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紅茶、飲みませんか  作者: 大平麻由理
22/40

22.貸切の夜は密やかに更けていく その2

「ああ、うまい。桜野さんの紅茶、本当においしいな。太輔(たいすけ)が生前、いつも言っていました。妻の淹れてくれる紅茶がうまいんだ、ってね」

「そう言っていただけて、嬉しいです。あの、もしよかったらスコーンもいかがですか?」


 美桃はまだ残っているスコーンを梶谷さんに勧める。 


「おお、スコーンですか。ではいただきましょう。もしかして自家製ですか?」

「いえ、違います。昨日来て下さったお客様が……」


 旦那さんの不倫相手と鉢合わせして、ご迷惑をおかけしましたと持って来てくださったお礼の品です、とは言えるはずもなく。


「そうですか。もう桜野さんのファンができたのですね。うまそうだ」

「いえ、ファンとかではなくて、その……」

「この店が気に入ったのでしょうね。うん、きっとそうだ」


 単純に店を気に入ってくれただけなら、どれだけ嬉しいか。とにかくヒロト君が家族と一緒に幸せに暮らせることが美桃の一番の願いだ。ここは梶谷さんの勘違いをありがたく受け入れようと思った。

 温め直したスコーンを皿に乗せ、クロテッドクリームとジャムを添えて、待ち構えている梶谷さんのテーブルの上に置いた。


「うん、うまい。いい焼き具合だね。桜野さんの紅茶にぴったりだ。さあ、桜野さんも座って。僕と中森以外にもう誰も来ることはないんだから。オープン一日目の昨日の話を聞かせてくださいよ」

「あ、はい。では……」


 美桃は梶谷さんのハイテンションにたじろぎながらも、向いの薄桃色の椅子に腰を掛けた。


「昨日はまだ雪もそれほどひどくはなかったみたいだし。大繁盛だったのではないですか?」

「いえ、そんなに大勢の方に起こしいただいたわけではないのですが、ぼつぼつと数名の方がいらっしゃいました」

「それはすごい!」

「そんな……。すごくはないです。やはり、宣伝不足かな、と反省しています」

「何を言ってるんですか。よーく考えてみてください。この村の中ですよ。人口も限られている。オープンしたてのうちは、誰一人、客が入らなくても不思議はない。そんな中、宣伝もしないのに数名の客が来たのですよね。そして、このうまいスコーンまで差し入れてくれる人がいる。大成功ですよ。心配いらない。春になれば、行列が出来るかもしれませんよ」


 美桃は目の前がかすんでくるのがわかった。泣くまいとこらえているけれど、勝手に涙があふれてしまう。

 こんな風に励ましてくれる人がいるだけで、美桃は今日まで一人で生きてきた辛さも寂しさも、全部どこかに飛んで行ってしまうくらい、幸福感と感謝の気持ちで満たされていく。


「桜野さん? え? ど、どうして?」


 梶谷さんは美桃の涙を見て、あわててポケットからハンカチを取り出した。美桃は梶谷さんからハンカチを受け取り、涙をぬぐった。


「梶谷さん。せっかく、海外から、駆けつけて下さったのに、こんな姿を、お見せしてしまって。本当に、ごめんなさい」

「あの、大丈夫ですか? こちらこそ申し訳ない。調子に乗って、桜野さんを傷つけてしまったようだ……」


 梶谷さんは困惑顔で肩を落とし、うな垂れている。


「いえ、そうじゃないんです。私、嬉しかったんです。梶谷さんのおっしゃる一言一言が私を元気づけてくれて、そして、これまでのいろいろな出来事がよみがえって来て、つい、思いが溢れてしまいました。幸せな涙です。主人が旅立ってから、嬉しくて涙を流したのは今日が初めてです。寂しくて、悲しくて、辛くて、悔しくて。今まではそんな涙ばかりでした」

「そうでしたか……。今までよく頑張ってこられましたね。僕たちの援助の申し出も受けることなく、あなたはずっと一人でここまで生きてこられたのです。そんな桜野さんを僕は応援せずにはいられない。さあ、もう泣かないで。笑顔を見せて下さいよ」


 美桃は目を真っ赤にしながら、梶谷さんに向かってはにかむように笑って見せた。


「そうですよ。桜野さんはそうでなくちゃ。……そうか。電話やメールではいつも明るくふるまっておられたから、もうすっかり立ち直っているとばかり思っていました。けれど、そんな簡単なことではないですよね。おっといけない。また桜野さんを泣かせてしまうところだった。もうこんな湿っぽい話は辞めよう」

「ごめんなさい。なんだかこのごろ、涙もろくなっちゃって」


 笑顔がまたもや涙で埋もれてしまいそうになるのを、寸前で押しとどめる。


「一緒ですよ。僕もドラマを見ては泣き、小説を読んでは泣き、果てはうまいものを食っては泣き、ですからね。あ、電話だ。ちょっと失礼」


 梶谷さんが携帯を取り出し、美桃の反対側を向いて、話し始めた。


「ほーい、俺だけど。……え? 何だって? ……うん、……うん。何だよ、それ。彼女、大事にしないとダメだろ? うん、……うん。わかった。こっちはおまえの車をあてにしてたっていうのに。……いや、それがね、村は大雪なんだよ。……ああ、じゃあな」


 もしかして電話の相手は中森さんだろうか。


「あの……」


 美桃は遠慮がちに梶谷さんを見た。


「あ……。今の電話、中森です。あいつ、今夜は都合がつかなくなったらしくて」

「そうですか。残念ですけど。でも仕方ないです」


 彼女、大事にしないとダメだろという言葉を聞く限り、中森さんとその彼女との間に何か問題が起きたのだろう。男女間には他人が介入できない不思議な感情が渦巻くものだ。


「ったく、しょうがないな。なんかね、中森の彼女が昨日から突然消えたらしくて。彼女から結婚話が出て、今はまだ無理だと告げた矢先のことらしいです。中森のやつ、いい年していったい何をやってるんだか。あいつのお袋さんもずっと心配してて、お袋さんのためにもそろそろ落ち着けよとは言っていたのですけどね」


 梶谷さんが腕を組み、はあ……と大きなため息をついた。


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