第41話 黙って背中で感じ取る…それが男ってものさ。分かるだろ?
あ、もうセミが鳴いているんだな。
玄関から外に出て、俺はそんなことを思いながらポッケの鍵を手にする。
んで、がちゃんと戸締りをしていたとき、雨ケ崎が軒下にしゃがみこんでいることに気づく。そこにはボロの自転車があった。
自転車なー。うちの学校って自転車通学が禁止でさ、おまけにイザベラの散歩を日課としているものだから乗ることはあまりない。せいぜい週末の買い出しとかバイトに行くときくらいでしか使わないんだ。
「どうした、雨ケ崎。乗れるようになりたいのか?」
「馬鹿ね、こんなものに乗れるほうがおかしいのよ。まったく、サーカスの一員にでもなりたいのかしら。滑稽ね」
お前が馬鹿だし滑稽だよ。
そう無表情な顔ではっきりと言いたいのだが、幼少のころの雨ケ崎を知っているから俺はなにも言えない。
すっ転んで膝を擦りむいたとき、雨ケ崎は凍てつくような瞳で自転車を睨み「このボロクズ、ゴミ」と恨みのこもった声でののしったのだ。
思えばあのときからだ。幼馴染が冷たい性格に変わっていったのは。ブラック雨ケ崎が目覚める瞬間を目にしたとき、俺は何も言えなかった。
昔はあんなに大人しかったのにいったいどうして……などと不思議に思っていたとき、雨ケ崎はおさげを揺らして振り返る。
「これに乗る特訓をさせられたとき、あなたを殺そうかと考えたわ」
「おいおい、そんな大げさな……」
はっ、と鼻で笑われたせいで言いかけの言葉は止まる。雨ケ崎の瞳が、あの幼かった日と同じような恨みがましいものだったんだ。パーカーと短めのパンツというラフな格好でありながら、背後に巨大な毒蛇でもいるような禍々しいオーラを放つ。
「丸3日、朝から晩までさせられて、でもあなたは『できるできる』と笑いながら言っていたわね。よく覚えておきなさい。世の中には決してできないこともあるのよ」
「…………」
いや、普通にできるだろ。常識的に考えて。
なんならこれから教えてやろうかと言いかけたとき、ぎうっと頬をつねられた。痛い痛い。洒落にならないくらい痛いし、ラブコメ要素のかけらもないつねりかただ。お前な、全力はやめろよ! ほっぺが赤くなっちゃうだろ!
「驚いたわ。あなたが子供のころから1ミリも変わっていないのね。その言葉を口から出すのはやめておきなさい。あなたの命が惜しいのであれば」
さすがにこれはどうなの?
乗れないのなら助けてあげようと思っただけだよ?
おっかなくない? 善意で教えようとしたら殺されそうになるなんて尋常じゃないし、ガンジーだってびっくりして二度見するよ?
「分かった分かった、悪かった。そんなに自転車が嫌なら、どうしてこれをじっと見ていたんだよ」
「私が漕がなくていいのなら、買い物にはちょうどぴったりだと思ったからよ」
そのような提案をされて、俺は「はあ?」と怪訝な顔をする。
しかし気づいたら俺は自転車にまたがっており、その後ろの荷台に雨ケ崎は腰掛けてきた。
「これ、交通法違反じゃねーか?」
「馬鹿ね。それは事故を未然に防ぐためのもので、あなたみたいなフィジカルお化けなら関係ないわ。さあ、行きなさい」
お化けじゃねーよ、人間だよ。それと上手いのはバレーのサーブくらいで……と文句を言っていたときに今度はお尻をペンと叩かれる。あのな、俺は競走馬でもねえんだよ!
「分かった分かった。ったく。じゃあ出発するから、ちゃんとつかまっていろよな」
走り出した自転車は、下りの坂道とあって漕ぐまでもなく進む。
家々の向こうには青く輝き始める海があり、そっちのほうから流れ込む風が頬に当たって心地良い。振り返ると雨ケ崎もまんざらではない顔をしていた。
おさげを風に揺らしている様子をながめつつ声をかける。
「それで、行き先はスーパーでいいのか?」
「ええ、いいわ。なるべく安く済ませましょう」
夏休みを満喫すべくまず向かうのがスーパーというのはいかがなものか。まだ高校生なのに年寄りのような発想だ。
しかし軽快に坂道を下って行たときに、ふかりとしたやわらかさに俺は気づく。それは背中に押し当てられたものであり、当の雨ケ崎はというとハプニングにまったく気づいていない。それどころか抱きつく力を増して、俺にスマホの画面を向けてきた。
「あとでこの本屋さんにも行きたいわ。ちょうど新刊が出ているし……あ、誠一郎、家を出る前にゲームのインストールを始めておいてくれた?」
「あ、ああ……もちろんだ」
「??」
どうしよう。けっこうがっつりと当たっている。なんだかんだ雨ケ崎は自転車を怖がっているので、なおさらしっかりと俺にしがみつくのだ。
なんだろう。生々しいとでも言えばいいのかな。じっくりと押し当てられているし、段差に乗ったときに弾むから形が割とはっきり伝わってくるんだ。そういえばこいつ、ちまっとだけど谷間を作っていたっけ。
やんわりと伝えるべきだろうか。こいつは肝心なところで警戒心が足りないときがあり、また目の前のものに集中するあまり他を忘れるクセがある。
いや…………黙っておこう!!
そう俺は男らしくはっきりと結論づけた。
黙っていれば雨ケ崎が腹を立てることはないのだし、決してこの感触をもっと味わいたいわけではなく、ただ純粋な優しさとしてそうすべきだと思ったのである。この選択肢に間違いはない。ファイナルアンサーだ。
「聞いているの、誠一郎?」
「ええ、なんでしょうか?」
「?? だからバイトのこと。毎年、あなたは夏休みになると病的なまでにバイトを探し求めていたけれど、今年はどうするの? 私も一緒に働いてもいいのよ」
ああー、と俺は青空を見上げながら声を漏らす。
そうそう、夏休みになると俺たちはだいたい一緒に働くんだ。観光客が多いのでコンビニとかファミレスとかそういう感じのところでさ。
別に仲がいいとかそういうわけじゃなくて、狭い地域だから良いバイトを探すとなると数件に絞られてしまう。それと一緒にやると休みの都合もつけられて楽なんだ。
「いや、今年はいいや。このあいだの収入があるし」
「あら、そういえばオズガルド家で働いていたわね。どれくらいもらえたの?」
そう尋ねられて俺は2本の指を立てて見せる。俺には見えないが雨ケ崎は目を丸くしていたことだろう。
「ふうん、すごいわね、少ししか働いていないだけで2万だなんて」
「いや、困ったことに、ゼロがひとつ足りない」
「…………」
だきっと後ろからしがみつかれて、ちょっとこのおっぱいは反則じゃないですか。いい加減にして下さいよ、おっぱいさん!と悲鳴を上げかけたとき、雨ケ崎は耳元で「ええ〜〜〜〜!?」と大声を上げた。ちょっとね、キーンとしたよ。
「ちょ、ちょ、ちょっと!? 20万!? ありえないわ! まさか犯罪的な行為に手を染めた? そう、ユウリ君を狙う悪党を成敗したとかそういう感じなら決しておかしくない額ね。幼馴染として忠告するわ。自首なさい」
「なにその発想。頭大丈夫? 実をいうとさ、このあいだケガをしたときの見舞金が大半なんだ。でもこれはさすがにな……金銭感覚が狂いそうで怖いし、あの家にはあまり近寄らないようにしようかな」
20万円。それは一介の高校生、いや社会人であろうとも喉がゴクッと鳴るほどの存在感だ。お金界における最大級イベント、正月のお年玉でさえも霞んで見えるほどであり、もはやどう使えばいいのかも分からない。
包み隠さずそう言うと、雨ケ崎もいくらか冷静さを取り戻していた。
「そう、なら貯金をしておくことね。もしものことがあるかもしれないし、それと今後も働くときがあるのなら親にきちんと伝えておきなさい」
「え、なんで? うちの親はかなりの放任主義だぞ」
「扶養が外れるかもしれないからよ。それくらいなら平気でしょうけど、高校生のうちの場合はどうなるのか分からないし、ちゃんと調べたほうがいいわ」
ああ、なるほど。そういう問題も出てくるのか。
正直、扶養が外れたらどうなるのか分からないけど、無駄遣いをしないほうがいいのは確かだ。
「意外とまともなことを言うんだな。てっきり金をむしり取られるかと思った。お前って守銭奴だし」
「馬鹿ね、時と場合によるわ。どうせならまとまった額になったほうが嬉しいし、そのときは誠一郎もきっと喜んで差し出すわ」
「差し出さねーよ!」
「あら残念、そうしたら頭を撫でてあげたというのに」
なにそのお布施システム! いまどきのガチャ課金だってもう少しリターンしてくれるよ? いや、どっちかというとこの背中の感触のほうが……。
いかんいかん、考えるのをやめよう。この感触のためならいくらお金を払っても構わないとか思いかねない。危険だ。やめよう。
シャコーッと自転車を軽快に走らせており、ずっと下り坂なので漕ぐ必要はない。
そして向こうの海岸には、浜辺に押し寄せた観光客が見える。お高いパンツを買い、自主的にそんな姿になるなんてご苦労様だなと思いつつハンドルを切る。目当てのスーパーはもう目の前だ。
田舎の地方とあって二人乗りを叱るようなパトカーは見当たらない。
だけど駐輪場のそばに、どこかで見たような奴らがいた。
そいつは暑苦しい黒のスーツを着た奴で、俺たちの二人乗りを見てか不機嫌そうに片方の眉を上げる。対照的に、隣にいる女性はまったくの無表情だった。




