第83話 ゴムボートに穴を空けられたおにい(国島・五貴視点)
―――国島丈吾視点―――
前を進むゴムボートが明らかに減速したのを目にした俺はほくそ笑む。
ゴムボートに穴が空いたのだろう。
もちろん偶然ではない。海へ忍ばせた辻村の仕業だ。
ゴムボートを用意するあいつにこっそり耳打ちをし、俺が不利なら奴のゴムボートに穴を空けるよう指示した。
これで奴の勝ちは無い。
俺の勝ちだと、嘲笑った。
―――久我島五貴視点―――
「うわっ!? えっ? なんで……?」
出っ張った岩にでも擦ったか?
いや、まさかそれくらいで穴が空くとは思えないし……。
とにかく急いでゴールしてしまおうと、俺は必至でゴムボートを漕ぐ。
しかし浸水したことで重くなってしまい、スピードが極端に落ちる。そのあいだに男のゴムボートに追いつかれてしまう。
「お、なんだゴムボートに穴が空いちまったのか? ついてねーな。けど運も実力のうちだぜ。負けても勝負は無しとか言うなよ。ぎゃはははっ!」
下品に高笑って男は俺を抜き去り、ブイまで行って戻る。
俺もようやくブイまでたどり着いて必死でゴムボートを漕いだが、男に追いつくことができなかった。
「いよっしゃーっ! 俺の勝ちだっ!」
先に砂浜についた男が勝利の雄叫びを上げる。
俺はほぼ海水に満たされたゴムボートで、なんとか砂浜までたどり着いてため息を吐いた。
「はっはっはっ! いやーほんとついてねーな。けど俺の勝ちだぜ」
「……っ」
指定されたゴムボートに乗っていたらなにか細工をしたのかもと疑えるが、このゴムボートは自分で選んだのだ。穴が空いたのは不自然だったが、それがこの男の仕業とは言えなかった。
「まあ勝負には運もあるししかたないよなー」
「やっぱり神様もイケメンの味方みたいだねぇ」
ギャラリーからのそんな声を耳にしながら俺は肩を落とす。
「おにい……」
「と、兎極……」
兎極があの男と1日でも付き合うことになってしまう。
それは嫌だったが、負けた俺にはどうすることもできない。
「それじゃあ約束通り俺に付き合ってもらうぜ」
と、意気揚々な雰囲気で男がこちらへ近づいて来た。……そのとき、
「待った」
「えっ?」
そこへずぶ濡れの朱里夏が歩いて来る。
どうやら海に入っていたようだが……。
「そ、その人は……」
ダイバースーツに酸素ボンベを背負ったおっさん……さっきはタキシード姿だった執事が朱里夏の右腕にヘッドロックされながら呻いており、手には刃物のような物を持っていた。
「こいつが海の中にいた」
「えっ? じゃあもしかして……」
ゴムボートに穴を開けたのはこの人?
ということは……。
「な、なんだよ? 俺がやらせたってのか?」
男はバツの悪そうな表情でそう言う。
「そいつがお前のゴムボートに穴を空けたとして、俺がやらせたなんて証拠は無いだろ? そいつが勝手にやったんだ。そうだろ? 辻村」
「は、はい。もちろんそうです。これは私が勝手にしたことで、丈吾様の指示ではありません」
「ほらな。こいつが勝手にやったんだ。俺の指示じゃねーよ」
……指示を出したという証拠は確かに無い。
しかし執事が勝手にこんなことをするというのはやはり不自然に思う。
「とにかく勝ったのは俺だ。約束は……」
「じゃあ落とし前をつけてもらう」
「は?」
なにを思ったか、朱里夏は執事の小指を掴む。
「男同士の勝負に水を差したんだ。指の1本はもらわないとね」
手からから刃物を取り上げ、それを男の小指に這わせる。
「ちょ、ま……なにを……っ?」
「なにを? 言葉通りだよ」
刃物の刃が男の皮膚に触れてわずかな血を滴らせる。
これはやり過ぎだ。
止めなければと俺が声を上げようとしたとき、
「うわあああっ! じょ、丈吾様の命令ですっ! スタートして、自分が不利に見えたら相手のゴムボートに穴を空けるよう命令をされていたんですっ!」
「て、てめ……なにをっ」
「本当ですっ! だから指は勘弁してくださいっ!」
「ふーん」
朱里夏は刃物を投げ捨て、国島丈吾を睨む。
「お、脅して言わせただけだろっ! 俺は命令なんかしてねーよっ!」
「けどこいつはお前の飼い犬だ。犬の不始末は飼い主の責任」
「はあ? ふざけんなっ! 俺は知らねーって言ってんだろっ! 俺の親父は国島建設の社長だぞっ! てめえらなんかとは人間のランクがちげーんだよっ! 俺に向かって偉そうなこと言ってんじゃねーよっ!」
大声で喚き散らしたのち、国島丈吾は俺を睨みつける。
「おいっ! これ全部てめーが仕組んだんだろっ!」
「は、はあ?」
一体なにを言い出すんだ?
意味がわからず、俺は困惑した。
「辻村を唆してボートに穴を空けさせたんだっ! それであの変なガキを使って俺を嵌めて恥をかかせてやろうって算段だったんだろっ!」
「そんなむちゃくちゃな……」
言いがかりにもほどがある。
「はっ、これだから下級国民は。やることが下賤だぜ」
「俺はそんなことしてな……」
「連れの女だって、見た目は良くても中身は下品で低劣な女なんだろ? そんな汚ねー女なんてこっちから願い下げだね」
「おいお前、兎極のことを悪く言うのは……」
兎極を悪く言われてムッとした俺は、反射的に男の手を掴む。
「うわぁっ! いてーっ!」
「えっ?」
そうしたらなぜか男は喚き散らす。
「いてててっ! 暴力はやめろよなっ! これだから育ちの悪い奴は」
「いや、強く握ってなんか……」
本当に強く握ってなどいない。
軽く掴んでいるだけだ。
「ちょっと暴力はダメじゃない?」
「指を落とすとか言ってたし、なんかヤバい連中なんじゃ……」
周囲からの視線が刺さるようなものへと変わっていく。
これはまずい雰囲気だ。
どうやら男にしてやられたようだった。
「こ、この……」
今にも怒鳴り声を上げそうな兎極を手で制す。
なにを言っても分が悪い。
ここは黙ってやり過ごすしかなさそうだ。
「はん。おい土下座しろよ。そうしたら許してやる」
「ど、土下座?」
「ああ。誠心誠意、土下座で謝れば許してやる。俺は心が広いからな。もしも拒否するようなら暴力を振られたって警察を呼んでやる。証人は多いぜ」
「う、うーん……」
土下座なんてしたくない。
しかし警察を呼ばれて大事にはしたくなかった。
「お、おにい。土下座なんて……」
「いやけど……」
やるしかない。
そう思ったとき……。
「話はすべて聞かせてもらったっすっ!」
土下座をして収めようと俺が膝をつきかけたとき、大きな声が海辺に響き渡った。




