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紅茶、飲みませんか  作者: 大平麻由理
36/40

36.最初で最後の雪の朝に その3

「約束? あの、どんな約束ですか」


 そんなことは桜野さんからは何も聞いていない。いったい何の約束なのだろう。


「将来、それぞれに伴侶が出来て結婚したら、三家族で一緒に旅に出かけようと約束していたのです」

「三家族で?」

「そうです。子どもが出来たら、その子たちも一緒に。キャンプをしながら日本各地を回れるといいなと言って、それはもう大盛り上がりでした。今となっては叶わぬ夢ですね。僕と中森がもっと早く結婚していれば、あるいは太輔の運命も変わっていたかもしれない。あの事故の日、三家族でどこかにキャンプに行っていれば……とそんな風に考えたこともありました」


 梶谷さんは美桃とは反対の方向に顔を向け、自分の頬をパンパンと叩いた。そして再びこちらを向いた時には彼の目が赤くなっているように見えた。


「そろそろ行きましょうか」

「はい」


 もう少しここにいて梶谷さんの話を聞いていたかった。もうこの世にはいないはずなのに、ごめん、長い間待たせたねと言って、向こうの山から桜野さんが下りてきそうな気がしたからだ。

 そして約束通り、三家族でキャンプに出掛けるのだ。

 中森さんとサトさん、美桃と桜野さん、そして梶谷さんと……。昨日話してくれた生き物の研究をしている彼女だろうか。どんなキャンプになっていたのだろう。楽しさのあまり、星空の下、夜通し語り明かすのかもしれない。

 けれど、どれだけ想像してみても、その三家族は現実にはなりえない。当時、中森さんはサトさんとは出会っていないし、彼女の研究に同行していれば梶谷さんは日本にはいない。やはりこれは実現不可能な夢物語でしかなかったのだ。


 梶谷さんはここでも紳士だった。昨日のような熱い視線を送ってくることもなかったし、彼にとって旧友でもあり、今となってはライバルであるはずの桜野さんの話を持ち出したことからも、あの話は封印してしまったのだと確信した。

 これでよかったのだ。梶谷さんのことを心から愛し、信頼してくれる女性がどこかにいるはずだ。それは美桃ではなかった、というだけのこと。

 昨夜の数時間、そして雪が一面に輝くこの朝に梶谷さんと過ごし、ほんの一瞬でも心が重なり合えたことは奇跡ではないだろうか。彼と過ごした夢のような時間は、これからも一人で生きていく美桃の大きな心の支えになるだろう。


 太陽の光に照らされて、どんどん雪が融けていく。民家の軒下では水が滴り落ち、アスファルトの路面にはまるで小川のように融けた水がさらさらと流れて行く。

 梶谷さんは何も話さずハンドルを握っていた。室内楽の演奏がちょうど一区切りついたところで美桃の店の前に着いた。

 それでも彼は黙ったままだった。じっと前を見て堅く口を閉ざしていた。

 美桃も何も言い出せなかった。黙ってうつむき、沈黙の時が過ぎるのを待った。


「梶谷さん」「桜野さん」


 お互いの名前を呼んだのは、ほぼ同時だった。


「桜野さんからどうぞ」

「いえ、梶谷さんから……」


 譲り合ううちになんだかおかしくなって、今度もまた二人同時に笑い出す。


「梶谷さん、今日は朝早くから私のために時間を割いていただき、ありがとうございました。本当に嬉しかったです」


 先に話し始めたのは美桃だった。店に送り届けてくれたことへの感謝の気持ちを告げることが、今最大の優先事項だ。


「いいえ、僕にできることをしたまでです。おっといけない。これ以上あなたを引きとめたら店の営業妨害になってしまう。いろいろ準備もあるでしょう?」

「いえ、そんなことは……。あ、そうですね、早く開店準備をしなくては」


 あと十五分くらいなら大丈夫、と思いながらも慌てて打ち消す。彼とこれ以上一緒にいたらますます別れが辛くなる。仕事という大義名分を掲げることで、スマートにこの場から立ち去ることが賢明だ。


「桜野さん、今日も一日、仕事頑張って下さい」


 車を降り、店のドアの前に立った美桃に梶谷さんが笑顔を向ける。


「はい。頑張ります。梶谷さんもお仕事頑張って下さい。いい飛行機の旅になりますように」

「ありがとうございます。ではまた」


 最後にもう一度笑ってくれた梶谷さんが車をUターンさせ、実家の方向に戻って行った。

 これで本当に彼とはお別れだ。もちろん、彼が帰省した折には会うことも可能だ。けれど彼の気持ちを聞いてしまった以上、今まで通りというわけにはいかないのもわかっていた。

 彼の気持ちに即座に応えられなかった自分がもどかしい。そして、何度消し去ろうとしても脳裏によみがえる彼の笑顔が、美桃の心を独占してしまう。

 もうとっくに彼の車は見えなくなっているのに、その場から離れられない。屋根から落ちた雪解け水が美桃の頬をかすめる。


 冷たい……。


 はっと我に返った美桃は、頬を濡らしているものが水なのか涙なのか区別がつかないまま、嗚咽にも似た声を上げながら、両手で顔を覆い泣いていた。

 


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