかった。
「咲幸、お誕生日おめでとう」
「ありがとう!」
リビングから、ふたりの声が聞こえた。その様子が頭に自然と浮かび、倖枝はひとり微笑んだ。
きっと、過去に見たふたりなのだろう。きっと、仲の良い姉妹のようだろう。
現在の倖枝はそれに対し、嫉妬することは無かった。
こうして、去年のように、舞夜とふたりで咲幸の誕生日を祝った。
第38章『成人(後)』 完
次回 第39章『三人』
倖枝はバレンタインを、咲幸と舞夜と過ごす。




