唯一の天敵
開口一番。
ユウリは斬撃にも似た鋭い蹴撃を、逆袈裟の軌道に乗せて目先のゾフィネスへと放つ。
「――ッ!」
咄嗟に現れたユウリの姿に未だ混乱が収まりきれていない彼女は、それを回避することができなかった。
瞬時に腕を胸の前で交差されて蹴撃を受け切る。しかし、完全に防げたわけではなくあまりの衝撃により後方へと飛ばされた。
「――あらあらうそうそ。この私が、二度も触れることを許してしまうなんてぇ」
「じゃ、次で三度目だな。何度でも触れてやるから覚悟しとけ」
"汚染"ゾフィネスの威圧を受けても、平然とそのように言う。その姿をフレアは少しの驚きを含めた視線で、眺めた。
彼を蝕んでいた、負の感情が消えている。
まるで別人のような風格をフレアに抱かせていた。
ゆえにだろうか。
傭兵であるはずのユウリが、目の前の敵がいかに脅威な存在かを知らないはずがないのだが、それでも臆することなくゾフィネスと相対している。
まるでその佇まいは、その背中は。
幼き頃に見ていた兄のもののようでもあった。
堪らず、フレアは口を開いた。
「どうして……ッ」
「ん?」
「どうしてここにあんたがいるのよ! 早くここからすぐに逃げてッ! あいつが誰なのか、知らないわけじゃないでしょ!?」
あの兄の背中を見て。
また失ってしまう恐怖が、フレアの中から込み上げてくる。
いくらユウリが強くとも、相手は都市一つを敵に回しても平然としているような災厄にも例えられる存在なのだ。
敵うはずがないと。フレアの心が叫ぶ。
けれど。
「却下」
「はぁ!?」
素気無く断られた。
「いや、だって、なあ? ここまで来るのにものすっごい苦労をしたんだっての。それで今更帰れと言われても聞けないっすわ」
「なにバカなこと言ってんのよ! それに今はそんなこと言ってる場合じゃ……」
「飯の恩」
捲し立てるフレアの口を、ユウリは人差し指を押し当てることによって塞いだ。
笑うでもなく。
誤魔化すでもなく。
取り繕うでもなく。
「まだ返してないからな」
真剣な瞳で、ただそう言った。
なぜならそれは、ユウリにとっては命を救われることと同義の意味を示していたから。
だからこそユウリはその命を賭ける。儚く震える、目の前の少女のために。
「ねえねえそろそろ。お姉さんを無視するのは止めて欲しいんだけどぉ?」
「――そうだな。そろそろ、始めようか」
振り向く。
相変わらず不気味な笑みを張り付けて、こちらを観察するように眺めている"汚染"の姿が、変わらずそこにはあった。
三人がいる岩場に、冷たく透き通るような風が入ってくる。
離れた場所では岩竜ガベルグルスの巨大な体が揺れる光景が見え、微かに爆発音が響いて来た。
「二つほど聞きたいこと、あんだけどさ。いい?」
「うふふっ、素直な子。いいわよぉ?」
「まず一つ目。この街をこんな風にしたのはやっぱりフィーさん、あんた?」
フィーさん、と。
昔そのように呼んでほしいと言われた、懐かしい愛称を口にする。
「ええ、そうよ」
「ふぅん。呪術で魔獣を操ってか?」
「操る、とはちょっと違うわねぇ。私は魔獣を扱うことに関しては、そこまで得意ではないもの」
返答するゾフィネスは、どこか面白そうにクスクスと笑った。
「あの大きな大きな岩の竜がいるでしょーぉ? あの魔獣さんを錯乱させた。私がやったことはそれだけよぉ」
「錯乱させただけで、こうなるのか」
「あらあらまあまあ。うふふっ、無粋な子。竜種を錯乱させたらどうなるか、想像が付かないわけじゃないでしょ?」
「二つ目の質問」
ゾフィネスが問いかけた言葉を無視して、ユウリは言葉を紡ぐ。
「どうしてこの街を滅ぼしたんだ?」
「趣味」
呆気なく。
本当に呆気なく。
返事が返された。
「私はねぇ。人が絶望する光景を見るのがすごく好きなの。愛する人が死んだ。愛する街が死んだ。愛する光景が死んだ。こうした時って、人が最も輝いてる時だと思うのよぉ」
「――」
「人が必死に生きていこうとする。そこに希望を見いだす。それってすっごく素敵なことよぉ。その人が輝いて見えるから。その輝きが絶望に染まる、その瞬間って、すごくすごくすごぉーっく! 輝いて見えない?」
「――もう。黙れよ」
頬を紅潮させながら蕩けるような笑顔を浮かべて、語り尽くす白き魔女の姿に。しかしユウリは嫌悪感しか抱かなかった。
こんな女に。
街が。
ステラが。
マリーやオルカが。
フレアが。
絶望を味わされたのかと。
潰れるほどの力で、拳を握る。
砕けるほどの力で、歯を噛み締める。
「もうわかった」
「わかった?」
「ああ。ゾフィネス、あんたはここで――俺が殺る」
重心を落とす。
いついかなる場面でも対応できるように、神経を鋭く尖らせる。
もはや遠慮はいらない。
己の中に燃え滾る溶岩のような感情を、溢れさせる。まるで蓋を外したように、ふつふつと湧き上がってくる怒りの感情。
けれど思考はクリアに。
あくまで冷静に。
目の前の女を、完膚なきまでに打ちのめすために。
「ええええうんうん。その心意気、すっごくいいわぁ。ただ――できればだけど」
風を切る音が届く。
フレアの目に移るのは、何重にも分裂した無数のゾフィネスの姿。
一斉に駆け出した彼女の数は、数十を上回るほど。人海戦術という単純にして強大な力が、待ち構えるユウリを襲う。
「ユウリッ!!」
麻痺して動けない体。
力にもなれずただ足手まといの自分を呪いながら、その場から逃げて欲しい気持ちを込めてユウリの名を呼んだ。
「大丈夫」
それを安心させるかのように。
「大丈夫だから」
優しげな声色でユウリが呟き。
そして――。
ユウリはゾフィネスの群れが作る、波に飲まれた。
★
「――だぁーッ! クッソ、迂闊に近寄れねぇ!」
頭上から降りてくる巨大な岩石から逃れながら、大口を開けて目先の魔獣への文句を垂れ流す。
あちらこちらに擦り傷を負いつつも、"岩断ち"と称されるエミリーにはまだ、余裕があった。けれどもちろん、消耗が全くないわけではない。
竜種である岩竜ガルベグルスの巨躯から繰り出される動きの一つ一つが致命的な重傷を負う一撃に繋がりかねないこの状況では、A級傭兵であるエミリーといえども神経をすり減らさなければならない。それでも今の今まで耐えられているのは、ひとえに他の者の支えがあるからこそだ。
「おいマリウス! 逃げるにしても突破するにしても倒すにしても、早く何かしらの対応を考えねえとこっちがやられちまうぞ!」
「わかってはいるんだよ、わかっては! だけど、そう簡単にどうにかできるなら、最初の襲撃の時になんとかしてるさ!」
隕石でも降ってくるかのような巨大な前足による踏みつけを回避しながら、エミリーは大声でマリウスに叫ぶ。しかし返って来たのは焦燥感を駆り立てられた声色であった。
「これが竜種か。まともに相手にしていれば、こちらがもたない……」
「レオン・ワード。口を動かしている暇があれば、ここを凌ぐ方法を考えてください!」
「そんなことを言われてもだな……」
「――来ます!」
鋭い声がスイの口から飛び出た。
反応して、咄嗟に屋根伝いにその場から離れる二人。丁度そのすぐ後に、岩石が建物を崩壊させた。
押しつぶされて悲惨な末路を遂げるレガナントの街並み。これが竜種一匹の仕業だと考えれば、どうして彼らのような魔獣が危険視されているのかを嫌でも理解させられてしまう。
「全く。楽じゃありませんね、こちらも……」
「――それはそうだろうね。このレガナントに安全な場所はもうないようだよ」
先の光景を見るに、いつ自分達に死の脅威が降り注ぐかわからない以上、この場にいる限り安心できる時間などただの一秒もない。
息の詰まりそうなほどの緊張感にスイが眉を寄せているところで、近くにマリウスが降り立った。
「もちろん向こうも苦労しているはずだ。普通に考えれば、今僕らの目の前にいる岩竜よりもタチが悪い相手なのだから」
「……先生。質問、いいでしょうか」
「何だい?」
「うお――ッ!」とエミリーが声を上げながら果敢に竜種に向かっていく。勇敢な彼女の姿を傍目に、スイはユウリがここを離れた時から頭の片隅で気になることをマリウスに問うた。
「どうして、彼を行かせたのですか」
「彼、とは。もちろんユウリ君のことだよね?」
「はい」
疑問というのは、マリウスがユウリ・グラールを最も危険な戦地へと単身で行くことを許可したことである。
本来なら教師は生徒を守るべきはずだ。もちろんこの場にユウリとレオンを連れてきた時点でその前提が崩れていることはスイとて理解しているが、それでも彼一人で”汚染”のもとまで行かせることは、例えるなら死んでこいと言っているようなもの。
「逆に聞こうか。どうしてスイ君は彼を行かせることに、反対しなかったのかな?」
「それは――」
ドォンッ、と。
衝撃の振動と音が周囲に伝わる。
エミリーがレオンの魔術のサポートを受けつつ、ガルベグルスを相手に立ち回っている姿が見て取れた。
普通ならば、ここで呑気に会話をしているマリウスとスイに叱咤の言葉を飛ばしてもいいものだが、二人の間に生まれた雰囲気を読み取ったのかそのような言葉を上げることはしない。
その彼女に甘えて、スイは言葉を続ける。
「――正直、私にもあまりわかりません。ただ、彼ならばどうにかしてくれるかもしれないと、私の直感がそう言っただけです」
「なるほど。良い答えだと思うよ」
スイの答えに、教師は笑った。
「僕がどうして彼を進ませたのか、それはスイ君と似たような答えだね」
「ただの直感、だと?」
「もちろんただの直感ではないよ。似た答えだけれど、少し違う。僕の場合は彼に勝算を感じたからこそ行かせたんだ」
眼鏡をスッと、指で位置を整え直す。
教師が思い出すのは、先日のゾフィネスとの邂逅の瞬間。
「彼ね、見えてたんだ。”汚染”の真実の姿が」
「――」
「僕も、加護持ちのフレア君でも見抜けなかった白き魔女の正体を。彼だけは見破った」
「……そういえば」
ふと彼女にも思い当たる節があった。
あれは魔導学論展の前日のこと。
西の都市アルディーラにて、ユウリと奇妙な会話をした覚えがある。
――頭から足下まで真っ白。あそこまで純白な人は見たことないね、俺は。
――純白、とはどういうことですか。容姿だけなら茶色の髪に茶色の瞳。どこにでもいるような普通の容姿でしたが。
――は?
あの時は”再生者”の中でも怠惰な獅子と称される振動魔術の使い手、アルバン・ドアを追っていていたためそう気にすることはなかったが、今にして思えば足下から頭上まで真っ白な容姿をしている者は一人しか思い浮かばない。
もちろん彼女が自身の本当の姿で街に入ることはないだろう。あまりにも目立ちすぎるからこそ、呪術によって姿を変えて都市に侵入したのだから。
ということは。
ユウリ・グラールには彼女の真の姿が見えていたということになる。
「どうして彼だけが”汚染”の姿を捉えることができたのかはわからない。彼の持つ魔波動と呼ばれる武術の効果か、もしくは彼の特異な体質のせいか……」
「だけどね」と。
マリウスは蒼炎の火柱が上がっていた地の方向に視線を飛ばして、もう一度眼鏡に指を添えた。
「もしかしたら彼は――呪術に対して、何らかの耐性を持っているかもしれない」
「どう……して……ッ!?」
無数の自分が、目の前の黒髪の少年に襲いかかる。
そのような光景を見せるための呪術を、香水に乗せて周囲に撒き散らした筈だった。
なのに。
それなのに。
漆黒の少年は。その視線は。
先ほどからずっと、真のゾフィネスの姿を捉え続けている。
「あなた、本当の私が見えているの!?」
「――俺には、ただ真っ直ぐと進んでくるあんたの姿しか見えねえよ」
驚異的な脚力により、ユウリは”汚染”との距離をゼロに埋めた。
呆気に取られるゾフィネス。
目を見開くフレア。
その中で――。
「ほら――三度目だ!」
――ユウリの拳撃が、ゾフィネスの頬を撃ち抜いた。




