第42話 たまに食べるアイスは美味いの法則
ブレーキを利かせて自転車の速度をゆっくり落としてゆく。
これがいい。このゆっくりさこそが俺にとってはベストだ。素晴らしいと己の超絶技巧を褒め称えたい。
ふんわりとした雨ケ崎のやわらかさを背中に感じ取れるし、かつ思惑に気づかれないくらいの自然さなのだから、もはや芸術的と言ってもいい。
案の定、鈍さに定評のある雨ケ崎は気づけない。
むぎゅりと体重を押しつけてきて、頬っぺたまで当てて「わっ」と小さな声を上げる。そのまま俺の胴体をしっかとつかんでくるのは……やれやれ、まったく嬉しい誤算だぜ。というかこいつ、本当にいい香りがするな。
しかし目の前にいる男女はというと、俺たちの触れあっている場所をじいっと凝視していやがった。こらこら、バレるかもしれないからやめてくれ。雨ケ崎のビンタはガチで痛いんだ。
男はポイと煙草を投げ捨てて、なにか腹立たしいことでもあったのか不機嫌そうに口を開く。
「群青、二人乗りは禁止だとホームルームで言ったはずだがな」
うーん、煙草の投げ捨てをする人に言われたくないなぁ。
とはいえ形の上では担任でもあるので、すみませんと頭を下げながら雨ケ崎と一緒に自転車から降りる。
スッと地面の吸殻を拾い上げるのはグゼンさんだ。彼女は西洋風の顔立ちであり、やや気の強そうな瞳をしている。
ごく当然のように吸殻を東堂のポッケに仕舞い、彼女は青い瞳を向けてきた。
「群青君、ケガはすっかり癒えたようですね。なら近いうちに私がたっぷりシゴいてあげますから地下に来てください」
ちらりと雨ケ崎が冷たい視線を向けてきたけど、いやいや、本当に文字通りのシゴきだから。あんなのを受けたら根性の塊みたいな野球部員でも「しゃっす! 退部しまっす!」と坊主頭を下げるって。
「あ、すみません。しばらく雨ケ崎と遊びたいし、夏休みの宿題もしないといけませんので」
そう口にすると雨ケ崎の冷たいオーラがわずかに収まる。無表情であることにさほど変わりはないんだけど、そのぶん気配で伝わるんだよね。
ついさっきゲームをして遊ぶと約束したんだし、俺だって実は楽しみにしている。グゼンさんから氷のように冷たい目で見られても、こればっかりは仕方ないよね。物ごとには優先度ってものがあるんだし。
「……そうですか。まあ無理にとは言いません。日本名物の社畜サラリーマンでも週休二日はありますし、週に6日ほど通えば十分です」
ピクリと俺と雨ケ崎は顔を震わせる。
あー、これは面倒くさくなりそうなパターンだ。
ちょっとごめんなさいねと横を通り過ぎて、買い物カゴを手にすると店内にツカツカ入ってゆく。
しかしグゼンさんはしつこかった。
「群青君、軍隊はテクノロジーに合わせて常に近代化をしておりますが、中世のころから残り続けている訓練法があります。それがなにか気になりませんか!? 答えは……」
「雨ケ崎、コーラはボトル何本だ?」
びっと2本の指を立ててくる。
ほーん、4リットルかぁ、了解。二人だとちょうどそれくらいで飽きてくるんだよな。
「それは無手、ないしはナイフを使った護身術です。大の大人をばったばったとなぎ倒し、馬鹿なと言って相手は絶命する。そんな状況に男の子はだれでもあこがれますよね!」
殺戮に憧れる男子はいないから……。
しかしグゼンさんは諦めないな。よほど気に入られたのかなと思いはするけれど、その道を歩むと立派な暗殺者にされかねない。
周りの買い物客たちも「ヤバい人がいるわ」とコソコソ話しているし、東堂でさえも「やめてくれ!」という悲痛な顔をしていた。
あー、オズガルド家の評判を落としかねないもんな。
「群青、あなたはこっち」
空気をまったく読まない雨ケ崎がそう言って手渡してきたのは、木の切り株のほうのチョコだ。言うまでもなく彼女はキノコ型のチョコを手にしており、騒々しい周囲のことなどまったく気にしていないようだった。
おいおい、お前はちょっと前に「お金持ちになりたーい」とか言ってなかったか?
いつの間にかぜんぜん興味なくなっている感じだし、オズガルド家の人たちを無視するし、さらにズイとチョコを近づけてくる。
「俺、キノコ派だって言わなかった?」
「私もそうよ。絶対に譲らないわ。だからあなたはこっち」
そう力強く言われて、俺はマイナーなほうのお菓子を受け取った……けど、別に同じのを選んでも良くない? だめなの? 首をふるふるしちゃうのはなんで?
ふむ、と唸ってから振り返る。
そこには暴走しかけのグゼンさんをどうにか止めようとする東堂がおり、そんな二人に向かって笑いかける。高校生らしく爽やかに。
「すみません、今日から夏休みなんです。また近いうちに遊びにいきますから、今日くらいは放っておいて……」
ください、と言い切れずに言葉を呑み込む。むっす、と不機嫌そうな顔をグゼンさんが浮かべたのだ。
バッと勢いよく買い物カゴを俺から奪うと、マイナーなチョコも俺から奪い、そのカゴに放り込む。
「あ、ちょっと?」
「信じられません! 私に教わりたい者はたくさんいるのに! 皆からは鬼のグゼンと親しまれているのに!」
うん、それって親しまれてないよね。
しかしグゼンさんは次から次へとお菓子を手に取り、雨ケ崎が手にしていたものまでカゴに放り込む。
ぷりぷりしたまま列に並び「信じられません」を連呼する。それからレジの前に立つと、姿勢正しく右手を伸ばしてきた。
向けた相手は……東堂だった。
「え? 私、か? ん、なんだ、欲しいものがあるなら口で言え」
これか? と取り出したお財布をグゼンさんはこくんと頷いて取り上げる。素早く黄金色のカードを抜き取るや、不敵な笑みを彼女は浮かべた。
「ふふん、日本の伝統文化、大人買いを見せてあげましょう」
大人買いってなに?
あとそれ人のクレジットカードだから。
そう雨ケ崎と俺はまず思い、いや待てよ、これはタダでおごってもらえるチャンスだぞと気がついて「わあ!」「やったあ!」と嬉しそうな顔を浮かべた。
これが庶民の処世術、長いものには巻かれろだ。いや、意味がちょっと違うか。
むふん、とグゼンさんはアメリカンサイズな胸を張り、夏らしい陽射しが窓から差し込むなかで笑みを浮かべていた。
おやつ、ジュース、それと食料品。ついでのように買った漫画もまとめて買い物カゴに入れて、自転車を手で押してゆく。
気が滅入るほどではないが二人乗りは断念する程度の坂道が続いている。はやくクーラーを浴びたいなと思いつつ、俺はうだるような暑さのなかでずいぶん重くなった自転車に苦労していた。
隣を歩く雨ケ崎も汗をぬぐっており、その向こうには住宅のあいだに青々とした海が見える。
視線に気づいたのか、三つ編みにしたお下げを揺らして彼女もくるんと海のほうを眺めた。
「ん」
ぴしっと彼女が指をさしたのは、海まで続く裏道だ。
特に俺は返事をせず、たまに猫が散歩をするくらいの薄暗い小道に向けてハンドルを曲げる。買い物は終わったし、特に用事なんてないけれど散歩っていうのはそういうもんだ。
途中にあった小さな駄菓子屋さんでアイスを買い、木陰に自転車を置いてから、雨ケ崎と一緒に小道を歩いてゆく。
俺のはスイカみたいなやつで、かじるとちょっとだけスイカっぽい味がする。今日は炎天下だ。じゃりじゃりと噛みくだくと、冷たくて美味しいと感じられた。
前を歩く半袖シャツとスカート姿の雨ケ崎は大きな木の陰に包まれており、コーンに乗ったソフトクリームを舐めている。なのになぜか長いまつげに縁どられた瞳を俺のアイスにじっと向けてくる。
「いや、自分のを食えよ」
「よく覚えておきなさい、誠一郎。人の食べているものは美味しそうに見えるということを」
「その理屈だと雨ケ崎のを俺が食っていいことになるぞ」
「……あなたを見くびっていたようね。そこに気づく知能があると気づけなかったわ」
まあな、俺にもそれくらい……って悪口じゃん!
ひどくない!? 世のなかの幼馴染ってみんなこう辛辣なの? 違うよね、もっとこう温かい慈しみがあるべきだよね!
しかしだな、セミの合唱に包まれている木陰で、ほつれた横の髪を指ですくい、あんぐと口を開く異性を見るのはなぜか変な感じがする。
単に食い意地が張っているだけなのに、じゃくりと噛むときに見上げてくると、そういやこいつ美人だよなと余計なことを思ってしまう。
じゃくじゃくと咀嚼して、彼女は色づいた唇を舌で舐める。
「今度、私もそれを買うことにするわ」
どうやらお気に召したらしい。
大樹の向こうはもう青々とした水平線が広がっており、今日は風が強いのか波は白く砕けてゆく。セミたちの大合唱も鳴りやまず、過ごしやすい割には動で溢れかえっていた。
なんとはなしに岩場に腰かけて、サク、じゃり、と互いにアイスを食してゆく。炎天下にさらされて火照った身体には、この冷菓も通り抜けてゆく風も心地良い。
「この景色を見ると、夏休みって感じがしてくるわ」
「ん、そういうもんか。いつも見慣れてるからあんまり感じないな」
「そういうものよ。私たちが学校を卒業して、たとえば……そうね、十年後にここに来て、同じようにアイスを食べたら鈍感なあなたでもきっとそう思うわ」
自信のある顔を見て、喉まで出かかっていた俺の反論は引っ込む。
ざざあとかすかに波うちの音が聞こえてきて、雨ケ崎がそう言うのならきっとそうなのだろうと思った。
「十年後か。そのころ俺たちはどうしているのかね」
「立派な大人になっているわ。仕事をして、ゲームをして、漫画を読んで、新作のアップデートをそわそわしながら待つ」
「……あんまりいまと変わらなくねぇ?」
はたと雨ケ崎もそれに気づいたのか、コーンをかじりながらしばらく海を眺める。
汗はすっかり引いていて、通り抜けてゆく風に包まれていたときに、雨ケ崎はなにかに気づいた顔をする。
「全没入型のVRMMOが出ているかもしれないわ」
「なにっ! そればかりは聞き捨てならないな。そのときは一緒にやろうぜ! もちろんベータから参加だ。くぅー、デスゲームになったらどうしよう!」
「ふふ、あなたと協力プレイ? 絶対にありえないわ」
「こいつ、始める前から裏切者の顔をしていやがる!」
おーおー、流し目の悪役っぽい笑みを浮かべやがって。
だけどな、こっちだってお前の妨害プレイなんて慣れっこなんだよ。
なら帰ったら勝負だと勢いよく立ち上がり、やいのやいのと言いながら俺と雨ケ崎は海の見える小道から帰ってゆく。魔術師は最強よとか、いいや防具を着ないゴリマッチョこそが至高だとか、そんな下らない会話だ。
木陰から外に出ると、まぶしいくらいの夏休みらしい青空に包まれた。もちろん汗はすっかり引いている。




