14.スコーンが繋ぐもの その2
「夫婦っていったい何なんだろう、家族っていったい何なの? と今は疑心暗鬼な黒い感情で押しつぶされそうです。今夜、主人とはしっかり話し合うつもりです」
「お辛いことだと思います。あの、私はこのような店を経営している以上、様々なお客様と出会うだろうことは納得して始めたつもりです。そしてそこで遭遇した出来事には決して私情を挟まず、守秘義務を貫いていこうと決めています。あ、いや、決めているつもりでした。ところが、私はもうすでにそれを一部破ってしまいました。奥様、ごめんなさい」
美桃は黙っていることに耐えられずに、つい正直に話してしまった。
「え? よくわからないのですが……。あの、いったい何をされたのでしょう。でも大丈夫ですよ。あなたなら大事に至るようなことをされるとは思えませんから」
「あの……。沢井さんに言ってしまったのです。そんなに間宮様のことをお思いなら、ヒロト君を引き取って、三人で暮らせばいいと」
「あ……」
かなえさんの表情が険しくなった。
「もちろん、私の本心ではありません。子どもさんのいらっしゃる、それもご家庭を持っていらっしゃる方との将来を考えるのなら、これくらいの覚悟を持ってくださいと言う意味で話しました。ですから、もしも彼女が私の話を真に受けて、行動を起こしたらと思うと、今になって怖くて体が震えている状態です。とんでもないことをしてしまいました。本当に、ごめんなさい」
美桃はさっきからずっと心に引っかかっていたのがこのことだったのだと、今になって思い知る。何て恐ろしい事を言ってしまったのか。かなえさんに合わせる顔もない。
「……どうぞ、顔を上げてください」
かなえさんが優しく声をかけてくれた。
「本当にごめんなさい。もし、奥様とヒロト君が離れるようなことになれば、それは私のせいです。どうしよう……」
事の重大さに押しつぶされそうになる。こんなことなら、沢井さんに何も言わなければよかった。
「あなたのおかげかもしれません」
かなえさんは美桃の手を取り笑みを浮かべた。いったい何が起こったのだろう。
「さっき、主人が沢井さんに連絡を取ろうとしたのです。私がすべて知っていること、そして、離婚するつもりはないと伝えるために。そしたら彼女は電話に出るなり、気持ちは冷めました、さようなら、とだけ言ってすぐに電話を切ったそうです。その後は何度かけ直しても繋がらなくて、着信拒否にされてしまったようで……。そうでしたか。あなたの言葉で彼女も現実が見えてきたのでしょうね」
沢井さんの真意は計り知れないが、彼女はとっくに間宮さんの本心に気付いていたのかもしれない。
口ではいろいろ言っても、彼に家族を捨てる勇気など、これっぽっちもないということを。
「主人のせいで、未来のある若い彼女を辛い目に合わせてしまいました。どうして主人がそのようなことをしてしまったのか、本当はまだ彼女を愛しているのではないか、そのあたりを、今夜じっくり話し合ってみます。もし、私に対する愛情が無くなったのが浮気の原因なら、主人を引き止めるつもりはありません。離婚が現実になる可能性は高いです」
かなえさんはきっぱりとそう言った。
「信じてもらえないかもしれませんが、これまでに主人を束縛してきたこともありませんし、ないがしろにしたこともありません。私なりに精一杯主人を支え、大切にしてきたつもりです。それでもこんなことになってしまうのですね、悲しいです……。あ、すみませんでした、こんな話をしてしまって。ではそろそろ失礼いたします。今日は本当にありがとうございました」
かなえさんが立ち上がり、会釈をして出て行った。
「こちらこそ、スコーンをいただき、ありがとうございました。今夜さっそくいただきます」
この場を立ち去るかなえさんの背中に向かって、再度スコーンの礼を伝える。彼女が振り返り笑顔でうなずいた。
透けるような白い肌をした、とても美しい人だと思った。聡明な彼女の苦しみを思うと、胸が痛い。彼女の心の傷が癒える日が来るのだろうか。
雪が降りしきる中、まばらな街灯に照らされながら、かなえさんが村の東の方に歩いて行った。
美桃はトートバッグにもらったスコーンを入れ、再び白いオーバーコートに腕を通した。戸締りを確認し、店の外に出た。
駐車場の隅に止めてある小さな二人乗りの車に乗り込み、エンジンをかける。昼間は融けていた雪も、またそこかしこに積もり始めていた。滑らないよう、慎重にハンドルを操作する。
ハンドルはまるで氷のように冷たかった。車内の空気も見えている皮膚を一瞬にして凍らせるのではないかと思えるほど冷え切っていた。
長い一日がようやく終わりを告げた。明日はどんなことが起こるのだろうか。
不安と期待に胸を膨らませ、村の西の端にある古いアパートに向かってゆっくりと車を走らせた。




