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紅茶、飲みませんか  作者: 大平麻由理
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9.このまま眠っていて その3

「おい、沢井、泣くなよ。なあ、こんなところで泣いてどうするんだ」


 慌てたような男性の声が聞こえる。彼女を泣かせたのは、他でもない当人自身ではあるのだが、彼の言い分もわからないではない。今ここに別の客が来店すると想定すれば自ずと答えが出る。二人の秘密の恋も、取り乱していると他人に知られてしまうことになりかねない。

 もちろん、美桃はそのような恋愛に共感する心の広さは持ち合わせてはいない。だが、そうは言っても大切なお客様であることには変わりない。彼らのプライバシーを守るのも店主の務めではないかと思う。

 美桃はカウンターの中で椅子に座り、手には小さな紐のついたボードを持っていた。貸切と書かれた手作りボードだ。

 まさか初日でこれを使うことになろうとは夢にも思わなかった。今これをドアにかければ、他の客がふいに来店するのを事前に食い止めることが出来る。そうすれば思う存分、二人が話し合いの場を持てるのではないか。

 が、二人の了解なく、勝手にこのような気を回してもいいものかと思い悩む。これではまるで、二人の話をすべて聞いていましたと、自分から宣言するようなものだ。

 いったいどうすればいいのか。美桃は心の中にまだ生き続けている夫に語りかける。桜野さん、困ったよ、助けて、と。

 するとその時だった。美桃の一番恐れていたことが起こったのは。夫に思いが届かなかったようだ。


「あの……。ごめんください」

「あ、い、いらっしゃいませ。あの、その、今は」


 ただ今貸切中ですので本日は申し訳ありませんが……などと咄嗟に機転を利かせた言葉がでるはずもなく、しどろもどろになってしまう。何かまずいことが起こりそうな予感が、美桃の脳裏を電流のごとく駆け巡った。


「横の駐車場に主人の車が止まっていたものですから」


 そう言って、その人は店内を見回した。


「あ、やっぱり。あなた、ここにいらしたのね」


 そのすらりとしたきれいな女性は背中に男の子を背負い、奥の席にいる男性に向かって声をかけた。


「えっ? あっ!」


 男性が口をぽかんと開けてその場に立ち上がった。


「あら、そちらの方は? もしかして商談中だったのかしら。ごめんなさい」

「いや、まあ、そんなところだ。そ、それよりどうしたんだ。ヒロトの具合が悪くなったのか?」

「いえ、そうじゃないのよ。今病院の帰りで、もう大丈夫だってお医者様に言っていただいたの。明日から保育園に行けるわ。そしたらちょうど通りがかった店の横に、あなたの車があって」


 背中で男の子がうーんと唸った。男の子は母親の背中で眠っていたのだ。


「あの、もしよろしければ、私が子供さんをお預かりしましょうか」


 美桃は背中で眠り続ける男の子に手を差し伸べた。


「いいのかしら」

「大丈夫です」


 美桃はきっぱりと答え、男の子を抱き寄せた。


「ごめんなさいね。この子、年長さんにしては身体は小さいほうだけど、でもそれなりに重いの。本当にごめんなさいね」


 母親特有の慈愛に満ち溢れた笑顔を見せたその女性から男の子を預かり、膝の上で向き合うようにして座ったまま抱きかかえた。

 母親は確かに笑顔だった。けれど。その目は笑っていないようにも思える。

 美桃は男の子の背中を軽くとんとんしながら、今はこのまま眠っていてちょうだいと祈り続けた。



「こんにちは、はじめまして」


 母親の声がした。落ち着きのある澄んだ声。男性の向いに座る沢井という女性に向かってあいさつをしたようだ。


「あ……。は、はじめまして」


 沢井さんのおびえたような声がした。さっきの勢いはどこに行ったのか、おどおどした声色に変わっていた。


「なあ、ここはもういいから。ママはヒロトを連れて早く帰った方がいい」


 妻のことをママと呼ぶ男性は、声が幾分上ずっている。まあ、それも仕方がない。愛人と本妻の予期せぬご対面に落ち着いていられる方がどうかしている。

 けれどこの張りつめた空気は、何と表現したらいいのだろう。全く彼らに無関係な美桃ですら、生きた心地がしない。

 さっきからずっと、どくっどくっと高らかに鳴っている心音が、胸元で寝息を立てているヒロト君を起こしてしまわないかと心配になる。


「そうね。あなたの言う通りだわ。でもせめてごあいさつだけでもさせてください。えっと、こちらの方は……」

「あ、こちらは、その、取引先のハウスメーカーの沢井、さん、だ」

「そうでしたか。そういえば主人から何度か沢井さんのお話を聞いたことがあるわ。お若いのに、しっかりと仕事をなさる方だと。あの、沢井さん、いつも主人がお世話になっています。今後とも、主人をよろしくお願い申し上げます」

「はい。こちらこそ……」


 沢井さんのようやく聞き取れるほどの細くて小さい声が伝わってくる。


「では、わたくしは、これで。あなた、今夜はお義母さまから頼まれていた法事の日程の件、お返事しないといけないから、少し早目に……」

「わ、わかってるよ。もう、これでいいだろ? ヒロトが起きないうちに早く帰れ」

「はい、そうします。では」


 一通りのあいさつを終えた母親が、こちらに向き直った気配を感じたその時だった。


「あの! ちょっと、待ってください!」


 突然、沢井さんの叫びにも似た大きな声が店内にとどろいた。



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