プロローグは寝ぼけた雨ケ崎からいつも始まる
★お知らせ
「雨の章」に続いて「晴れの章」を書き進めさせていただきます。
蚊取り線香が音もなく灰を落とす。
大して崩れることなく渦巻形の模様を生むその光景は、だんだんと世間から消えつつある夏の風物詩だ。
だからパッケージを飾るたくさんの白い花が14世紀ごろのセルビナで発見されたものだと知る者は少ない。
いや、知らなくて良い知識だったかもしれない。
少なくとも寝息をすうすうと響かせて、気持ち良く眠っている男女にとってはどうでもいい話だ。安眠と、ほんのちょっとの情緒をもたらす不思議なアイテムくらいに思っていればいい。
そのとき「ううん」と寝言を漏らしながら少女は瞳を開く。ごく薄手の服を着た雨ケ崎だ。
こう見えて彼女は寝ぼけることが多い。夜の10時には布団を用意し始めるなど睡眠欲に対してとても弱く、そしてまた心地良い眠りの時間を楽しんでもいる。
幼馴染の部屋で目覚めた彼女は上半身を起こして、そのまましばらくぼうっとした。
かすかに響く秒針の音。
窓から流れ込むひんやりとした夜気。
充電器などの小さな明かりが灯る部屋で、ぷらんと肩紐の片方を垂らした雨ケ崎は、ようやく起きた理由を思い出す。
「トイレ、行かないと……」
小さな声でそうつぶやいて、掛け布団をどかして身を起こす。すると生来からある肌の白さのせいで暗闇のなかで浮き上がるようだった。
無意識に手をついた先にはベッドがあり、たまたま肩を触れられた男、群青が今度は目を覚ます。しかし彼が視線を向けると、ゆっくりと離れてゆく彼女のお尻だけが見えた。
ぱちぱちとまばたきをする。
左右に揺らしており、またツンと上向いた形の良さが薄暗くとも分かる。かすかに甘い香りを漂わせており、ふらふらと吸い寄せられてしまいそうだった。
だから夏ってのは駄目なんだ。そう群青は思う。
理由のひとつはあの無防備極まりない薄手な寝巻だろう。
汗を吸い取ったぶん肌に張りついており、腰のくびれから臀部、そして丈の短いパンツから伸びた太ももまで理想的なカーブを見せつける。
それでいて当人はまったくの無自覚というか、異性が同じ部屋にいることなどまるで気にしていない風なのだから……群青に限らず健全な男子にとっては悩ましい光景に違いない。
もたもたした動きでドアノブに手をかけて、パタンとドアが閉じられるまでの数秒間。そんなごく短いあいだに、群青の眠気はだいぶ覚めていた。がしがしと髪を掻き、それから手元の時計を眺める。
「ああ、変な時間に目が覚めちまった。しかしよく夜中に起きる奴だな」
くああ、と大きな欠伸をしながらそう漏らす。
髪をすく、歯を磨く、という睡眠前のルーチンに、トイレに行くというのを加えるべきじゃないか? などと思いつつ布団にまた潜り込む。悩ましいものを振り払うように、やや乱暴な動きで。
ちらりと目をやると蚊取り線香の渦巻はあと半分ほど残されていて、目覚めるのはまだずっと先の時刻で良いと告げている。
夏というのは騒がしい時期だ。
熱しているためか空気がさわさわしており、眠れない若者たちが夜遅くまで起きている。しかし今夜は静かなもので、通りを行き交う車もない。
眠気がなかなか戻ってこず、やきもきした思いをする群青に、キィという戸の音が響いた。
解いた黒髪を背中まで垂らす雨ケ崎は、正面から見るとさらに色気の強さを感じさせる。張りついた寝巻は身体のラインと丸みを隠せておらず、そうでなくとも肩紐をひとつ落としてしまっている。
きし、きし、というかすかな足音を聞いて、群青はそっと目を閉じた。寝たふりをしたのは、あまり見ていい姿じゃないなと思ったからだ。
しかし彼にとって誤算だったのは、ぺらりと己の掛け布団をめくられたことだろう。
おいおい、お前が寝るのはそっちの布団だろう。などと言う間もない。どさりとベッドに腰かけて、雨ケ崎が入ってきたのだ。
うっ、と呻く。
独特な甘い香りに正面から包まれて、驚く間もなくひんやりした肌が触れてくる。涼しさとやわらかさ、そしてのしりと乗せてきた太ももにより先ほどは呻いてしまった。
「あったかいー……」
ぼそぉっと耳元に囁かれて、不意に腰の力が抜けた。
お前の布団はあっちだぞと文句を言いたくても片方の肩紐が外れてるものだから……見てはいけない光景そのものだ。しぶしぶながらも目を閉じざるを得ない。
やがて響く気持ち良さそうな寝息によって、ついに文句は言えずじまいとなった。薄暗い部屋で分かるのは半分ほど預けられた体重。そして女くさいと思えるほどの雨ケ崎の体臭。
不思議なことにもっと嗅ぎたいと思うし、気づいたらちょんと鎖骨に鼻を当てていた。
まるで吸い寄せられるようだ。
甘い香りを肺一杯まで吸い込みたくなるし、実際にそうしている。わずかに汗混じりの体臭を嗅いでいるうちに、またも呻くことになる。背中に回された彼女の腕から、ぎゅうっと唐突に抱きすくめられたのだ。
ただの寝相に過ぎないのに、視界がくらむほど刺激が強い。寝ぼけた雨ケ崎は抱きついたあと、ぶるうっと身体を大きく震わせてから脱力する。
ふたたび響き始める寝息を聞いて、ようやく群青は悟った。
うんうん、うん、なるほどね。
こんなの寝れるわけねえだろ! 思春期を舐めんなボケ!
頼むよー、ほんと頼む。お願いだから自分の布団で寝てくれよー。でないと本当にアレだぞ。そのー、アレがアレで、アレアレになっちゃうよ。
「勘弁してくれよー、ウガちゃん」
羽虫を寄せつけないその不思議なアイテムは、多くの者に安眠をもたらす。
しかし彼が安眠を取り戻せるのは専門外だと言わんばかりに煙を立てていた蚊取り線香は、またひとつ音もなく灰を落とす。
そのように季節をひとつ進めた群青と雨ケ崎は、誘拐未遂などの事件を乗り越えたというのに、普段とあまり変わらない日々を送っている。
しかし二人の仲が変わらないかというと、この巡りゆく季節のように彼らもまたひとつだけ変化をしていた。
それがなにかというと……。
真夜中の誰もが寝静まっている時刻。雨ケ崎はそっと目を覚ます。
まどろみのなかふと気づくのは、己とは異なる体温、そしてお尻に乗った彼の腕。
きわどいところを触られており、あれ、どうしてこうなったのだろうと思いつつ、さりとて眠気を払うほどではない。腕枕にこてんと頭を乗せ直してから、なぜ同じベッドにいるのかを思い返すことにした。
しかし思考は遅々としており進まない。
ほどよいぬくもりと、窓から入り込む夜気。
腕が痺れるから嫌なんだという不満の声を思い出しても、うつらうつらとまぶたは重くなる一方だった。
より良い寝相を求めて雨ケ崎は動く。たぶんこれは本能的なものだ。冬眠を始める熊のように。そこで丸まっているイザベラのように。
冷たい夜気に負けないようにお腹をぴったりとくっつけあい、それからもう少し内側へ潜り込む。
あ、いいかも。この姿勢が一番いい。そう思い、まぶたを完全に閉じた。押し当てた鼻でくんくんと匂いを嗅ぎながら。
おだやかに響く寝息、そしてたっぷりの眠気が二人の部屋に満たされる。この心地良さのためなら少しくらいアイツの腕が痺れても構わないわ。そう最後に思い、雨ケ崎はようやく意識を手放した。
そのように変化が生じて、ほんの少しだけ互いの距離は近づいた。しかし、かすかな変化を2人はまだ気づいていない。
だんだんと水温を上げる水槽のように、気づいたらのぼせているかもしれない。
そのときはきっと「熱いわ、誠一郎」と彼女は文句を言うのだろう。
花開いてゆく時間。
絶え間なく変わり続ける日々。
彼女たちの心地良い眠りをさまたげないように、音もなく蚊取り線香の灰が落ちた。




