白き魔女
荒い息遣いと共に、どかっと席に座る。
「ほんっと。あいつに巻き込まれると災難しかないんだから困る」
軽く汗を拭きながらそう愚痴を溢した。
ユウリは幾度となくマナフィアの訓練の相手をしている。その彼から言わせてもらえば、あれの相手は拷問と言っても差し支えない。
犠牲にはなりたくない。餌食にはなりたくないとここまで走って逃げてきた。
「ご注文はどうなさいますか?」
「あ、とりあえず水ください」
そうして足を踏み入れたのは近くの飲食店である。
チラホラと見える客層は一般市民や軽装の鎧を身につけた傭兵らしき人物達。そう見るとこの飲食店は敷居の高い場所ではないようだ。
半ばホッと一息ついて、出された水をゴクゴクと飲み干す。
「ふはぁっ。生き返る」
全力で走り切り、癒しを欲する体に水を与えた。喉の渇きは潤い、腹の奥にひんやりと冷たいものが浸透していく。
ともあれ逃げ切れた自分にご褒美だ。
そのような感覚で飲み干した水は、格別に美味であった。
「――あらあらまあまあ。いぃーい飲みっぷりねぇ」
「うおッ!?」
突然の声に飛び上がった。
慌てた様子で振り返ると、視界には一人の女性が興味深そうにこちらを覗いていた。
ユウリが席に着いた場所は、確かにユウリ以外の人間はいなかったはず。
いつの間に座っていたのか。それすらもわからない。
呆気に取られた様子を見せるユウリに対して、女性は楽しげに話しかける。
「うふふっ、面白い人。そんなに驚くこともないと思うんだけれどねぇ」
「……いつから」
「ついついさっきよ。席が埋まっているよぉーだから、ここの席を拝借させてもらいました」
ケタケタと。
女性はユウリを驚かせたことに悪戯気な笑みを浮かべていた。
突如として現れたその女性に、ユウリは多少の警戒心を上げた。
近づいてくる気配。それを全く感じ取ることのできなかった。
正体もわからない以上、むしろ警戒するなと言われた方が無理な話である。
「お姉さん、誰?」
「あらあらまあまあ。私のことはフィーと呼んでね」
「じゃあお姉さん。俺に何かご用でも?」
「うふふっ、つれない人。さっきも言ったわぁ。席がここ以外埋まってたからってね」
視線を細めるユウリであったが、しかし女性の方は気にするようでもなし。
周りに目を向ければ確かにこの席以外は空いていなかった。時間も昼時であることを考えると、別に珍しい光景でもない。
どうやら本当にただ空いている席に座ったらしい。それが偶々ユウリの側であったというだけで。
徐々に警戒を解きつつ、ユウリは一息をつく。その際に目の前の女性の姿に改めて視線をやった。
淀み一つない、光すら反射する白髪の主。その瞳は紫の光を放っており、どこか妖艶な雰囲気を醸し出している。
服装も白一色。フリルの付いたワンピースを身につけた純白の姿だ。
頭から足下まで全てが白い――まるで雪の世界を思わせる神秘的な容貌の女性だった。
「ふぅん。なら、何か注文すれば?」
「あらあらそんなそんな。もしかして奢ってくれるの?」
「奢るわけないっての。お姉さんの懐からお願いしますわ」
「うふふっ、ケチな人」
唯一白色でない部分である紫の眼光が、ユウリへと興味を示す。
吸い込まれそうになるその瞳はフレアやセリーナのような圧倒的存在感をこちらに抱かせるものだ。
道を歩けば十人のうち十人が振り返るほどの非常に目立つ容姿をした女性が、よくもまあこの都市に集まったものである。
「お姉さんはこの都市の人?」
ほんの気まぐれにそのような質問をした。
飲食店の店員を呼び、注文を送りつけた白色の女性はユウリの言葉に視線を向ける。
「いえいえまあまあ。私は他の場所から来ましたよぅ」
「あ、違うんすね」
返答に対して、さして驚くことでもなかった。根拠はなくとも半ば予想できた答えであったからだ。
「じゃ、やっぱり明日行われる魔導学論展を見に来たんすか?」
ともなれば、自分と同じ目的でここに来た可能性が高い。
この時期に大都市アルディーラに訪れる者の多くはそれを目的としている。ならば目の前の女性も同じだと考えることが妥当であった。
「うふふっ、質問の多い人。そうねぇ。そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「どういうこと?」
「つまり内緒ってことよん」
まるで人形のようにケタケタと笑う。
ユウリはその様子を、頬杖をついて胡乱げに眺めるばかり。
――この目の前のフィーという女性はなんとも特異な人間である。
全身を白色で覆う神秘的な容姿はまるで作り物のようだ。
自身を初めとした普通の人間とは何かが決定的に違う。そのような印象を受ける。
「お待たせしました」
「これよこれこれ。私のお気に入り」
「お姉さん。真昼間から麦酒を飲むのか……」
しかし次には思わずガクリと首を落とした。
先ほど注文を受けていたが、頼んだのは料理ではなく麦酒。
傭兵として生活してきたユウリにとっては些か考えられない注文内容だ。
「ああ……! 私はこれのために生きている……ッ!!」
「なんというか。黙っていれば美人さんなのにな」
これが世に言う残念美人というものか。
知れば知るほど目の前の女性の人物像が壊れていくような感覚が襲う。
そんな現実から目を逸らしたいとばかりに、ユウリは手元の水をちびちびと飲み進めた。
「そういえばあなたの名前を聞いていなかったわ。教えてくれても?」
「ユウリ・グラール。家名はあるけど、貴族ではないよ」
「へえへえなるほど。じゃあユウリ君、突然だけどあなたはこの国が好き?」
「本当に突然すね……」
苦笑を浮かべながら喉を潤すその手を止めた。
どうしてそのようなことを急に聞いてくるのか、その真意を図るように視線を向ける。
「……嫌いじゃないかな」
「うふふっ、はっきりしない人」
「逆にお姉さんはどうなんすか」
「あらあらまあまあ。私?」
同じ質問をフィーに返した。
対し、小首を傾げつつ紫の光がユウリを見据える。
「私は好きよぉ。こんなに眩しくって温かな場所は」
そしてはっきりと答えた。
純白で、曇りない笑顔で。
「ふぅん。なんで?」
「周りを見てみればわかるわ」
「周り……」
言われて、周囲を見渡す。
道を行き交う人々。人と人同士が言葉を交わしながら、流れるように進んでいく明るげな光景が目に入る。
「ほら。みんな笑顔。笑顔。笑顔。賑やかで淀みは少なく快活な光景」
「――」
「だから、好きよ。白く美しい世界は私に至上の喜びを与えてくれるものだから」
「お姉さんって変わってるね」
純粋な感想を口にした。
ユウリからしてみれば、周りの光景はそう他の都市や街と変わらないように思える。
確かにルグエニア王国は繁栄ある国だ。その国民もまた他の国と比べても穏やかな者が多いように感じる。
しかし目の前のフィーほど、それを強く感じたことはない。
「いつかユウリ君にもわかるわよ。この白く美しい、眩いばかりの世界のありがたさが。それが失われた後の、絶望が」
「――」
「あなたは今の大切な時間が壊れた時、どんな顔をするのかなぁ」
「どんなって……」
正直な話をすると、ユウリは彼女の言葉の真意を半分もわかってはいない。
彼女の白く美しい世界というものが、何を指すものなのか。それを完全に察することはできないでいる。
しかしこの光景が決して当たり前のことではないのだということは、ユウリも理解していた。ユウリだからこそ理解していた。
「お姉さんのいうその世界は、いつ崩れるかわからないってこと?」
「あらあらまあまあ。そこまで深刻に考えることでもないわぁ。私からすると、その先までわかることだから」
「……?」
「つまりあなたが気にすることじゃないってことよぉ。もっと笑顔を浮かべて、ね?」
真剣な表情を晒すユウリに対して、そういう自分こそが飛びっきりの笑顔で微笑んだ。
(なんとも不思議なお姉さんだな)
麦酒を一気飲みするフィーを見ながら、感じたことはその一言。
容姿もさることながら、その性格もどこか不思議な雰囲気を纏っている。
思えば最初にこの席に座ってきた時もまるで気配を感じなかった。
果たしてそれは偶然なのか、それとも必然なのか。
目の前の女性は只者ではない可能性も――。
「あらあらまあまあ。そんなに見つめちゃってぇ。飴ちゃんいるのかしら」
「いや、ないな。というか認めたくない」
まさか幼少の子供を相手するかのように甘いものを差し出されるとは思いもしなかった。
がくりと肩を落としそうになる。
「というか、どうしてそんな高価そうなものを持ってるんですか」
「だって飴ちゃんは元気の源よぉ。私は大好き」
ユウリの質問にも全て笑顔で答えてくる。
それに思わず溜息を吐いてしまったことは仕方のないことであろう。
差し出されたのは桃色をした見たこともない飴である。
本来砂糖を使った菓子など、庶民が手に入れられるものではない。比較的安価に手に入る飴であってもそうだ。
それを平気で渡してくるところを見るに、やはり一般市民というわけではないようだ。
「じゃあお一つ」
食べることに関しては欲望の大きなユウリ。
貰わないという選択肢は頭の中には存在しないようで、差し出された飴菓子を一つ手にとっては口に運んだ。
「どう、美味しい?」
「うーむ。甘さの中にほろ苦い味が見え隠れしてなんとも不思議な味わい――」
硬直。ユウリの笑顔がピシリと固まった。
次いで、ダラダラと冷や汗が額から流れ出た。
「――おぼぉえぇぇぇ!!」
吐いた。
それも盛大に。
飴を口に含み、僅か三秒の出来事。その間ユウリの意識は走馬灯のように記憶を幾度も呼び起こしていた。
「なんっじゃこの劇薬みたいな味は!」
「あら。美味しいじゃない」
「これが美味しい!? 認めん、認めんぞ! 食に関しては煩いんだ俺は!!」
机をバンッと叩いて鋭く言い放つ。
彼にとって食というものは非常に軽視できるものではなかった。
断固として不味いと、そう指摘するに足る価値あるものである。
「うふふっ、食い意地のすごい人。気に入ってくれたようならまたあげるわ」
「あんた俺の話聞いてたか!?」
懐からさらに飴玉を取り出そうとするフィーの神経を強く疑った。
劇薬味の飴菓子など、二度と口に含みたくはないものである。
高価な菓子がこのような味のものだとは、なんとももったいないことだとユウリは体をワナワナとさせるばかりであった。
「うふふっ。さてさてそろそろ。私は帰らせてもらおうかしらぁ」
「待て、話はまだ終わって――そろそろ帰る?」
「ええ。私の帰りを待つ人がいるの」
空となった麦酒を机の上に置き、そっと静かに立ち上がるフィー。
帰りを待つ人がいると言った。ということはこの目の前の女性は一人でこのアルディーラに来たわけではないということか。
「ふぅん。じゃ、これでお別れっすね」
「あらあらそんなそんな。別れだなんて寂しいことは言わないの」
「でもお姉さん、この都市の人じゃないんでしょ? 俺も違う街からここに来てるから、会えることはないんじゃないかな」
「そうかしら? あなたとはまた近いうちに会いそうな予感がするけれどねぇ」
おっとりとした笑顔で言われた。
思えばこのフィーという人間は終始笑顔を絶やさなかったな、と別れ際にそのようなことを考える。
しかし言われた通り、ユウリもまたこの女性とはどこかで相見えることになるだろうことを、本能的に予感していた。
確信も根拠もない。しかしそんな予感が。
「ああ。その時はまた――」
お茶でもしよう。そう告げようとした時であった。
――バンッと。
衝撃音が奏でられたのは。
「……なんだ?」
いきなりの衝撃に驚き、発生源の方に目を向ける。
耳に届いた情報から位置を特定するなら、ユウリの後方へと答えが繋がる。
赤い斑点が所々に施されている黒いローブ。それを全身に覆った一人の人物が真っ先に視界へと飛び込んできた。
「――っと」
ローブの人物は驚異の素早さでこちらまで駆けていき、そして瞬時にユウリを追い抜く。
その交錯の際に一瞥できたその表情は、酷く気怠げであったような気がした。
茶髪の中に、一筋の白色が目立つその容姿。
歳は三十代ほどだろうか。それくらいの男が、風のように去っていった。
「ユウリ・グラール!」
すると同時に、聞いたことのある少女の声が届いた。
今度はそちらの方へと視線を向ける。そこには淡い黒髪を靡かせながらこちらに駆け寄ってくるスイ・キアルカが見えた。
「先輩。どうしたんですか」
「どうした、じゃありません。しかし良いところにあなたがいましたね。手伝ってください」
「手伝い?」
「はい。あの男を捕らえるために手を貸してください」
総会本部員のスイ・キアルカ。
昨日には一度模擬戦として手合わせをした生徒。
その少女が、あの男、の言葉と共に目の前を走っていくローブの人物を顎で指す。
「あの男は"再生者"の関係者である可能性があります。都市にいる騎士が総出であの男を捕まえようと動いているのですが、かなりの腕の持ち主のようで」
眉を寄せて、不愉快だと表情に表す。
都市にいる騎士でも捕らえることができない。つまり並大抵の腕を持ち合わせてはいないということだ。
そしてその並大抵の腕ではない精鋭の集団――国家犯罪集団――に心当たりがある。
"再生者"のことだ。
「聞けばあなたは傭兵のライセンスを持っているらしいですね。キアルカ家代表として直々にあなたに依頼をお願いしたい」
「――非常事態だし、しょうがないか」
明日の魔導学論展まではゆっくりとした時間を過ごしたかったが、このような事態となればそうも言ってられないだろう。
ユウリはスイからきょとんとしているフィーの方に視線を移す。
「つうことでお姉さん。俺はちょっくら仕事に行ってくるね」
「あらあらまあまあ。あなたも大変そうねぇ」
袖に手を当てて微笑む。
異常事態にも関わらず冷静さを失っていないことに意外だと目を見張るも、しかしそのような時間も惜しいと軽く手を振ってその場から男を追うように飛び出した。
続け様にスイも地面を強く蹴り出す。
背後から聞こえた「頑張ってねぇ」という間の抜けた声を背中に浴びながら。
「依頼した私が言えることではないのですが、あの方を置いて良かったのですか?」
「今日知り合ったばかりの他人だしね。いいんじゃない?」
「そうですか」
さしてユウリの言葉に聞き入るでもなく、チラリと後ろを振り向いただけであった。
「やっぱ気になるよな。あの容姿」
「容姿?」
「頭から足下まで真っ白。あそこまで純白な人は見たことないね、俺は」
少しばかり思い出す。
おそらく一度見たら忘れないであろう、上から下までその全てが真っ白な容貌。
スイもまたあの珍しい容姿に興味を持ったかと、ユウリはこの時思っていたのだが。
「純白、とはどういうことですか。容姿だけなら茶色の髪に茶色の瞳。どこにでもいるような普通の容姿でしたが」
しかしスイ・キアルカは。
何でもないというようにそのようなことを言った。
「――は?」
思わず素で反応してしまった。
同時にバッと後ろを思いっきり振り返る。
すでに遠くまで走ってしまったのでフィーの姿は見えない。
そのことに眉を寄せながら、スイの言葉を脳内で木霊させた。
茶色の髪に茶色の瞳の、普通の容姿。
そんなことはない。
ユウリはこの目でハッキリとあの純白な姿を視界に収めていた。見間違えるはずがあるわけないだろう。
しかしスイは冗談を言っているような様子ではなかった。
これは一体どういうことなのか。
「余計なことを考える時間は終わりです。今は目の前に集中してください」
言われて、我に帰る。
彼女の言う通り、今は目の前の男に集中するべきだ。
一旦思考を停止させ、再起動。
ユウリはローブの人物を追うために、一度自分の疑問を外へと投げ出して強く地面を蹴った。




