第21話 男と女の違いとは?
夜半、誰もが寝静まる時刻。
真っ暗な室内をぼんやりと照らすのはスマホの明かりであり、横になっていた雨ケ崎の顔を浮かび上がらせる。
どうやら眠気が消えてしまったらしく、画面を消したり点けたりと繰り返していた。
明日も早いし眠らなくてはいけない。そうと分かっていても、そっと振り返ると同じベッドに幼馴染の群青がいる。
ぐっすりと気持ち良く眠っているのが腹立たしく、いっそのこと蹴り起こしてやろうかと思えた。
どきんどきんと胸が鳴る。
いつもなら夢も見ずに眠っていたというのに、こんなことは初めてだ。そろそろと息を吐き出す雨ケ崎は、戸惑いの表情をかすかに浮かべていた。
それからまた画面を覗き込む。
いつものように悪態をつきあい、そしてゲームをした。思考がままならないほど眠くなり、やはりいつものように寝床につく準備をした。
――だけど今夜は眠れない。なぜかしら。
陽が落ちた時刻、彼はこう言っていたのを思い出す。
男と女というのは違うんだよ。もっと警戒して欲しいし、必要があれば助けを求めて欲しい、と。
それを聞き、腹立たしいと思った。
なんでも分かっているような言い方だったし、己には分かっていないことだと暗に伝えてきた。それをバカにしたから「本当に?」と彼はなおも問いかけてきたのだろう。
すう、ふう、と呼吸を落ち着かせようとするも、いつの間にか目は覚めている。こうなってはしばらく眠りにつけない予感があった。
外からはもうなんの音も聞こえてこない。雨の音も風の音も。周囲は静まり返っており、私たちの呼吸の音しかしない。
だから余計なことばかり考え始めてしまう。
スマホの明かりにはブルーライトが多く含まれていて、浴びると目が覚めてしまうとか、眠りたいときは息をなるべく止めてから吐き出すといいとか、そういう下らない雑学を。
でもたぶんそういうことではない。
さっき取り乱してしまったことが原因だ。あれから目はすっかりと覚めてしまい、眠気はどこかに消えてしまった。きっと雑学などでは眠れない。
どうしたものかなと思いつつ布団をどけると、ひんやりとした空気が流れ込む。
そういえば彼をうろたえさせるために薄着を選んだんだっけ。太ももの付け根まで露わになった太ももを見て、昨夜のことを思い出す。
指先で触れてみると、頬は熱を帯びている。
いまはだれにも顔を見られたくないわ。そう思ったときに、そっと腰を触れられた。
「眠れないのか、雨ケ崎」
びくんと肩が跳ねて、慌てて振り返る。すると群青は眠そうな顔をこちらに向けていた。
「ええ、しばらく起きていようと思って」
「そっか、じゃあ温かい飲み物を作ろうか。前にそういう雑学を聞いたことがあってさ、試してみない?」
ふあーっとあくびをひとつして、制止の声も聞かず彼は布団をどける。
雑学なんかで眠れるわけがないのにと言っても「いいからいいから」と目をこすりながら起き上がってしまう。
「ん」
そう言い、差し伸べられた手をつい掴み返した。断るつもりだったのに、当たり前のように彼に握り返されてしまった。
やむなく立ち上がると、だれもが寝静まる時刻にふたりきりで歩くことになった。
窓からは弱々しい月明かりが差し込み、前を歩く群青の横顔を照らす。
触れ合うのは指先だけで、言葉はひとつも交わさない。暗くて助かったわと思うのはこういうときだ。頬が熱くても戸惑いの表情を浮かべても、彼にはひとつも気づかれないで済む。
ぬき足、さし足、しのび足。
足音を立てないように階段を降りるのは久しぶりだ。子供のころにこうして遊んだことがあり、またその相手は同じ幼なじみだ。
薄暗いなか振り返る群青は確かに笑っていて「なつかしいな」と言いそうな気がした。
普段なら悪態のひとつもして嫌な顔をさせるところだけど、今夜はすでにご両親も帰宅している。しぃ、とお互いに唇に指を当てて、また階下に向かう。
話してはいけない。
笑ってはいけない。
そんな状況だと、キッチンの席についたころには己の唇が笑みを浮かべているのを自覚した。こういう意味のない遊びは好きで、言葉を失うとまるで幼少のころに戻ったようだと思う。
シンと静かな空間にはふたりの気配しか感じられない。それがなぜか今夜のお泊り会を特別なものに変えてくれたようだと思う。
だれにも言わないけれど、雨ケ崎はこういう時間が好きだ。なにも生み出さないけど、お互いの気配を感じて、そして互いに笑い合う時間が。
マグカップに牛乳を入れて、レンジで温められてゆく時間も面白い。もうすぐ子供のころしか飲まなかったものを楽しめるのだし。
ちくちくと刺すような悪態をつけないのは残念だけど、たまにならこういう時間があってもいい。
やがてマグカップを手に群青が戻ってくると、彼の袖をそっとつまんだ。やはり謝っておかないと気が済まない。
「ごめんなさい、あなたまで起こしてしまって」
「いや、ぜんぜん。困ってる女の子がいたら助けてやれってばあちゃんも言ってたし、俺だって眠れないときがあるしさ」
ぼそぼそと小さな声で囁き合うと、また勝手に私の口元は笑っていた。
こんな風に言葉が制限されていると、どうにも子供のようになってしまう。そう自覚しつつも、薄暗いのだから大して気にならないかと思い直した。
ちびちび飲み始めたホットミルクは案外と美味しくて、素朴な甘さが染み渡る。
隣の席に群青も腰かけると、頬杖をついて眠そうな顔を月明かりが照らす。
「ま、男と女の違いなんてどうでもいいから、困ったときは呼んでくれ」
「それもおばあさまの言葉?」
「んー、そういう解釈もできるな。厳しいけど根は優しい人だったし、もらったお年玉のぶんはしっかり恩返ししないと。たとえばこういう風に」
祖母思いの彼はいつの間にか小皿を手にしていたらしく、差し出したそれには和菓子がひとつ乗っていた。こんなものを差し出されたら、くすりと笑ってしまうと決まっているのに。
「良いおばあさまね」
「だろう、会えばきっと気にいったと思う。雨ケ崎をな」
品のある素朴な甘味を楽しんでいるときにそう言った彼は、ニヤリと嬉しそうに笑っていた。
決して騒いではいけない時刻。
小さな声でしか伝えられない時刻。
そして温かくてほんの少しだけ甘いミルクを飲む時刻。
気がついたらあくびが漏れていたし、うとうとと瞳が閉じ始める。睡眠のための雑学が役立ったとはとても思えないけれど、してやったりという彼の顔を見るのは少しばかり癪だ。
静かな時間はさらに静かになり、言葉はどんどん減ってゆく。
ふと居眠りをしかけた群青は、眠気覚ましなのかこう問いかけてきた。
「で、さっきはベッドで何を見ていたんだ、雨ケ崎」
ぼそぼそとした声が降ってくる。
どきっと心臓が跳ねたけれど、今宵ばかりは反論する必要もない。ただ瞳を閉じて、寝たふりをすればそれで済む。
だから「まいったなぁ」というボヤきを聞いて、こっそりと笑う。だけど薄暗いから彼は気づけない。
耳に響くのは、ことりとマグカップを流しに置く音。かすかな風の音。群青がゆっくりと近づく足音。
そして――ふわっと全身が浮き上がる感覚だった。
びっくりしたし、また同時に軽く感動もしていた。運んでもらえるなんて子供のころに数回だけ味わえたことなのに、この年でまた体験できるとは。
背中と太ももをしっかりと抱き支えられて、ころんと彼の胸で頭を支えられて、私はひそかに内心で悲鳴を上げていた。
――ああ、気持ちいい。
決してご両親を起こしてはいけない時刻。
大きな声で話してはいけないし、だから眠っていたのは嘘だったと告白することもできやしない。
きっと今夜は特別だ。お誕生日よりクリスマスよりきっと特別な夜なんだ。
でないとおかしいわと私は思う。こんなにウキウキしているのに、ごく普通な夜のわけがない。
そしてベッドに辿り着く前に、私はいつの間にやら眠りに落ちていた。
こうあって欲しい。いつもこれだけ気持ち良く眠れるのなら、毎晩楽しみにできるんだけど。
§
ガン、と乱暴に蹴られたのはローテーブルだった。
乗っていたものがどさどさと床に散らばり、またガラスの割れる音が響く。
それを蹴った男はというとまだ怒りが収まらないらしく肩を震わせながら立ち上がる。
茶色く染めた髪と、筋肉質な体形。周囲が認めるほど腕っぷしのある彼は、野崎という名の上級生であった。
「ふざけやがって、あの群青とかいうやつ!」
わなわなと震えながら男の名を口にする。
先ほど暴力沙汰を起こしたことで即時に謹慎を言い渡されており、その際はこちらの反論などまるで聞いてくれなかった。処分の方法を淡々と告げられる場だと感じたし、不自然と思えるほど決定までが早すぎる。
ヤケを起こしたくなるのは、この目もくらむような宿題の量、そしてブ厚い反省文の束だ。
周囲はみな大学受験の勉強を始めているというのに、こちらは無用な外出さえ禁じられている。
しかし最も腹立たしいのは、あの生意気な態度をした下級生だ。
「あいつ、速攻で先生にチクりやがって……!」
と、そのとき電子音が鳴る。目をやるとそこには同級生の名があった。
今回処分を受けたのは野崎、そして同じく暴力を振るった同級生だ。もう一人その場に女性もいたが、制止しようとしていたので反省文だけで済んでいる。
『これ、茜香ちゃんも噛んでるんじゃねーの? 当日から停学にされて課題まで準備されているなんて、どう考えたっておかしいっしょ』
画面に映し出されたSNSの文章は、同処分を課された者が発信したものだった。
それを睨みつけて、怒りはまた異なる者に向けられる。すなわち、こう思ったのだ。最初から仕組まれていたのでは、と。
そのようなことはありえない状況であったが、野崎はこう言う。
「ちょうどいいや。茜香ちゃんにも男と女の違いってのを教えてやるか」
その不吉な声を聞く者は、だれ一人としていなかった。
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