第099話
十二月二十九日、金曜日。
倖枝は咲幸に、寧々とふたりきりの忘年会だと告げ、午後七時にNACHTへと向かった。
ふたりで酒を飲んで話すので、忘年会という体は間違っていない。だが、倖枝の主用はあくまで、クリスマスの報告と相談だった。寧々に咲幸への口裏合わせを頼んだ以上、何があったのかを伝える義務があった。
舞人から求婚されたことを言うと、寧々から素直に祝福された。結婚するよう促された。既婚者にとっては当然の反応のように、倖枝は感じた。
「それに――キツイこと言うけど、片親だと結婚相手は寄ってこないよ? 倖枝ひとりの問題じゃないんだよ」
その後、ビジネスホテルに場所を変え、寧々から厳しいことを言われた。
「倖枝が身を固めて落ち着かないと、咲幸ちゃんは倖枝から離れられないんだよ? 幸せになれないんだよ?」
結婚する理由としてこれまで浮かばなかったが、その意見には納得した。
いずれ咲幸が家庭を持つ時は見送ろうと、以前から覚悟はしていた。だが、咲幸と離れられるのだろうかと、改めて思った。
そう。自分が咲幸の足を引っ張るのかもしれないという恐怖が生まれた。
もしも、老後の資産までを早い段階から確保していたとしても――独身であるなら、咲幸の配偶者となる人物から心配される可能性は充分になる。それを理由に破談になる可能性も考えられる。
払拭するには、先に自分が配偶者を持たなければならないのだ。これまで見えなかった問題が表面化した。
「慌てなくてもいいから、もう一度考えてみたら?」
「うん……。ありがとう……」
折角、寧々と会ったにも関わらず、倖枝は暗い気持ちで帰宅した。
咲幸のために資産を遺す。咲幸のために一緒に暮らす。それで咲幸が幸せになると考えていた。
だが、間違っていたのかもしれない。再度、考え直さなければいけなかった。
一月一日、月曜日。
大晦日の夜中に年が明け、咲幸が波瑠ら友人達と共に、近くの小さい神社まで初詣に出かけた。
自宅にひとりきりになった倖枝は、生理が訪れていた。まだ子供を産める身体なのだと思うと同時、舞人の顔が脳裏に浮かび、さらに気分は沈んだ。早い閉経を望んだ。
陽が昇っていないが、正月早々、頭痛と生理痛に苦しんだ。
倖枝には、考えないといけないことが山積みだった。しかし、この体調ではとても手がつけられなかった。
それらから逃避するように――携帯電話で、死後離縁について調べた。
咲幸の籍は現在も、倖枝の両親の養子縁組だ。倖枝の父親が亡くなり相続も完了しているので、籍を戻す事由としては充分だった。咲幸を自分の娘に戻そうと、ふと思ったのだった。
調べたところ、家庭裁判所と役所の手続きを終えるまで、およそ一ヶ月から二ヶ月の時間を要するらしい。現在すぐに手続きを開始したとしても、月末の咲幸の誕生日には間に合わないだろう。
法的な母娘関係に戻ろうとも、その頃には咲幸が成人を迎える。親権は自然消滅して戻ってこないのだと理解した。
可能であれば、親権を有する母親にもう一度成りたかったが、叶わぬ願いだ。遅すぎたのだと、後悔した。
倖枝は鎮痛薬を服用のうえ就寝し、元日の朝を迎えた。
肉体の痛みは若干和らぐがまだ辛く、動くことすら億劫だった。どうしてか、今回は特に酷い。仕事が無く幸いだった。
精神的にも優れないため、一日、自宅で安静に過ごした。頭の中でゆらゆらと、向き合わなければいけない『現実』が漂っていた。
一月二日、火曜日。
倖枝はようやく症状が和らぎ、動ける程度には回復した。
「さっちゃん、初詣行きましょう」
「え……ママ、大丈夫なの?」
「全快とはいかないけど、まあ大丈夫よ。さっちゃんの合格、願掛けしておかないと」
その用件も大切だが、気晴らしに出かけたかった。何日も部屋に閉じこもっていると、陰鬱さに拍車が掛かることを危惧した。
向かった先は、割と有名である大きな神社だった。混雑から駐車が困難だとわかっていたので、電車を使用した。
電車に揺られること、四十分。午前十時過ぎ、下りた駅から既に、人混みが出来ていた。倖枝にとっては憂鬱な光景だが、自宅に居た時よりも気分は落ち着いていた。
とても寒いが空に雲は無く、遠くに青空が広がっていた。
ゆっくりと進む人の流れに乗った時――隣の咲幸から、手を握られた。
「具合悪くなったら、すぐに言ってね。どこかで休もう」
体調を気遣われているのだと、倖枝は理解した。
「ありがとう、さっちゃん」
嬉しく思うも、すぐに情けなくなった。どちらが母親なのだろうと思った。
ふたり共、手袋を嵌めていた。手を繋いだところで素肌が触れ合うわけではないが、倖枝はどこか落ち着かなかった。
咲幸の手の大きさを、久々に思い出したような気がした。意外と大きく、手袋越しでも温かかった。
そして、娘からこうして優しくされることで――居心地が悪かった。
人混みの中、手を引いて歩く咲幸の姿が、なんだか逞しく見えた。手を引かれる自分がやはり情けなく思うが、体調が本調子でないからだと自身に言い訳をした。
鳥居をくぐり境内に入ると、道の両脇に露店が立ち並んでいた。それらを通り過ぎると、ようやく最奥の大きな賽銭箱にたどり着いた。
倖枝の財布には、五百円玉がちょうど二枚入っていた。一枚を咲幸に渡し、ふたりで投げ入れた。そして、両手を合わせて頭を下げた。
「ママは何をお願いしたの?」
「そりゃ、さっちゃんが第一志望校に受かりますようにって……」
賽銭箱から離れながら、倖枝は咲幸から顔を覗き込まれた。
つい先ほどはただ一心に、目的通りそれを願った。あの僅かな時間だけは、倖枝なりに邪念を捨てたつもりだった。
「サユはね、ママとこれからもずーっと一緒に居られますようにって、お願いしたよ!」
無邪気に微笑む娘に、倖枝は心打たれた。そのような願いを持ってくれていることが、純粋に嬉しかった。
しかし、それも束の間。
「もうっ。……母さんのことなんかより、自分のことお願いしなさいよ」
倖枝は咲幸の額を小突いた。
照れ隠しだけではない。確かに、一緒に居られることは倖枝にとって嬉しいが――片親としては、親離れを促したいところであった。
そう。咲幸には、自分にとっての幸せを最優先に考えて欲しい。
「別に、いいじゃん。ママがサユのことを願ってくれたら、サユはママのことを願うよ。だって、ふたりっきりの家族だもん」
咲幸の言うことはもっともだと、倖枝は思う。倖枝としても――可能ならば、そのような相互関係で居たい。
だからこそ、葛藤した。ここ数日、悩んでいたことのひとつであった。まだ現実味は無いが、咲幸の未来のためにならないと頭では理解していた。
しかし、現在は初詣の人混みの中であり、体調も優れないため、深く考えられなかった。
思考を逃避させ、咲幸とふたり、売店へと足を運んだ。
いくつかの種類の御守の他、破魔矢や絵馬までが店頭に並び、多くの客が押し寄せていた。
「さっちゃん、お守り買いましょう。合格祈願、いくつ必要かしら」
倖枝は目当ての種類の御守を探した。鞄、筆箱、自室――倖枝は頭で数えながら、ひとまず三つを手に取った。まだ足りないと思ったほどであった。
「そんなにも要らないよ。ひとつあれば充分だって」
だが、苦笑する倖枝から御守を取り上げられ、ふたつを戻された。
「うーん……。ママには、これがいいかな」
咲幸は商売繁盛、交通安全、健康の利益のある三つを手に取った。
今度は、倖枝が慌てて咲幸から取り上げた。
「ちょっと。母さんだって、三つも要らないわよ」
「それじゃあ、お仕事のやつと……これ、ふたつ買おうよ」
結局のところ、合格祈願、商売繁盛、そして健康をふたつ――ふたりで合計四つの御守を選んだ。倖枝は妥当なものだと、納得した。
会計を済ませて巫女に包んで貰っている時、倖枝は他の御守に目を落とした。恋愛成就や安産祈願、厄除けまで様々なものがあるのだと眺めていると、ひとつのものが目を引いた。
しかし、紙袋に梱包された御守をすぐに受け取り、売店を後にした。
「あっ、ママ。おみくじあるよ!」
売店から少し離れた所に、その一角があった。
良い結果ならまだしも、受験生が悪い結果に当たると縁起が悪いと、倖枝は以前の咲幸の台詞を思い出した。あまり気が進まなかった。
「大凶なんか出たら目も当てられないんだから、やめときなさいよ」
「大丈夫だよ。その時はその時だって」
だが、咲幸は純粋に楽しみたいようだった。
「もうっ。知らないからね」
倖枝は呆れながらも仕方なく、二回分である四百円を財布から取り出した。
ふたりで引き、それぞれの番号を巫女に告げた。結果の書かれた紙を受け取ると、折られているそれを一斉に開けた。
「やった! サユ、大吉!」
喜ぶ咲幸に、倖枝はひとまず胸を撫で下ろした。受験生としては、幸先良い年明けだ。
咲幸が良い結果だったせいか、なんだか嫌な予感に見舞われながら――倖枝は自分のものに目を落とした。
「うわー、母さん凶よ。こんなの、本当に出るのね」
予感が的中した。めでたい正月にこんなものを仕込むなと、倖枝は思った。沈んでいた気分が、一層重くなったような気がした。
念のため何が書かれているのかを読もうとしたところ、咲幸からひょいと取り上げられた。
「悪いことが起きるかもしれないから注意しろって、神様からの警告だよ。……はい、これでお祓いできたよ」
知らない方がいいと思ったのだろう。咲幸も中身を見ることなく、倖枝の代わりにおみくじ掛けに結んだ。
少しでも楽観的に捉えられ、倖枝は気分が幾分和らいだ。
「ありがとう……。さっちゃんのは良かったんだから、持って帰りなさい」
「うん。そうするよ」
咲幸は大吉のおみくじを、自分の財布に仕舞った。
おみくじをおみくじ掛けに結ぶという行為は、正しくは神から受け取った意思を肯定するという意味だ。だが、嬉野家では、結ぶことで内容が無効化されると伝えられていた。
参拝と買い物、おみくじを済ませて、初詣は無事に終えた。
「ママ、ぜんざいだって!」
あとは帰宅するだけだが、咲幸が休憩処を指さした。
長椅子に沢山の客が座り、それぞれ美味しそうに食べているのが見えた。寒空の下、温かく甘いものを想像すると、倖枝の食指も動いた。
携帯電話を取り出すと、時刻は午前十一時前だった。
「そうね。昼食代わりに食べましょうか」
「やった! そうしよ!」
窓口で金を払い、二杯のぜんざいを受け取った。
休憩処は混んでいた。椀を持って立ち尽くすも、丁度ふたり分の空きを見つけ、一旦座った。
だが、倖枝は席に自分の椀を置き、すぐに立ち上がった。
「ごめんね。母さん、ちょっとお手洗いに行ってくるから、先に食べておいて」
咲幸に言い残し、休憩処を離れた。
しかし、向かった先はトイレではなく、先ほどの売店だった。倖枝はさらに三つの御守を購入すると鞄に仕舞い、休憩処に戻った。
体調が良くないにも関わらず外出し、挙げ句慌ただしく動いたせいで、倖枝は軽い目眩と頭痛に襲われた。あまり食欲は無いが、それでもぜんざいは美味しかった。温かい甘味が、全身に染み渡るようだった。この正月に初めて食べた餅は、よく伸びた。
「ねぇ、さっちゃん……。籍、おじいちゃんのところから母さんのところに、そろそろ戻らない?」
意識がやや朦朧としているため、倖枝は寝言のようにぽつりと漏らした。昨日調べた死後離縁を促した。
ふたつ返事で肯定されると思っていた。
「うーん……。ちょっと考えさせてくれない?」
倖枝は椀のぜんざいに視線を落としているため、咲幸がどのような表情なのかわからなかった。
喧騒の中、ふわふわした頭では、何気ない声も聞き取れなかった。
「え? なんて?」
「ごめんね、ママ。現在は大事な時期だから、受験終わったらにしようよ」
今度は、はっきりと聞き取れた。そして、その言い分はもっともだと思った。
「そ、そうね……。いきなり変なこと言って、ごめんなさい。落ち着いてからというか……とりあえず忘れましょう。気にしないでね」
倖枝は苦笑しながら、慌てて撤回した。
そう。現在は目前まで迫った大学受験が最優先であり、面倒事に構っている余裕は無い。
――その一方で、十八歳に成ればひとりで分籍できるのではないかと、ぼんやりと思った。
だが、不確かな疑問を追いかける余裕は、現在の倖枝には無かった。
ぜんざいを食べ終えて腹が膨らむと、今度こそふたりで帰路についた。




