第六話 異界の狐人side 新たな手掛かりと未知への怒り
プロローグで初登場した狐人族の女視点です。第二章の物語にしばしば、関係してくるキャラですので、お楽しみ下さい。
「――ななな、なんじゃこれはぁぁァァァァッ!?!?!?」
警察の秀虎に呼ばれた宗士郎が柚子葉、響、和心と共に変死体を目の当たりにした日とほぼ同時期。
異界の門の向こう側の世界――『異界』の神社本殿にて、建物そのものを揺るがす様な絶叫が木霊した。
声の主は狐人族の女性だ。
本殿は十本近くある、火の灯った蠟燭で十分に照らされている。神聖な空気を壊しかねない先程の絶叫は厳かな雰囲気の神社内部、それも御神体が安置されている本殿ではかなり似つかわしくない。
聖域『シェラティス』地下空洞に忍び込んだ時に暗闇で隠れていた彼女の姿は、神社内部にいる今では手に取るようにわかる。
蠟燭の灯りを反射して艶やかに輝く蒼銀のロングヘアー。雪のように白く、瑞々しい肌。頭部には三角形の耳、臀部には太い房状の十尾。身に纏うは、煌びやかな装飾が施された和装。
それが今まで隠れていた真の姿である。
しかし、彼女は普通の狐人族の存在とは一線を画している。
「も、もう一度じゃ……! さっきのは、幻覚の類じゃそうに違いない!?」
わなわなと震える手で本殿に隠されていた手紙を握る。見たもの全てを焼き焦がすような、強い信念を秘めた真紅の瞳で今一度、手紙に眼を通した。
「――よ、よよっ……〝他所の子になる〟じゃってぇ!? 筆跡からこれが、吾輩の娘のものであるのとわかった事は嬉しいがっ、素直に喜べん吾輩がいる!? ……鳴神とかいう小僧ッ、何者じゃあ!?」
手紙に記された内容に登場する名前を見るなり、その場で地団駄を踏み鳴らした。その度に、神聖な本殿の木床がメリメリと軋み悲鳴を上げている。彼女は沸々と湧き上がる激情を胸に――
「吾輩の愛娘を奪っていくとはっ……! 良い度胸しておるわっ、おお、覚えておれぇぇぇぇ!!! ――――あっ」
我が子の手がかりとなる大事な手紙を引き千切ってしまったのだった。
「――此処も久しいのぅ。かれこれ数百年ぶりじゃな」
狐人族の女性が神社へ訪れるほんの一時間前へと遡る…………。
彼女は荘厳な神社の柱を手でなぞり、しみじみと郷愁を覚える。その場所は外界から閉ざされた神気溢れる土地だった。しかし、過去の記憶とは裏腹に境内が荒れに荒れ、雑草は蔓延り、埃も目に見える程に溜まっている。
彼女は人が生を終える以上の時をここではない別の場所で過ごしている。だからこそ、久しく訪れたこの地の変化と大切な娘との思い出も相まって、苦々しい顔を浮かべていた。
「神社に来ても和心の気配はなしとは……どうやらあの男が異世界で見たというのは本当らしいのう」
ブツブツと呪文のようなものを唱える。
すると、どこからともなく掃除用具がやってきて独りでに掃除を始めた。彼女と愛娘だけが所持している、固有の力の作用である。
数百年前はここで人格を高めていたの、と懐かしみながら勝手知ったる我が家のように、迷わず本殿へと歩を進める。彼女は我が子の名を叫びながら、娘の手掛かりを探した。
――その直後だった。
「ん……? なんじゃこれは」
偶然、足を踏み入れた場所の空気が揺らいでいる事に気付いたのは。遠目では気が付かないような小さな異変。まるで蜃気楼のような、僅かな空気の揺らぎだった。
恐る恐る、試しに左手を揺らぎに突っ込んでみると、トプンと手を水に入れたような感覚が走る。
「っ、これは」
揺らぎの内と外では手に感じる体感温度がまるで違う。火照った身体に氷を押し当てられるような、そんな感覚だ。彼女が今居るこの場所は冬という訳でもないが、他の地に比べて冷帯である。だからこそ、この体感温度の変化は異常だ。
揺らぎの外と内の温度の変化に、ふとある可能性が彼女の脳裏をよぎった。
「まさか、そんな――」
否、有り得ない。
確かに暫くの間、神社の維持は怠っていたかもしれないが、此処は神聖な神社――神が存在する場だ。そのような場所で、彼女が今考えているような事は絶対に有り得ないのだ。
今度は手はでなく、顔を揺らぎに突っ込んでみると、
「………………何処じゃ、ここは……」
不意に素直な疑問が口から飛び出した。
外に広がる世界は確かに先程彼女がいた神社の本殿だった。だがしかし、本殿外に広がる景色は彼女自身の記憶の埒外だったのだ。
興味の惹かれるまま身体全体を揺らぎの外に出した。そのまま本殿を出ると、彼女は顔に差し込む光源に、思わず視界を手で覆った。
「くっ…………」
一面に広がったのは清涼感溢れる雑木林だった。草木の間から燦燦と照りつける日差しが彼女の視界を明るく照らす。暗がりから急に明るい場所に出た為、慣れるのに時間がかかってしまったが、ようやくこの世界の明るさに目が慣れる。
「此処は……なんて、神秘的な場所なんじゃ…………」
ほうっと息を漏らし、辺りを見渡せば、彼女の知らない未知の生物と植物が。期せずして感動してしまう。まるで異世界へと迷いこんでしまったような、そんな夢心地だ。
「吾輩が知らぬ土地、空気……まことに別次元に繋がっておるのか…………」
視界一面に広がる草木と大地、頬を撫でる風。記憶に照合しても情報が一切ない、眼前に広がる世界は彼女の驚きと興味を誘うが、
「流石に長居は危険じゃな…………一旦戻るとしよう」
彼女は正気に戻ったように、未知の世界から背を向けた。
本殿で発見した空間の揺らぎ。あれは本来なかったものだ。つまりは全く未知の現象である。
今居る土地にどのような危険が孕んでいるのか、揺らぎが何時閉じるかさえもわからない。十全の用意もないまま、この地に踏み留まるのは危険である。それ等の懸念が彼女の背中を元いた世界へと押し戻した…………。
そして、現在――。
「――しまったのじゃ~!? 吾輩とした事がっ、唯一の娘への手掛かりを破ってしまうとは……ふ、不覚ッ」
元の世界に戻ってきた彼女は揺らぎの件は一旦保留とし、引き続き娘の手掛かりとなる物の探索へと乗り出した。そうして探している内に、御神体が安置されている空間にて手紙を見つけ今に至る。
「それもこれも皆彼奴の所為なのだ……っ、一兆発殴ってやらねば気が済まぬ!」
見るも無残にバラバラにしまった紙屑を拾い集めながら、顔も知らない誰かの恨みを募らせる。拾い集めた紙屑をジグソーパズルを組み立てるように復元した彼女は、
「――吾輩の身に眠る力よ、我が求めに応え、目の前の紙片をあるべき姿へと戻せ」
と唱えて、紙の上部を右手でなぞる。すると、たちまちに無傷の手紙が舞い戻った。
続けざまに手紙の記憶を読み取り、手紙を懐へと仕舞うと彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「糞野郎がおる場所に、吾輩の娘ありじゃ。読み取った記憶からすれば、居場所は向こう側らしいしの。少々旅支度を整えねばな……くふふふ、今から楽しみじゃのう」
――実に軽やか足取りで街へと繰り出していったのだった…………。
街へ繰り出してから早数分。
愛娘を付け狙う輩がいる事もあって、彼女は狐人族の身体的特徴を隠蔽し、様々な市場を転移で飛び回る。それはもう、「ちょっと買い物に行ってくる」くらいの気軽さで。買い揃えた食糧や水は彼女の力で鮮度が保てる異空間へと内包している。
「後は……もしもの為の『聖露丸』も幾つか見繕っておくか」
彼女が永い眠りについていた特殊な場所へと転移して、丸薬の『聖露丸』を五つ手中に。これがなければ、緊急時に困る事になるのだ。
揺らぎの外、つまり異世界は未知の環境だ。力の回復を満足にできる保証はない。それ故に、此度の支度では最も必要となるものだ。彼女は『聖露丸』も異空間へと放り込むと、神社へとようやく戻ってきた。
「では、行くかとするか――――……ほう」
異世界へと赴く準備が整った彼女は境内を歩き…………そして、不意に立ち止まった。
「和心がいなくなり、神社の維持が滞った結果がこれか。……魔の者の侵入を許す程に結界が弱まっておるとはな」
第六感にひしひしと感じる邪悪な気配に後ろを振り向く。
「――劣等種の分際で良く気付いたな……褒めてやる」
何時から其処にいたのか、鳥居の影から耳の尖った褐色肌の男女がヌッと姿を現した。
「余りにも、不浄な気配を隠し通せておらんかったしの――魔人族の。もちっと、気配を消す練習をしたらどうじゃ?」
「フン、減らず口を。いつまでその態度を崩さずにいられるか、楽しみね」
彼女の見え透いた挑発に、彼等は腹を立てる事なく身構えた。
本来、ここら一帯には、神社を中心に特殊な結界が広範囲に張り巡らされている。魔物、魔人族等の邪悪な存在が結界内部へ踏み入ろうとすれば、神聖な空間に蔓延る害悪として、瞬く間に浄化されてしまう――筈だった。
だが今は、神社の巫女である彼女の娘がいない為か、結界の強度がかなり落ちている。その為、魔人族二人の侵入を許してしまった。
「……何の目的かは、みなまで言わずともわかる。〝神天狐〟の事じゃろ?」
「中々察しが良いようだな。貴様には、それについて情報を吐いてもらう」
聖域『シェラティス』の地下空間で和心を狙う連中を見つけた後、すぐに情報を集めた。それで、頻繫に狐人族を探す魔人族達がいるとわかった。となると、聖域地下にいた輩は魔人族の可能性が高い。
だからこそ、彼女は鎌をかけるつもりで、彼等が探し求める存在を口にしたが、ごくあっさりと口を滑らせてくれた。
「だが、目的がわかった所で、劣等種である貴様が栄光ある我等魔人族の力の前では無力同然!」
「だから、さっさと情報を口にする方が身の為よ? もっとも、喋った後の安否は保障しかねるけどねぇ!」
否、違った。
彼等は、彼女を――狐人族をかなり格下の存在と見ている。それもその筈。彼女が住まう世界では、狐人族は温厚かつ戦闘を好まない種族と認知されているからだ。
劣等種は魔人族の力にひれ伏すのみ、負ける筈がない。そう思っているからこそ、彼等は簡単に目的を吐いてくれたのだ。おそらく、彼等のシナリオでは眼前の狐人族の命はないのだろう。
「……っ、くふふ」
「貴様! 何が可笑しい!?」
彼女は突然、腹を抱えて笑い出した。
眼前で自分を下に見る魔人族達に、心底呆れが差したからだ。
「くふっ、すまぬのう。余りにも嘆かわしくてな。その訳は三つ。一つ……、相手との力量の差を全く理解しておらぬからじゃ」
「なにぃ!」
魔人族の男が憤慨する。
「まあ、そもそもの格その物が違うておるから、わからぬのも無理はない。二つ……、おぬし達、油断し過ぎじゃ」
流麗かつ神速に。
呼吸の合間を縫った移動は、彼等との距離を瞬く間に詰める。
「っ、貴様いつの間に!?」
魔人族二人は無意識に後退した。その事に二人が気付く様子はない。彼女が放つ不可思議な圧力が彼等の人としての本能を揺さぶっているからである。
「そして、三つ……、おぬし達が求める『神天狐』じゃが――――それ、吾輩の事じゃ」
「へ?」
パンッ!
「えっ!? まさかっ――きゃぁぁぁぁあああッ!?」
「ルティナァァァァッ!?」
彼女が行った手拍子の鮮明な音が鳴り響いた刹那、魔人族の女が突如として、白炎に呑み込まれた。白く、激しく燃え盛る炎はその不浄なる魂を残さず焼き切った。
消えたパートナーを眼に、魔人族の男は震え上がる。
「な、なな………! 貴様があの御方が求める『神天狐』というのか!?」
「だからそう言っておるじゃろうが。吾輩――茉心が神天狐じゃと」
「ぐぅ!? ここは撤退する!」
と、言うと同時に男は反転して素早く逃走。身体強化魔法でも使用したのか、その後ろ姿は瞬く間に点となる。
「あ、しまったのじゃ……全く、仕方のない奴じゃな」
呆けた顔でわざとらしく呟く茉心。その顔に余裕の笑みが浮かんでいる事はまだ魔人族の男は知らない。
「(奴は関わってはいけない人種だ!? 何が劣等種だ!? あの化け狐の事を報告しなければ!!!)」
逃走する魔人族の男は仲間が消された事を悔やむ様子はなく、むしろ自らの身を案じながら、ただただひたすらに足を動かす。神社までは獣道で、辺りには林がたくさん分布していたので、男は獣道から外れ、草木が巡る林の中を無我夢中に走った。
「はあっ……! はぁっ……! 撒いたか…………!?」
逃げ続けてどれくらい経ったのだろうか。
男は走りながら肩越しに後ろを振り向き、茉心が一向に追って来ていない事を確認した。後方には、彼女のシルエットは影も形も見られない。
「はぁっ、はあっ……どうやら上手く姿を晦ませたようだ――」
男はようやく撒けたのだと安堵し、前を向いて息を整えようとした…………その刹那、
「――果たしてまことにそう思うか? 若いの」
撒いた筈の彼女が何の前触れもなく、目と鼻の先に立っていた。
――真顔で。
「うわぁぁぁああああああッ!?!?!?」
「そこまで驚く事なかろう? 流石の吾輩も少し傷つくぞ」
男はまるで幽霊でも見たかの如く、激しく狼狽して後退った。男は気付かぬ内にかなりの距離を走っていた筈なのだ。常人ならば、追う事も出来ない程に。
それを目の前の狐人族の女は苦も無く一瞬の内に追い付いて見せた。彼にとって、これはもう恐怖でしかない。逃げきれないと悟った魔人族の男は己の無力さと認識の甘さを痛感した。
「もう諦めたのか? 情けないのう。魔人族とはいえ、おぬしも立派な男であろう?」
「黙れぇ! 早く俺を殺せ!!!」
「黙らぬ。おぬしには、まだ話してもらう事があるのでな」
「…………お、俺が簡単に口を割ると思うか……!?」
「道理じゃな。おぬしにも主と仰ぐ人物がおるのは先程確認済み――しかしじゃ……口を割らずとも情報を得る方法はある」
「な、なにを……!?」
茉心は魔人族の男の額に手をかざし、力を凝縮させ始める。
「一応聞いておく。おぬしの主の名は?」
「知らん! 知っていても教えるものか!」
「強情じゃのう、では遠慮なく」
「貴様、話を聞いていたのかっ――ぐぅあ!?」
魔人族の男は強気に抵抗して見せるが、茉心が力を行使した瞬間、男が呻き声を上げてぐったりと崩れ落ちた。倒れた男の頭から出現した光球が茉心の手へと移動し、光の中に指を入れて引き出すと光の糸が紡ぎ出される。
「ほいっと」
そのまま光の軌跡を描き始め、宙に円を創ると内側から水面のように揺れ、次第に男の記憶が再生され始めた。
「人相手じゃと、記憶を読むのが面倒なのが難点じゃなぁ。本ならば、楽でいい……む、やはりわからぬか」
茉心は悔しげに顔を歪ませる。
男の記憶は主の記憶だけが厳重に鍵が掛けられていた。情報漏洩を防ぐ為だろう。他にわかったのは、彼等の目的が神天狐である彼女の娘――和心の奪取だった。
それがわかっただけでも良かったが、それ以上の情報を得る事が出来ず、用が済んだ茉心は光円を手で払って霧散させた。
「彼奴はもう用済みじゃな――神焔の浄火」
茉心がそう口にすると、先程と同様に男は白炎に呑み込まれる。まるで魂を洗い流すかのように、男の姿は瞬く間に消滅した。
「今の感じじゃと、敵さんの味方に吾輩の情報が流れた心配はなさそうじゃ。念の為に、吾輩が結界を張り直すかのう」
茉心は元いた神社へと転移して戻り、元よりもずっと強力な結界を展開し直した。これで並大抵の魔の者は簡単には近付けなくなるだろう。
「多少の邪魔が入ったが、ようやくじゃな」
今から揺らぎの向こう側の世界に行く事になる。万が一の入れ違いを防ぐ為、茉子は娘と同じく手紙を一筆したためて、本殿の御神体が安置されている空間へと置いた。
「待っておれよ、和心。必ず吾輩が連れ戻すからの……そして、鳴神とかいう小僧! 吾輩の娘に手を出していたら、必ずぶち殺す! 必ずじゃ!!!」
異世界へと行く準備が整った茉心はまだ見ぬ糞野郎に激情を抱く。愛娘と手紙に記されていた〝鳴神〟との温度差が凄まじいが、この場にそれを指摘する者はいない。
本殿に漂う、空間の揺らぎの外に行く心の準備もできた茉心は意を決して異世界へと身を投じたのだった…………。
プロローグで登場した狐人族の女の名は、茉心。
魔人族の魔の手から大切な愛娘を救うべく、和心がいた神社で手掛かりがあると踏んだ彼女は、其処で手掛かりとなる置き手紙を発見した。そして、手紙に記されている〝鳴神〟という人物に、激情を抱く。
宗士郎の知らぬ所で、和心の置き手紙が茉心の殺意を芽生えさせてしまった事を……宗士郎はまだ知らない――。
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