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紅茶、飲みませんか  作者: 大平麻由理
33/40

33.恋は静かに始まりを告げる その2

「桜野さん、大丈夫ですか?」


 膝の下まで雪にうずもれながら、よいしょ、よいしょとアパートに向かって歩いて行く美桃に、梶谷さんが声をかけた。その声が楽しげに弾んでいるように聞こえるのは気のせいだろうか。

 こんな雪の中を歩くのは桜野さんと一緒にスキー場に行った時以来の出来事なので、美桃自身も子どものようにわくわくしていた。

 歩くたびに新雪がきゅっきゅっと音を立てている。ゆっくりと一歩ずつ踏みしめていけば、滑る心配はなさそうだ。


「はい。大丈夫です」 と笑顔で返した直後にそれは起こった。

「あ、ああああっ!」


 前に進もうと足を踏み出したとたん、短めのブーツがぬげてしまい、靴下を履いていた足が直接雪の上に着地してしまったのだ。その冷たさといったら……。


「つ、冷たい!」

「さあ、つかまって」


 そう言って手を差し伸べてくれた梶谷さんだったが、すぐに困ったような顔になりその手を自分の方に引き戻してしまった。

 けれど次の瞬間には半ば強引に美桃の手を握り、後方に取り残されたブーツを足元に置いてくれた。


「桜野さん、ごめんなさい。あなたには触れないと約束しましたが、今はその約束を反故にさせていただきます。困っている女性をサポートするのは当然のことですから」


 彼に片手を支えてもらいながら、靴下の雪を掃い、ブーツを履く。けれど、あまりにも真剣な顔をした梶谷さんの言い訳がなぜかおかしくて、クスッと笑ってしまった。


「何がおかしいんですか? 桜野さん、本当に大丈夫ですか?」


 梶谷さんが、突然笑い出した美桃を不思議そうに見ている。


「ごめんなさい。笑うつもりはなかったんです。でも、梶谷さんがあまりにも真面目な顔をして、お話されるものだから……。あの、梶谷さん。あなたが感情にまかせて女性をもてあそぶような方だとは思いません。それにこのような場を利用して自分本位なことをする方とも思えません。助けていただき、ありがとうございました」


 街灯の灯りをたよりに、梶谷さんの目を見て言った。


「いえ、僕は別に何も……。でもあなたに誤解されていないようでよかった。いくら雪のせいだとしても、この状態は世間一般で言うところの送りオオカミ状態ですからね。あなたに警戒されていたらと思うと、それは僕の真意に反する。ああ、よかった。僕の気持ちを理解してくれていて」


 まさか梶谷さんの口から送りオオカミなる言葉が出てくるなんて思いもしなかったが、彼がそんな人ではないことは美桃自身がよくわかっている。

 夫を亡くした後、がむしゃらに働いていた職場でいろいろなことを経験した。年下の独身男性から求婚されたこともあった。取引先の既婚者から、割り切った付き合いをしないかと交際を求められたこともあった。気心が知れ信頼している同僚に、突然、男の顔で迫られたこともあった。


 怖かった。何をされたわけでもないけれど、男性の存在自体が怖く思える時期もあった。桜野さんが生きていたなら、こんなことにはならなかったのにと自分の人生を呪ってみたりもした。

 梶谷さんもその男たちと変わらない一人の男性だ。けれど彼は美桃を傷つけることはしない。何の根拠もないけれど、彼は美桃の心に土足で踏み込んでくるような人ではないと信じて疑わない安心感みたいなものがあった。


 再びよいしょ、よいしょと雪道を歩き、アパートの前までやって来た。そして、二人そろって、はたと立ち止まるのだ。

 梶谷さんの視線も、美桃の視線も、ある一点に注がれる。

 ずっと繋いだままだった、お互いの手に……。


 どちらからともなく手を離し、無意識のうちに高鳴る胸のときめきを隠すように、愛想笑いなんかをしてみる。


「すごい雪ですね」


 梶谷さんもすぐに美桃から離れ、何もなかったかのように目の前にこんもりと盛り上がっている雪の山を見てそう言った。


「ほ、本当に、すごい雪」


 そこはアパートの出入り口になっているところで、屋根の雪が滑り落ちて腰くらいの高さまで雪山が出来ていた。


「あ、いいものがあった」


 軒下に立てかけてあった板のようなものを手にした梶谷さんが、それを使って雪かきを始めた。


「二階には誰も住んでいないのかな?」


 梶谷さんが雪山の向こうにある階段の上を見上げながら言った。


「はい。二階は私だけです。一階には二人住んでいらっしゃいますが……」


 一階に二軒、二階に二軒のこじんまりとしたアパートだ。一階の二人には一度挨拶に行っただけで、それ以降見かけたことはない。けれど窓に灯りがともっている所を見ると、今夜は在宅しているようだ。


「よし、これで階段にたどりつくね」


 瞬く間に雪を退けてくれた梶谷さんに心から拍手大喝采を送りたい気持ちになる。もしここに彼がいなければ、どのようにして階段に到達したのだろうか。雪の山に足を取られて、立ち往生していたかもしれない。

 けれど、これ以上梶谷さんを引きとめておく理由はない。どこか寂しさを覚えながらも、今夜はありがとうございましたと言って階段を上がりかけたのだが。


「あ、待って下さい」


 彼の手が伸びてくる。これって、まさか……。と思った次の瞬間、それは美桃の勝手な思い過ごしだったと悟る。

 梶谷さんはさっきの板を使って、階段の上に積もっていた雪を払いのけてくれたのだ。階段の下部五段ほどだったので、それもすぐに終わってしまう。

 美桃は自分自身の早とちりがおかしくなてしまった。彼は言ったことは必ず守る人だ。たとえどんな形でも、もう二度と美桃に触れることなどないとわかっているはずなのに、どこかで彼のぬくもりを期待していた自分がいることに驚きを隠せない。


「桜野さん、滑らないように気を付けて上がって下さいよ。今夜はここで失礼します。あの……。今日、僕が言ったことは、忘れて下さい。お願いします。あなたこれからもずっと今のあなたのままでいて下さい。村の皆から愛されるあなたでいて欲しい、とそう思いました。では」

「梶谷さん、ちょっと待って下さい」


 美桃が梶谷さんを呼び止めた。


「あの……。いつまでこちらにいらっしゃるのですか?」

「明日の夕方には空港に向かう予定です」

「明日……。そうですか。わかりました。梶谷さん、今夜はいろいろとありがとうございました。おやすみなさい」


 梶谷さんもおやすみと言って手を振る。彼は何度も振り返った。そして白い夜道を進んでいく。

 美桃は彼の後ろ姿が見えなくなるまで階段の三段目のところから手を振り続けていた。





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