15.夢を奏でて その1
「今日もまだ雪が降り続くのかしら」
美桃はていねいに磨き終えた窓ガラス越しに、灰色の空を見上げながらつぶやいた。
昨夜から一向に止む気配がない。店の前の雪かきは済んでいるけれど、また地面が白くなり始めた。この調子だと、午前中にもう一度雪かきをしなければならないだろう。
この村で店を開く前まで都会に住んでいた美桃は、冬期に二三度、それも薄っすらと積もる程度の雪しか知らない。
きれいでファンタジックな雪は、幻想であることを思い知らされる。運転は大変だし、雪かきはことのほか重労働だ。土足で店内に入るため、靴から落ちた雪が床を汚すことも想定外だった。
早めに店に入り、準備を整える。ストーブに火を入れ、自分のために紅茶を淹れた。カウンターには小さなかごを置き、その中にスコーンが入っている。昨日、間宮かなえさんにもらったあのスコーンだ。
一つとして同じ形のものはない。そんなかわいらしいスコーンを眺めながら、紅茶を飲んだ。
身体が温まる。今日も頑張るぞと、前向きな意欲がむくむくと湧きあがってきた。
昨夜に一つ。朝ごはんに一つ。このスコーンをいただいた。適度なサクサク感としっとり感で、発酵バターの香りが際立つ本当においしいスコーンだった。
カウンターに置いたのにはわけがあった。
紅茶を飲みに来てくれた客が希望すれば、サービスしようと思ったのだ。もちろん先着順に。一人で食べてしまうにはもったいないくらいの逸品だったからだ。
家から持ってきた自家製のクロテッドクリームもスタンバイ中。このクリームとイチゴジャムを添えるのが美桃流スコーンの食べ方だ。
壁に掛けてあるアンティークな時計が九時を告げる。十時のオープンまでにフルーツを切り、茶葉を補充しておこう。と言っても、昨日の来客数から予想するに、そんなに大勢の集客は見込めないだろう。すぐに準備も終わってしまう。
雪も降っているし、何と言ってもまだ二日目だ。口コミで広がるにしても、それは遠い未来の話。そんなことを考えめぐらせているうちに、あっという間に準備も整う。さて、本日一番乗りはどんなお客さんだろうか。
カウンターの中で調理器具を整えていると、ガチャッと言うハンドル音と共にドアが開いた。準備中の札をかけているはずだが、いったい誰だろう。
その人と目が合う。いらっしゃいませ、と言い終わらないうちにその人が開けたばかりのドアをパタンと閉めた。
確かに女の子だった。中学生だろうか。それとも高校生? 制服のスカートがちらりと見えた。
「あ、待ってください。よろしかったら、どうぞ!」
美桃はドアに駆け寄り、雪の中で何かを抱えて立ち去ろうとしている少女を呼び止めた。
「もう開店いたしますから、どうぞ!」
美桃のありったけの声もむなしく、少女はどんどん遠ざかって行った。
雪の中傘もささず、フードのついたえんじ色のジャンパー姿が降りしきる雪に消されて見えなくなった。
美桃はあきらめて店内に戻る。どこか寂しそうで思いつめたような表情を浮かべた少女の顔が脳裏から離れない。
こんな時間に制服のまま村をさまよっていること事態が、あってはならないこと。そして、雪から守るように体全体で何かを抱きしめていたのも気になる。
少女にとってそれはとても大切な物なのだろう。
美桃はふうっとため息をつき、カウンターの中でカップを磨き始めた。
もうすぐ十時だ。そうだ、準備中の札を取り外さなくては。
美桃はエプロンを整え、ドアにかけてある札を取り外した。そして、店の前の道路に目をやると……。
えんじ色のジャンパーを着たさっきの少女が、そこにぽつんと立っていた。
「さっきの方ですよね。どうぞ、お入り下さい。いらっしゃいませ」
美桃は雪だらけになった少女を店内に招き入れた。
少女はぺこっと頭をさげ、軒下でジャンパーをぬいだ。左手には黒くて堅そうな物体を持ち、右手で器用にジャンパーの雪を振り落した。
どうもその黒い物体は、何かの楽器が入っているケースのように見えた。学生の頃、オーケストラ部に入っていた友人が似たような物を持っていたような気がするのだ。
「上着はお預かりしましょうか?」
美桃がたずねると、少女は意外にも素直にそのジャンパーを差し出した。ドア付近に置いてある木製のラックにジャンパーを掛ける。
少女は制服姿に白いマフラーを巻いただけのスタイルで、ストーブの前に立っていた。
「どうぞ、どこでもお好きな場所に座って下さいね」
こくりと頷いた少女はぐるっと店内を見回したあと、奥の壁際のテーブルに向かってゆき、そこに腰を下ろした。
「あの、当店は紅茶のみの店になりますが、紅茶でよろしいでしょうか」
またもや、こくりと頷く。ひざの上に黒いケースを置き、その上で真っ赤になった手をこすり合わせていた。
あの時、少女を呼び止めた後、すぐに戻って来たのだろうか。そして、開店するまで店の前で立っていたのだとしたら……。
あれから二十分は経っている。雪の中、どんなに寒かったことだろう。早く温まってもらえるよう、大急ぎで紅茶の準備に入った。
カップの紅茶をスプーンで混ぜている音がする。少女は何を入れたのだろう。
ミルクかな、あるいははちみつなのかもしれない。
紅茶と同時にスコーンも持って行き、勧めてみた。するとあっさりと受け入れてくれた。もちろん少女は何も話さず、首を縦に振るだけだったが、そこには確かに彼女との心の触れ合いがあったと美桃は感じた。
学校は休み? とか、その黒いケースは何? とか、たずねてみたいことは山盛りある。
けれどこれくらいの年恰好の少女が気難しい一面も兼ね備えているだろうことは、その道をくぐり抜けてきた経験を持つ同じ女性として、充分に理解しているつもりだ。何も聞かず、そっとしておくのが最善の策だと思った。
音量を最小限にしぼったスピーカーからオルゴールのメロディーがかすかに流れる。それは映画音楽だったり、サティーのピアノ曲だったりする。
そして次の曲に移った時、ぎいっと椅子を引く音がした。
「……すみません」
目の前には少女の姿があった。初めて聞く少女の声だ。カウンター内に座ってリネン類をたたんでいた美桃は、慌てて立ち上がった。




