3.お店、はじめました その3
「あら、いけない。もうこんな時間。そろそろお昼ご飯の用意をしないとね。みももさん、今日はつまらない話ばかり聞いてもらって、ごめんなさいね。ねえ、またここに来てもいいかしら?」
「ええ、もちろんです。お待ちしています」
「まあ、嬉しい。ありがとう。なんだか心が軽くなった気がするの。みももさんのおかげだわ。紅茶もおいしかった。もしかして、この紅茶には何か魔法がかかってるのかしら?」
さよさんが茶葉だけになったポットを指さす。
「魔法、ですか?」
「そうよ。一口飲むとほっとして、二口飲むとおしゃべりしたくなる。三口目にはもう止まらなくなって、次々と言葉が溢れてくるの。硬く閉まっていた心の扉を、優しく開いてくれるのよね。そして、こんなおばあさんの話を真剣に聞いてくれるみももさんがいる。これが魔法じゃなかったら、いったい何だというの?」
「何でしょう……」
美桃にもどうしてだかわからない。ただ、さよさんの話が美桃の心にずんと響いてきたのだ。
彼女は母のようでもあるし、友達のようでもある。話の内容とは裏腹に、どこか心地よさがあったのは事実だった。
「本当にありがとう。ごちそうさま」
さよさんは立ち上がり、おいくら、とたずねる。
「あの、まだ代金は決まっていないんです」
美桃は少し決まり悪そうにそう言った。何日も何日も考えていたけれど、値段だけは今朝になっても決めかねていた。
材料費などを考慮すると利益を出すには五百円は必要になる。けれど町のカフェやコンビニなどでは、ずっと低い価格帯で提供されているのも事実だ。
「まあまあ、みももさんったら。やっぱりここは不思議なお店だわ。でもね、しっかりと相場価格を請求しないとお店を続けられなくなるわよ。そうね、私だったら、六百円はお支払するわ。もっと高くてもいいわよ。だってとってもおいしかったもの。付け合わせのお品もたっぷりあるしね」
「さよさん……」
「ほらほら、みももさん、しっかりしなきゃ。あなた、ここの店主なんでしょ? これからもずっとお店を続けて欲しいから、ちゃんと請求してちょうだいね」
さよさんが美桃の手を取り、優しく諭してくれる。
「ありがとうございます。じゃあ……。三百円で」
「あら、まあ。本当にそれでいいの?」
「はい」
しまった、と思っても言ってしまったからには、もう手遅れだ。
「ほんとのほんとに?」
「あ、はい。大丈夫です」
「わかったわ。じゃあ、これ」
さよさんは花の模様が描かれた財布を取り出し、美桃の手に代金をのせた。
「みももさん、今日はありがと。これからも頑張ってね。きっとこのお店、人気店になるわ。じゃあ、またね」
「ありがとうございました」
美桃は、お客さん第一号のさよさんに深々と頭を下げた。さよさんも何度も振り返り、手を振っている。歩道の真ん中は、もうすでに雪はとけている。
背筋を伸ばし元気な足取りで、さよさんはぐんぐんと遠ざかって行った。
さよさんの姿が見えなくなると、美桃はカウンターの中に戻り、オレンジ色のノートを取り出した。
Bの鉛筆を握り、まっさらなページに日浦小夜さん、と書いた。
一人暮らしで息子さんが二人。はちみつがお気に入りと書き添える。
これで次回来店した時に彼女の好みに合わせたサービスができるだろう。今後このノートは、一人で店を切り盛りする美桃のよきパートナーになるはずだ。
ノートをカウンター下にある引き出しに戻し、カップやポットを洗い、リネンの布巾できゅっきゅっと拭いた。
あっ、そうだ。美桃は急に何かを思い出したかのように、またもや引き出しを開ける。
中から名刺サイズのカードのような物を取り出し、手にはマジックペンを持った。小さめに300円と書いて、壁のポスターの下部に貼る。
これでお客さんも安心だろう。価格のわからないものを注文するほど恐ろしいものはないからだ。
結婚する前に、桜野さんと飛び込みで入店したフレンチレストランで味わったあの恐怖は今も忘れない。
これで本当に準備は完ぺきだ。あとはお客さんが来るのを待つだけ。
陽射しも温かく、昨日の大雪とは打って変わり、真冬とは思えない気候がオープンを後押ししてくれているにもかかわらず、残念ながら足を止めてくれる人はさよさん以外誰もいなかった。
もともと人通りは少ない場所だ。民家もまばらなこの地で集客を見込めるわけもなく、親族友人知人、全員がそろいもそろってここで店を開くことに大反対だった。
美桃はカウンターに肘をつき両手に顔をのせて、大きなため息をついた。
……と、その時だった。
「ランチある?」
髪の長い若い女性がぶっきらぼうに言葉を投げつけながら駆けこんでくる。力任せにドアが閉められ、バタンと大きな音を立てた。
「ねえねえ、聞いてる? ランチあるって、言ったんだけど」
「あ、いらっしゃいませ。すみません、ランチは……」
美桃はあまりに乱暴な振る舞いのその人物に、声も出ないほど驚いてしまったのだ。
その女性は息を切らせて、すさまじいスピードでカウンターのところまでやってきて美桃をにらみつける。
「ランチ、やってないの? なんだ、つまんない店。ま、いいか。どうせ食欲なんてないんだし。じゃあ、紅茶でいいわ。ふんっ!」
ついさっきまで、さよさんが座っていた黄色い椅子にドサッと腰を下ろした女性は、よく見ると、涙の伝った細い筋が頬にいくつもついていた。




