生きているから腹は減る
そして二人が向かったのは外科エリアのナースステーション前にある病室。
そこには頭に包帯を巻き身体中様々なチューブで繋がれた一人の中年男性が横たわっていた。機械のピコーンピコーンという音と、ズゴーズコーという大きな生物が呼吸しているかのようなポンプの音が聞こえるものの、ひどく静かに感じた。鬼熊さんはそのベッドのそばに跪いてその手をギュウと握り顔を祈るかのように寄せる。そして彼女がソッと父親に話しかける声だけが響く。しかしその相手は真っ白の顔で何の反応も起こさない。ディスプレイの波線だけが彼が生きている事を伝える。俺は何も出来ずただその背を見つめている事しか出来なかった。
ナースが気遣う表情で入って来て、面会時間が終わった事を伝えてくる。
「鬼熊さんの事は私達がシッカリ見守りますから。
今日は疲れましたよね? 美幸さんは休んでください」
そう優しく促し病室の外まで誘った。そして、俺に鬼熊さんの事を託し去っていった。
二人で灯りがおとされた暗い廊下を会話もなく歩く。病棟受付で面会者バッチを返却して、そのまま駐車場までついて行ってしまう。
「迷惑かけてごめんね。お家どこ? 送るわよ」
車のキーをポケットから出しながら俺の方も見ずに聞いてくる。俺はその手から車のキーを奪う。
「俺が運転する。そして俺が送る!」
鬼熊さんはやっと俺の方を見る。キョトンとした顔だったが。
「アンタ今日倒れたんだよ! どんな顔してるか分かってる?」
俺の言葉に眉を寄せ困ったような顔をする。
「見てらんないくらい、ヒドい顔してんだよ!」
言ってから、かなり失礼に聞こえる言葉を吐いた事に気がついた。
「いや、顔じゃなくて、顔色……」
クス
鬼熊さんが笑った。いつもと違った弱々しい感じの笑顔だったけど。
「まっ、自分が美人ではないのは分かっているわよ。
そんな顔しないで、私、文脈は読めるからちゃんと通じてるわよ。
……ありがとう。
正直言うと、今運転はキツい、だから助かる」
鬼熊さんは車のキーを俺に渡した。
俺は鬼熊さんがシートベルトをしたのを確認して車を発進させた。鬼熊さんはスッカリと暗くなった風景を、その瞳にボンヤリと映していた。交わされる会話は、方向指示だけ。マンションについたものの帰るきっかけもなく、俺は部屋まで彼女についていき部屋までお邪魔してしまう。
部屋に一緒に入ってしまったものの、どうして良いか分からない。とりあえず冷蔵庫を開け、お茶ポットにはいったお茶を出し乾燥籠にあったコップに入れて鬼熊さんに渡す。再びする事もなくなり仕方がなく彼女の前に座る。鬼熊さんはただ黙ってジッとカバンから取り出した書類を見つめている。そして俺はそんな鬼熊さんをジッと見つめているだけ。こういう時どういう声をかけたら良いのだろうか? 励ますの? 慰めるの? どうしたらよい?
グゥゥウウウウゥゥゥゥウウウウウウウウウ
俺のお腹が、この場にふさわしくない音を立てる。しかも誤魔化せないくらい大音量で。
鬼熊さんが顔を上げ、目を丸くして俺を見つめてきて、物凄く恥ずかしくなる。しばらく無言で見つめあう俺達。
クッ、フフッフフフ
鬼熊さんの笑い出が弾けるように部屋に響く。そこまで面白い事だとも思わないのだが、その笑いはなかなか止まらず、しまいには涙まで流す状態に俺は顔が赤くなるのを感じる。
「ゴメンなさい、ここまで付き合わせて。そりゃお腹空くわよね? 待ってて何かつくるから」
眼鏡を外して涙を拭きながら、鬼熊さんは立ち上がる。
「あ、こんな時にいいよ……」
鬼熊さんはフフと笑い、俺の頭を子供にするかのように撫で顔を横に振る。
「作らせて、お礼に。それに一緒に夕飯食べてくれない? それに私も一人でご飯食べるの寂しいし」
そう言われてしまうと、断れない。俺がここで帰ったら、絶対この人は一人でご飯なんか食べてくれないような気がする。
「……手伝うよ、野菜切るくらいはできるから」
鬼熊さんの指示をうけながら作業して並んでご飯の準備をする、なんとも変な感じだったけど、料理をしている彼女の顔に人間らしい表情が戻っている事にホッする。
二人で作ったご飯を、リビングに並べる。俺が手を合わせて頂きます。というと鬼熊さんは二コリと笑う。そして同じように手を合わせて挨拶する。
「美味しい」
何口か食べてから、ため息をつき鬼熊さんはそう小さく呟く。
「良かった」
俺がいうと、またフフと笑う。なんか会話が逆である。俺が作ったかのようになっている。そう彼女も思ったのか顔を合わせて笑ってしまう。そして少しずつ語り出す、父親の事を。大学教授をやっていて、穏やかで優しい人なようだ。数学の話になると止まらなくて、いつまでも夢中でしゃべり続け、珈琲が大好きで、娘が小学校の時からも嬉しそうに振るまうそんな人。そして男手一人で鬼熊さんを見守り育ててくれた事だけでなく、尊敬していて大好きでというのがその言葉から強く感じられた。同じ男手一人で育ててくれたといっても俺の家の、建築会社で勤めているガテン系の父とはえらくキャラクターが違うようだ。彼女が父親の事を過去形ではなく話し続けている所にも、まだまだ諦め切れていない感情を感じだ。交通事故という不条理なアクシデントの結果となるとなおさらである。
話し終えて鬼熊さんはハァと溜め息をつく。そして視線をリビングの上に置いたままの書類へと向ける。
「同じ会話出来ないにしても、目に見える所であの状態で生き続けて貰いたいのって我が儘かな? 臓器移植を待っている人なんて関係なくなく生き続けて欲しいと思うの」
俺は首を横にふる。普通の病死とは異なり家族に死を許可させ決定させる脳死というのは、家族にとって随分残酷な状態である。
「そんな事ないと思うよ。当然だと思う。
……後はお父さんがどう思うかだよね、どう生きたいのか……」
鬼熊さんは顔をしかめる。
「そして、どう死にたいのか……ね。」
俺は手を伸ばし、鬼熊さんの手に自分の手を重ね握る。鬼熊さんはは黙ったまま目を瞑り何か考えているようだ。多分彼女の中の父親と対話しているのだろう。彼女はユックリ目を開ける。
「ありがとう。お陰で落ち着いたわ。
もう大丈夫よ。今日はありがとう」
晴れやかに笑う鬼熊さんの表情に俺の心は動揺する。一人でどんな困難に毅然と立ち向かおうとしている。その迷いの消えた目はもうまっすぐ前を見ている。なんて強くて、なんて格好良いのか? 俺はこんな場面なのに鬼熊さんに見惚れてしまった。同時に何もしてあげられない自分が情けなくなる。
「こんな、俺でも賑やかし程度には、役にたつからいつでも連絡してよ! 電話もしてくれても良いから!」
そう言う俺に、鬼熊さんはクスクス笑って頷いて俺の頭をなでてくる。
「ヒデくんの髪の毛硬くて気持ち良いね」
俺はその感触と言葉に照れて下を向くけど、その手を払う事はせずそのまま撫でられていた。




