6.店主の秘密 その3
「私がどうやって結婚したのか、ですか?」
「そうよ。お願い、教えて。だって私たちって同じくらいの年じゃない? だったら感性とかも似てそうだし。ね、どんな小さなヒントでもいいから」
ぐんぐんサトさんとの距離が縮まっていく。
「でもサトさんは三十才ですよね。だったら私のほうがずっと年上ですから……」
「え? そうなの? てっきり同じくらいか、年下かもって思ってた」
サトさんが口をぽかんとあけて、驚いている。
「年下だなんて、言いすぎですよ。私、もうすぐ三十七才です。こんなおばさんの話がサトさんの役に立つのでしょうか? なんだか恥ずかしいです」
「そんなことおっしゃらずに、ね、教えて下さいよ。お願いします。このとおりです」
突然敬語調になったサトさんが、顔の前で両手を合わせて拝んでいる。
「そ、そうですか? なら……。あの、ナンパ、です」
「へえ、ナンパね……。って、ナンパって、あのナンパ? うそ、信じられない。桜野さんがナンパされたの?」
「ええ、まあ……。私が大学の通学時に、同じ車両に乗って通勤していた夫がホームで声をかけてくれたのが始まりです」
「そっか。案外とそんなもんなんだね。で、声をかけられた瞬間、びびびびっときて、この人だって思って結婚に至ったと。それでよろしいですか?」
「はい。そんな感じです。ちょうどそのころ、大学の先輩に失恋したばかりだったので、身も心も弱っていたのでしょうね。車両内で夫の姿はよく見かけていたので全くの他人とは思えなくて。なんて大人で落ち着いている人なんだろうって、警戒心もなくすぐに夫に惹かれていきました。そして半年、大学卒業と同時に……結婚しました」
「ありゃりゃりゃ。すっごいスピード婚だったんだ。でもさ、今だからこそ私もわかるんだけど。勢いって大事だよね。仕事がどうのだとか、相手の親がどうのだとか、いろいろ考えてる間は結婚なんて無理なのよ。で、その後も桜野さんご夫婦は安泰なのね。誰もが羨む、理想の夫婦だったりして」
「…………」
「えっ? 違うの? まさかだけど、離婚しちゃった、とか?」
「ごめんなさい。離婚はしていません。でも。夫は……」
美桃はこみあげてくるものを必死でこらえ、サトさんに伝えた。
「もうこの世にはいないんです。十年前に、亡くなりました」 と。
沈黙が続いた後、先に口を開いたのはサトさんだった。
「……私ね、自分ほど不幸で、人生に見放された人間は他にはいないって、そう思ってた。今のいままでね」
「サトさん……」
美桃は思った。サトさんだけではない、私だって自分が一番不幸だといつも思っていると。
人一倍寂しがりやのくせに、強がりのふりをして生きている。誰だって壁にぶつかった時は自分の人生を呪うものだ。何で私ばかりこんな目に合わなきゃならないのって。
「けどね、人って幸せになるのも不幸せになるのも、結局、本人次第なんだって思った。頭のどこかで、そうなんだってわかってはいるんだけど、なぜか人のせいにしてしまうのよね。自分は悪くないって思いたくて、誰かに責任をなすりつけてしまう」
サトさんの話に静かに聞き入っていた。
「桜野さんは自分一人で道を切り開いて、誰のせいにもしないで、ちゃんと前を向いて歩いてるってのに、私はなんて情けないんだろ。失恋したくらいでこんな大騒ぎして。こんなんじゃ、いつまでたっても結婚なんてできないし。たとえ結婚できたとしても、何かにぶち当たるたびにそこから逃げ出してしまうんだと思う。桜野さん、辛い話を聞きだしてしまってごめんなさい。私って、いつもこうなんだ。知らず知らずのうちに人を傷つけてるの、きっとね」
そんなことないです、と首を横に振る。決して自分一人でここまで来れたとは思ってはいない。話を聞いてくれる友人たちがいたし、道を正してくれる年長者もいた。
壁にぶち当たったばかりのサトさんには、まだまだ時間が必要だ。
「さあ、そろそろ行かないと。まずは、今まで住んでたマンションを引き払って、どこか新しい街で仕事を見つけないとね。生活基盤をきっちり作ってから、また誰かとの出会いを待ってみる。桜野さん、ありがと。紅茶、おいしかったよ」
サトさんが紺色のレザーの財布から代金を取り出し、テーブルの上に置いた。
「サトさん、ありがとうございました。あの、おつり……」
「いらない。おいしい紅茶をいっぱいいただいて、おまけに話まできいてもらって。これじゃあ、足りないくらいだから。あ、いけない、次の上り電車に乗らなきゃ。じゃあね、また」
腕時計を見たサトさんは、毛糸編みのざっくりとしたマフラーをぐるっと巻き、長い髪を首元から外に出して歩道を走っていく。
窓越しに彼女を見送っていると、突然立ち止まり振り返った。何かを言いながら手を振っている。
美桃は思わずドアを開けて、外に出た。
「桜野さん、お店、がんばってね。また来るからね。さよなら!」
サトさんが声をふりしぼってそう言った。美桃も両手を上げて手を振った。サトさんが見えなくなるまで手を振り続けた。
外の空気は冷たいけれど、太陽の光は春のように穏やかだった。
美桃は誰もいない店の中に入り、そっとドアを閉めた。




