37.いらっしゃいませ その1
「いらっしゃいませ」
十時の開店と同時に二人の若い女性客がやって来た。
「ここは紅茶のお店ですか?」
髪の長い女性が聞いた。
「はい、当店は紅茶のみ提供させていただいております」
「へえ、そうなんだ。いい感じの店だね」
「ホント、いい感じ。あたしの好みかも」
肩までの髪を無造作にカールさせたもう一人の女性が、目を見開いてそう言った。
「じゃあ、紅茶を二つお願いね」
「はい。わかりました。しばらくお待ちください」
二人は一番奥のテーブルに着き、店内を見回しては感嘆の声を上げていた。内装が彼女たちの好みに合ったらしく、壁紙の色を褒め、テーブルや椅子のセンスを賞賛する言葉が飛び交う。
「あ、お姉さん。このパッチワークのタペストリー、買えるのかしら?」
水の入ったグラスを運んで行くと、髪の長い方の女性が耳を疑うようなことを言い始める。
店内には、長い年月をかけて作った手作りの雑貨を並べている。タペストリーに動物のぬいぐるみ、単色の糸で刺した刺繍や端切れで作ったラグなど、どれも美桃の思いがつまった物ばかりだった。
けれど、所詮、素人の趣味の域を出ない完成具合であるとの自覚は持っていて、それを売って欲しいなど恐れ多いにもほどがある。
「あの、こちらは私個人の趣味で制作したもので、商品ではないのですが」
「へえ、そうなの? てっきり、プロの方が作ったのかと思っちゃった。すっごくかわいいし、色合いも素敵。あのね、差し出がましいかもしれないけど。このお店の中に手作りコーナーを作って、お姉さんの作品を売っちゃえばいいんじゃないかしら。あのぬいぐるみとかも、欲しい人、いると思うの」
「あ、ありがとうございます」
「是非お願いね」
「はい、善処いたします。貴重なご意見をありがとうございました」
美桃はなるべくいつもと変わらない対応を心掛けたつもりだったが、心の中は浮足立っていた。まさか、手作り品をこんなにも気に入ってもらえるなんて、思いもよらなかったからだ。
友人たちにプレゼントした時も同じようなことを言われたことがある。お世辞だと思っていたが、本当にこんな物でも欲しいと言ってくれる人がいるのなら……。
店の切り盛りもあるしそんなに時間を費やすことはできないが、まだいくつか家に置いてあるものを手作りコーナーに並べてみるのも一案かもしれないと思い始めていた。
「あの……。いいですか?」
またお客さんだ。一人は赤ちゃんを胸元に抱き、あとの二人はジーンズにジャケットというラフなスタイルの三人組が恐る恐る店内をのぞき込む。
「あ、いらっしゃいませ。どうぞお入りください」
「うわーー。あったかい。素敵なお店ね」
「ホント、ホント。しゅうくんもここなら寒くないよね」
しゅうくんとは、母親の胸で眠っている赤ちゃんのことなのだろう。カウンター近くのテーブルに着いた三人は子どもを幼稚園に送った帰りで、雪道での立ち話はさすがに寒かったらしく、昨日ここを見かけたという一人の提案で立ち寄ってくれたらしい。
「いらっしゃいませ!」
三人のオーダーを受けたちょうどその時、またもや誰かが入ってきたようだ。美桃はあわててもう一組の客の元に急いだ。
「なんか場違いな気もせんでもないが。コーヒーと紅茶を一つずつ」
七十代くらいだろうか。青いセーターを着て帽子を深くかぶった男性が、低い声でそう言った。
「申し訳ありません。当店ではコーヒーは……」
「おやおや、そうでしたか。ねえねえ松本さん、やっぱりコーヒーはないようですよ」
「そうですか。ないですか。では私も井ノ瀬さんと同じく、紅茶をいただくとしましょう」
明るい橙色のチェックのシャツを重ね着した人が松本さんというらしい。そして、青いセーターの人が井ノ瀬さん。
井ノ瀬さん……。その名前を聞いた途端、美桃の背筋に緊張が走った。井ノ瀬さんは深くかぶっていたハンチング帽を脱ぎ、美桃ににっこりと笑いかけた。
「いいお店になりましたね。私も鼻が高いですよ」
その人はこの土地を貸してくれた地主の井ノ瀬さんご本人だった。
「い、井ノ瀬さん。その節はいろいろとお世話になり、本当にありがとうございました。本日は当店にお越しいただき、ありがとうございます」
「桜野さん、そんな堅苦しいのはいいから。オープンの前日には自宅までご丁寧に挨拶に来ていただき、こちらこそ恐縮していますよ。さあ、お客さんがいっぱいだ。私たちのことより、他のお客さんを優先してくださいよ」
「ありがとうございます。では、紅茶の準備をさせていただきますので、しばらくお待ちになって下さい」
ついさっきまで梶谷さんとの別れで感傷的になっていたのに、いつまでも悲劇のヒロインではいられない。まだ目が腫れているかもしれないが、そんなことを気にしている場合ではないのだ。今は笑顔でてきぱきと仕事をこなすのみ。
本当は、彼を追いかけて行きたかった。一緒に行くのは無理でも、せめて空港まで、いや、最寄りの電車の駅まででいいので見送りたかった。
けれどそれはもう叶わぬ夢なのだ。彼も、そして美桃も。あの感情にはピリオドを打ったはず。何も変わりはしない。
今まで通り、一歩ずつ地に足を付けて歩いていくことが、美桃に課せられたこれからの人生なのだ。
忙しい方がいい。何もかも忘れて仕事に打ち込むことで、心の整理がつくかもしれない。
美桃は注文された紅茶を手際よく準備することにひたすら気持ちを集中させた。
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