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紅茶、飲みませんか  作者: 大平麻由理
16/40

16.夢を奏でて その2

「はい、失礼いたしました。お会計でしょうか……」


 美桃の問いかけに少女は無言を貫く。会計ではないようだ。すると、


「あの、これ」


 少女はおもむろに黒いケースを美桃に差し出した。


「えっ? これ、ですか?」

「預かって下さい。お願いします。それとこれ、ごちそうさまでした」


 カウンターに百円玉が三枚、無造作に置かれた。


「ちょっと待って下さい。これ、お預かりするのは構わないのですが、もしかして、バイオリン? ちがいますか?」


 少女は困ったような顔をしながらうなずいた。


「あなたにとって、大切な物なのでは……。 それに、お家の方も心配されますよ」


 今度は大きく首を横に振る。


「お願いします。少しの間だけでいいので」


 少女は目に涙を浮かべ、尚もバイオリンを差し出す。


「わ、わかりました。では、お名前と電話番号を教えていただけますか? それだけはお聞きしておかないと。こちらもお預かりする以上、責任がありますから」


 いくらなんでも見ず知らずの人の大事な物を、何も聞かずにはいそうですかと預かるわけにはいかない。万が一、名だたる名器だった場合、強盗に襲われる心配だってある。

 すると少女はペンとメモ帳を取り出し、サラサラと何かを書いた。そして、美桃に無言で手渡した。


「今、お店にかかっているこの曲、五歳の時に発表会で演奏しました」


 突然そんなことを言い出した少女の目が、きらきらと輝きだす。


「あの、何という曲ですか?」


 よく聞く曲だけど、曲名までは知らない。美桃は少女にたずねた。


「モーツアルトのメヌエット、ニ長調です。紅茶もスコーンもおいしかったです」


 少女はそれだけ言うとカウンターの上に黒いケースを置き、すぐにドアの横にあるジャンパーを取って、店を出て行ってしまった。

 それまでの少女の動きからは想像できないほどの、それはもう、目の回るような速さだった。


 カウンターの下にある棚からタオルを取り出し、少女が置いていったバイオリンケースを優しくふいた。

 店内に少女を招き入れたばかりの時は部分的に雪に濡れているようだったが、幸いもう乾いている。

 そのままだとシミになるかもしれないとふと心配になり、中の楽器を傷つけないよう注意を払いながら、ていねいにふき上げた。

 カウンター内の壁面にカップ類が並んでいる戸棚がある。そのオープンスペースに黒いケースを入れた。

 とりあえず今日一日はここで保管しておくことにしよう。

 夜は……。自宅に持って帰る必要がありそうだ。ここに置いたままで泥棒に盗まれでもしたらと思うと、おちおち寝ていられないではないか。

 それにしても大変なことに巻き込まれたものだと、つくづく自分の運のなさに落胆する。

 すると間もなく次の客がやって来た。少し騒がしい。一人、二人、三人、四人……。いや、まだいるようだ。

 ぞろぞろと入ってきた新たなる客人は全部で七名だった。


「やだ、空いてるじゃない。よかった。どこにする?」

「どこにしようかしら。ここらへんでいいんじゃない」

「このテーブルとそのテーブルをくっつけて。椅子も持ってくればバッチリ!」

「さむさむさむ。ホンマ、寒かったわ。はよ座ろ。ほら、みんな座って、座って」

「私、この椅子がいい!」

「じゃあ、私はこの黄緑の」

「皆、座った? じゃあ、お店の人呼ぶね。すみませーーん! お姉さーーん」


 目の前で繰り広げられるすさまじい光景に、美桃は茫然と立ち尽くすしかなかった。

 背の高いリーダー風のマダムの声に我に返った美桃は、言い出すチャンスのなかったお決まりの言葉をようやく発することに成功した。


「い、いらっしゃいませ。当店は紅茶のみの……」


 が、マダムたちは聞く耳を持たない。容赦なく攻めてくる。


「私、ホット」

「私はオーレ」

「うちはレモンティー」

「なら私はミックスジュースで」

「私もコーヒー、ホットで」

「私はミルクティー。もちろん、温かいのをね」

「えっと、私はハーブティーで」


 矢継ぎ早の注文合戦に、美桃はほんの一瞬、気を失いそうになってしまった。


「皆さん、ちょっと待って!」


 そんな中、暴走する皆を制止したのは、やはりリーダーとおぼしき、背の高いマダムだった。


「もしかしてここのお店、紅茶専門店じゃない? ほら、あれ見て」


 リーダーが壁を指さす。


「えっ、どれ? あ、ホントだ」


 全員が一斉に、手書きのポスターに視線を向けた。


「紅茶は一種類だけ、メニューはありません、ですって」

「なーーんだ。そういうことだったの」

「へえ、変わった店やな。でも迷わんでええから助かるやん」


 関西弁を話すマダムも納得したようだ。


「お姉さん、お騒がせしてごめんなさいね。では紅茶を七つ、お願いします」

「はい、紅茶を七つご用意させていただきます。しばらくお待ちください」


 リーダーがうまく場をまとめてくれたおかげで、騒動は収まったようだ。

 美桃はほっと胸をなでおろす。

 ステンレスのやかんに水道水を汲み、コンロにかける。おいしい紅茶をいれるために、あくまでも汲みたての水をその都度沸かすことにこだわっている。

 お湯が沸くまでに、カップや添える具材の準備をする。慌てずていねいに、それでいて手際よく作業を進めていく。

 その間もマダムたちの会話は尽きることがなかった。ママ友という雰囲気でもないし、職場の仲間という空気感でもなかった。

 いったいどんな繋がりのグループなのか気になるところだが、午前中のひと時をこの店で楽しく過ごしてもらうことが美桃の役目だ。精一杯のおもてなしに努めようと、てきぱきと手を動かした。



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