第101話
一月八日、月曜日。
午後八時半になり、倖枝は一週間の仕事を終えた。夢子と高橋を先に帰し、給湯室で一服した。
その後、窓の戸締まりを確かめると、灯りを消して店の外に出た。
一月の夜は、とても冷え込んだ。暖かい所から移ったので、尚更だった。
倖枝が店の扉を閉めようとした、その時――ふと、ひとつの影が近づいてくるのを感じた。
「こんばんは、おばさん」
学生服姿の風見波瑠が、自転車を押して現れた。きっと、予備校帰りなのだろう。
つまらないものを見るような視線を向けられ、倖枝はいい気がしなかった。この場で存在を無視し、帰宅したいぐらいであった。
「共通テスト、今週末でしょ? こんな所で油売ってないで、帰って勉強でもしたら?」
だが、それは大人気ないため、気だるそうな態度で煽った。
倖枝が波瑠とまともに顔を合わせるのは、夏に咲幸が家出した時以来だった。あの時は、咲幸を巡っての言い争いになった。
結果的に咲幸が戻ってきたが、現在でも波瑠への怒りが消えて無くなったわけではない。とはいえ、わざわざ怒りを掻き立てるのはバカらしいため、相手にしたくなかった。
波瑠も同じだと、倖枝は思っていた。それなのに――こうして現れたことが不可解だった。
「それで、何の用なのよ? あんたと話すことなんて、何も無いと思うけど?」
「おばさんに無くても、うちにはあるんですよ」
相変わらず、目上の者を敬う態度ではなかった。倖枝は小さく舌打ちをした。
用件があるとは言え、聞きたくなかった。現在すぐにでも帰したいぐらいであった。ろくでもない内容だと思ったのだ。
だが、ここで揉めては咲幸にまで波及する可能性がある。大学入試を目の前に控えたこの時期に、些細なことでも心配させたくなかった。
「わかったわ。入りなさい」
かつては近くのファミレスまで移って話をしたが、倖枝は閉めようとした店の扉を開けた。周囲を気にせず喋りたいからであり――そして、外の寒さが堪え、すぐにでも逃れたかったからでもある。
店内の暖房は切っているが、まだ外よりは遥かに暖かかった。再び暖房を点けることなく、倖枝はダウンジャケットを着たまま商談スペースの椅子に座った。茶を出す気分にはなれなかった。
テーブルを挟んだ正面に、波瑠が腰掛けた。
「おばさん、家買うんですか? 咲幸から聞きました」
開口一番、波瑠がその件に触れてきた。
モデルハウスで現物を見たことが、咲幸にはとても嬉しかったのだろう。母娘以外に秘密というわけではないが、上機嫌に口外したのが、倖枝には安易に想像できた。
「そうよ。だから何?」
とはいえ、家を購入するという願望は現在、思いがけないかたちで保留となっている。咲幸には黙っているので、波瑠も知らないだろう。
倖枝は平静を装い、動揺を隠した。
「買うの、やめて貰えません?」
波瑠が何を言っているのか、倖枝は一瞬わからなかった。少しの間を置き、大笑いした。
「は? どうして? 大体、あんたに口を挟む権利なんて無いでしょ?」
「高校卒業したら、うちは咲幸とルームシェア――同棲して大学に通います」
倖枝は静かに驚いた。
そのようなことは絶対に受け入れられない。しかし、即拒絶するよりも、倖枝が気になったことは――
「なによ、それ……。さっちゃんが言ってるの?」
咲幸の提案であるのかだった。
そのようなこと、倖枝は初耳だった。鈍くて気づいていないのかもしれないが、咲幸から、それを匂わせることも現在まで無かった。
だから、もし咲幸から波瑠に持ちかけたのなら、裏切られたような気分だった。
「いいえ。咲幸はまだ知りません。うちが考えていることです」
波瑠の独断であると知り、倖枝は胸を撫で下ろした。
おそらく、受験が終わればすぐ、波瑠は咲幸に話すのだろう。その際、新居に移り住む手筈が整っているなら、誘い難い。だからこの段階で阻止にかかったのだと、倖枝は理解した。
そして、再び笑った。
「そういうことはね……とりあえず、受かってから言いに来なさいよ。あんただけ落ちて浪人になったら、ダサいってもんじゃないわよ?」
拒絶以前の、バカげた話だった。少女がひとりで勝手に夢見ている絵空事だと、倖枝は思った。笑うことは失礼だが、我慢できなかった。
波瑠がどの大学を受験するのか倖枝は知らないが、金魚の糞である印象から、きっと咲幸と同じだろう。咲幸だけが合格する可能性は、あり得る。
「落ちたら落ちたで、その時は笑ってください。うちが落ちることは、絶対に無いですから」
倖枝の安い煽りに乗ることなく、波瑠は冷静だった。
それだけ自信があるのだと倖枝は理解した。心意気に敬意を表し、笑うのをやめた。
「もしも、ふたり共受かって……もしも、私が家を買うことをやめて……ふたつの条件が揃ったとしても、さっちゃんが賛成すると思う?」
しかし、依然バカげた話だった。限りなく波瑠にとって良いように考えても、結果は見えていた。
「いいえ。思いません」
波瑠のふたつ返事が、倖枝には意外だった。だが、その内容は倖枝と同じ考えであった。母親としての主観にしろ、否定できるだけの根拠がある。
「そうよね。悪いけど、さっちゃんは私から離れないわよ?」
家を購入するという話を持ちかける、ずっと以前から――咲幸は、現在のマンションから通える大学を選んでいたのだ。
それを基準にしなくても構わないと、倖枝は咲幸に散々言ってきた。だが、咲幸は揺るがなかった。あの時のように咲幸が家出でもしない限り、その未来は変わらないだろう。
「だから、おばさんからも咲幸に言ってくださいよ。仕送りできるだけのお金はあるんでしょ? そろそろ親離れしてもいいじゃないですか」
「あんたね……」
他人の経済事情にまで遠慮なく入り込んでくる波瑠に、倖枝は少し腹を立てた。
確保している咲幸の大学資金には学費の他、ひとり暮らしの仕送りも含まれている。しかし、それは志望校がことごとく不合格になり、遠くの大学に通わざるを得ない『最悪』を想定してのことだ。倖枝としてなるべく避けたい手段であり、その際は咲幸としても浪人を選ぶかもしれないが。
倖枝は経済面に気を取られたが、波瑠の言う『親離れ』という言葉が引っかかった。
「おばさんにとって、咲幸は必要なんですか? 咲幸にとっても、おばさんは必要なんですか?」
目の前の少女から、核心を突かれた。
咲幸は経済面の理由で自宅から大学に通うわけではない。ならば、どのような理由なのか――
「必要じゃなかったら不要、とはならないのよ……家族はね。大体、家族が一緒に居ることに、理由なんて要る?」
倖枝は頭の隅で、理由をわかっていた。だが、それから目を反らして、極論を持ちかけた。
「でも……おばさんから離れることが、咲幸のためだと思います」
どこか憐れむような眼差しを、波瑠から向けられた。
寧々にも似たようなことを言われた。倖枝は理解しているはずだった。
「だから何よ! 片親の娘は幸せになれないって言いたいの!?」
しかし、認められなかった。
月城舞人の求婚を受け入れられない現在、住居がどこであれ、咲幸とふたりきりの生活が続く。咲幸を娘として愛し、守らなければいけない覚悟なら、持っているつもりだった。
咲幸のすぐ側に居ることが、正しいと思っていたのだ――遠い未来から目を反らしながら。
「そうは言ってません……。うちの目から見れば、咲幸の母親想いは度を過ぎてるってだけですよ」
「母親を大事にして、何が悪いのよ!?」
「だから、いき過ぎだって言ってるんですよ。咲幸も高校を卒業するんですよ? いつまで母親とべったりしてるんですか?」
咲幸は今月末の誕生日で十八歳になる。高校を卒業する年齢であり、そして成人を迎える年齢でもある。
咲幸に依存されている自覚が、倖枝にはあった。直すどころか、受け入れていた。
親の面倒を見なければいけないという足枷で、片親の娘は結婚対象から避けられていると思っていた。しかし、それだけではない。咲幸本人が伴侶より親を優先するであろう価値観を持っていることもまた、問題なのだ。
そのふたつを解決するには――やはり、離れるしかない。
「くれぐれも、さっちゃんにそういうこと言わないでよ?」
「わかってますよ。だから、おばさんに言ってるんじゃないですか」
もしも咲幸の耳に入れば、深刻に悩むだろう。これは娘でも母娘でもなく、親が解決しなければいけない問題だ。これまでの育児の責任を、咲幸に押し付けたくなかった。
「とにかく――春まであんまり時間無いんですから、よく考えてください」
用件を伝え終えたからか、波瑠は椅子から立ち上がり、店を出ようとした。
波瑠にとって私利私欲の要求だが、倖枝は警告のように感じた。この小娘は一度、歪んで壊れた母娘関係を見ているのだ。
「待ちなさいよ。そもそも、さっちゃんがあんたじゃなくて月城さんを選んだら、どうするのよ?」
だが、倖枝は波瑠との一連の会話で、気分をひどく害した。せめて一矢を報いるつもりで、匂わせる言葉を送った。
「月城を? ……それは無いですよ」
呼び止められた波瑠は振り返ると、おかしそうに笑った。そして、店内から立ち去った。
ひとりきりになった倖枝は立ち上がり、頭を掻きながら給湯室に入った。冷えた部屋で、加熱式タバコの電源を入れた。
咲幸には、まだ舞夜への未練がある。それを舞夜に伝えてある。舞夜次第だが、以前のようなふたりに戻る可能性もある。
あのふたりが姉妹になるのなら――倖枝は舞人の求婚を受け入れようと、以前から思っていた。
倖枝が伴侶と身を固めると同時、咲幸の母親依存も四人家族になることで薄まるだろう。咲幸が幸せを手にするための土台には、充分だ。
しかし、現在の倖枝にはその未来に対し、現実味が無かった。現在のまま、母娘ふたりの生活が延長されるような気がした。
その前提で、咲幸が幸せになる方法を考えないといけなかった。
財産を遺すだけでは、咲幸は幸せになれない。咲幸には、新しい世界に飛び込んで貰わなければならない。
ならば、提案通り波瑠とルームシェアで暮らすのが、まさに理想なのだ。
そう理解はしているが――倖枝は認められなかった。




