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紅茶、飲みませんか  作者: 大平麻由理
35/40

35.最初で最後の雪の朝に その2

「まさか、姪のまひろが家出をしたなんて。本当にびっくりしました」


 昨夜マダムの一人である小野原さんが梶谷さんに話したのだ。彼はお姉さんからそのことは聞かされていなかったのか、寝耳に水のような驚き具合だった。けれど、小野原さんも梶谷さんも、まひろさんが美桃の店を訪れたことまでは知らなかったようなので、話はそこで止まっている。

 実は昨日まひろさんとお会いしたのです、と喉元まで出かかっている真実をぐっと押しとどめた。

 たとえ叔父と姪の間柄であったとしても、まひろさんのプライバシーを侵害するようなことはあってはならないと思ったからだ。


「そうですね。私も小野原さんの話を聞いて、びっくりしました。でも戻られてよかったです。まひろさんは、家族思いだから……」


 バイオリンを大切そうに胸に抱え、泣いていた彼女が美桃の脳裏から離れない。母親や叔父である梶谷さんに迷惑をかけたくない一心で、バイオリンを辞めようと家を飛び出したまひろさんの心情が痛いほど伝わってくるのだ。


「え?」


 梶谷さんが不思議そうな顔で美桃を見た。そして、


「桜野さん、もしかして、まひろのことをご存知ですか?」 と訊ねられたのだ。

「あ……。それは、その」


 あっさりと見破られてしまった。ああ、まひろさん、ごめんなさいと心の中で彼女に詫びる。個人情報を流してしまうだなんて店主として失格だ。美桃は自分のふがいなさにうなだれる。


「そうでしたか。いやね、そんな気はしていたんですよ。あいつは何かを言い出したらテコでも動かない、決めたことは最後までやり抜く、とまあ、見かけによらず勇ましいやつなんです。家出まで決行しておきながらあっさりと母親につかまって、おまけに何事もなかったかのように受験に臨んでいる。何かおかしいなと思っていました。受験中なので姉にも深く追及はしなかったのですが、そうか、そうだったのですね」

「あ、いや、まひろさんは、その……」

「いいですよ、あなたは何も言わなくても。まひろのことを思って、事を荒立てずそっと見守って下さった、そうですよね?」

「そんなことは……」

「あいつ、あなたの店に駆け込んだのではないですか? 実はね、あいつには、僕の知り合いである桜野さんがあそこで店を出すというのを知られていたんです。昨年の盆に帰省した時、たまたまあなたと電話しているのを聞かれてしまってね。聴覚のみならず、嗅覚まですぐれているまひろは、さっそく電話の相手や内容の追及にかかったというわけです。別に隠すことでもないかと思い、一切脚色せずに、真実のみを語ったのですが。あいつ、僕の本心まで見破っていたのかもしれません。それで、あなたを頼ったのかと」

「そうでしたか」

「あなたに出会えて、まひろは幸せ者ですよ。あの頑固者が素直に母親の元に戻ったって、にわかには信じられませんが。桜野さん、いったいどんな魔法を使ったのですか?」


 そう言って、梶谷さんは、あはははと笑った。

 まひろさんは知っていたのだ。梶谷さんと美桃がすでにつながりがあることを。

 最初はおどおどして不安そうだった彼女だったが、最後にはすっかり信用してくれて、何よりも大切なバイオリンを預けてくれたのだ。もし梶谷さんが日本にいたなら真っ先に彼を頼ったに違いない。けれど彼は遠い異国の地に離れて暮らしているため、美桃にすがってきたのだろう。

 梶谷さんほどの大きな器は持ってはいないけれど、少しは彼女のよりどころになれたのだろうか。

 まひろさんが持っている力を発揮して受験結果に結びつけられるよう願わずにはいられなかった。


 車はどんどん村の奥に進んでいく。そこは住民たちの生活道路なのだろう。除雪が不十分なところに幾重にも重なって車の轍が残っている。


「あ……。除雪されているのはここまでですね。これ以上進むのは無理かな」


 その先は道が細くなり、雪も多く残っているのがわかる。そこはバスの回転地のようになっていて、くるりと方向転換をし、森林公園入口と書いた看板横の広場に車を停めた。


「この少し先で会いました。太輔と……」


 窓越しにあたりを見回しながら、遠い過去を思い出すように梶谷さんがつぶやいた。


「ちょうど雨の日でね。当時、村の青年団に所属していた僕と中森は、公園の柵や看板、ゴミ箱等に不備がないか見まわっていました。後日ここで、青年団主催の音楽祭が予定されていたからです。そうしたら、ずぶぬれになった若者が山の方から歩いて来たんです。それが太輔との初めての出会いです。天候を読み違えたことと、山道で迷ったことが重なって、この村に立ち寄ることになったと言っていました。その後、青年会館に招いて泊まってもらい、いろいろ話をして、意気投合した、というわけです。僕も中森も太輔と同じように日本中を旅するのが好きで、お互いに気に行った場所の情報交換をしたりして、その後もずっと親交が続きました。結婚後のことは、桜野さんもご存じですよね」

「はい。旅の話になると、梶谷さんや中森さんのことを得意げに語っていました。主人にとって、あなたたちは自慢の友人でした。……そうですか。このあたりで、出会ったのですね」


 そこは森の入り口のような場所だった。雪をかぶった木の枝がいたるところで重そうにしなっている。


「ちょっと外に出てみましょうか」


 梶谷さんの提案に、美桃は、はいと頷いた。

 まだ誰も踏んでいない雪の上にそっと足を降ろし、広場を歩き始める。


「桜野さん。実は当時、太輔や中森と約束していたことがあったのです」


 少し先を歩く梶谷さんが立ち止まりそう言った。



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