表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第1話スキル授与式③過去 ※読み飛ばし推奨

児童虐待、猫虐待、家庭内不和などの残酷描写を含みます。

次の話の冒頭に簡単なあらすじを入れておきますので、

気になる方は読み飛ばし推奨です。 

 ぼくの家族は、四人。

 大手家電メーカーで新製品の開発をしてる、光太お父さん。

 お父さんと職場結婚で、専業主婦してる、舞子お母さん。

 八つ年上の、優一お兄ちゃん。

 家は都内の端っこの新興住宅地の小さな一戸建てで、ぼくとお兄ちゃんは同じ部屋。

 お兄ちゃんは、頭が良くて背が高くてイケメンですごくモテる、らしいけど、ぼくにはちょっといじわるだ。

 勉強だって運動だってゲームだって、八つ違いじゃ全然かなわないのに、いつもぼくにボロ勝ちして、『どんくさいな』っていじわるな顔で笑う。

 部屋も、机も本棚もクローゼットも全部お兄ちゃんが使うから、二段ベッドの上の段だけがぼくのナワバリだった。

 お母さんは、お兄ちゃんが大好きで、ぼくが『お兄ちゃんずるいんだよ』って言っても、『お兄ちゃんの悪口言っちゃダメでしょ』って怒られる。

 いつでもお兄ちゃんの味方で、ひいきしてた。

 お兄ちゃんがほしいものは、すぐお母さんが買ってくれるけど、ぼくがほしいものを買ってもらえるのは、お父さんが一緒の時だけ。

 お父さんは、ぼくの味方してくれるけど、仕事が忙しいくてあんまり家にいないから、ぼくはいつもさみしかった。

 リビングでなかよくテレビ見たりおしゃべりしてるお母さんとお兄ちゃんの仲に割りこめなくて、たいていベッドのカーテンを引いて布団をかぶって、ひとりで図書館の本を読んでた。

 それでも幸せだったんだってわかったのは、そんな生活が終わってからだった。



 小学校四年生の夏休み直前、お父さんが珍しく早く帰ってきたから、四人でばんごはんを食べてる時、お兄ちゃんが言った。

「今日さ、自習時間にメンデルの法則の復習してたら、血液型占いの話になって、友達に『おまえは負けず嫌いだから、絶対Oだ』って言われたんだ。

 俺が『血液型は知らないけど、たぶん天才が多いAB型のはず』って答えたら、なぜか、じゃあ調べにいこうぜってことになったんだ。

 そいつ、十八歳の誕生日が来たとたんに、献血好きな親に記念だって献血に連れていかれて、血液型とか健康状態とか教えてもらったんだって」

「あらそうなの。

 じゃあ、今日行ってきたの?」

 お母さんが、骨を抜いた焼き魚の皿をお兄ちゃんに渡しながら、優しい声で答える。

「うん、乗換駅の駅ビルに献血ルームがあったから、そこ行ってきた。

 やっぱABだった」

「まあ、すごわねえ」

 自慢そうなお兄ちゃんと、なぜか嬉しそうなお母さんを見て、お父さんが不思議そうな顔になった。



「それはおかしいね。

 僕はO型だから、こどもがAB型になることはないよ」

「……は?」

「えっ?」

 今度はお兄ちゃんとお母さんが不思議そうな顔になる。

「メンデルの法則で出てきただろう。

 僕の遺伝子型はOOだから、母親の血液型がなんであれ、AB型の子は生まれない。

 何かの間違いじゃないかな。

 次に献血する時に、調べなおしてもらったほうがいいね」

 ぼくに勉強を教えてくれてる時みたいな優しい口調で言われて、お兄ちゃんは眉間にぎゅっとシワを寄せ、お母さんが急に高い声で言う。

「ま、まあ、いいじゃない、調べなおさなくても。

 優ちゃんはAB型ってことで! ね!」

「いや、もし事故にでもあって輸血が必要になった時のためには、自分の正しい血液型を知っておくほうがいい。

 去年誠二が僕と散歩中に自転車に当て逃げされてケガした時、輸血が必要になるかもしれないと言われたのに血液型がわからなくて、確認に手間取ったんだ。

 ……誠二は、僕と同じO型だったよね」

「うん」

 お父さんがぼくを見て言ったから、小さくうなずく。

 結局輸血はしなかったけど、調べた結果を教えてもらった。

 お父さんと一緒っていうのが、なんだか嬉しかったから、ちゃんとおぼえてる。



「もちろん、誠二の時のように輸血前に検査はされるはずだけど、Rhマイナスなどの珍しい血液型の場合は、輸血の用意がなくて手配に時間がかかることもあるから、先に伝えられたほうが」

「いいじゃないのそんな面倒なことは!

 ほら、冷めちゃうから、さっさとごはん食べちゃって!」

 お父さんが話してる途中で、お母さんが機嫌が悪い時の顔で叫びながら、ぼくをにらむ。

 思わず首をすくめた。

 黙って聞きながら食べてたのに、どうしてぼくがにらまれるんだろう。

 でも文句を言ったら三倍ぐらい言い返されるから、急いで残ったオカズを食べる。

 お兄ちゃんも黙って食べ始めたけど、なんだかコワい顔してた。



 次の日、夕方に帰ってきたお兄ちゃんは、昨日よりコワい顔してた。

 そういう時に近寄ったら、やつあたりされるから、ベッドに上がってなるべく静かにしてた。

 三人でのばんごはんは、お母さんだけがしゃべってた。

 お風呂に入って、また自分のベッドにこもってると、ようやくお父さんが帰ってきた。

 とたんにお兄ちゃんが部屋を出て、玄関のほうに行く。

 お兄ちゃんが半開きにしたドアから、二人の声が聞こえてきた。

「ただいま優一」

「……今日、帰りにもっかい献血ルーム行って、血液型調べなおした。

 『血液検査の結果が間違ってたせいで、オヤジに自分の子じゃないって言われたじゃねえか!』って怒鳴ったら、スタッフが平謝りしてきて、検査やりなおした、けど。

 俺は、やっぱりABだった。

 父さんがOってのが間違いじゃねえの?」

「……いや、年に二回工場に献血カーが来て、そのたびに献血してるから、間違いないよ」

「じゃあ、なんで俺はABなんだ!

 俺の父親は誰なんだよ!」

「それは……僕が知りたいよ」

 ぼくに聞こえたのはそこまでだったけど、その後お風呂から出てきたお母さんも一緒に、長い間話しあいをしてたみたいだった。

 その翌日から、三人ともしゃべらなくなって、気まずい日が続いた。



 終業式の前の日、帰ってきたらお父さんがリビングのソファに座ってて、びっくりした。

「どうしたの? しんどいの?」

 近寄って聞くと、お父さんは困ったように笑う。

「……いや、大丈夫だよ。

 誠二、急で悪いけど、明日から神奈川のおばあちゃん家に行ってほしいんだ。

 今から荷造りしてくれるかな。

 明日、終業式から帰ってきたら、お父さんが車で送るから」

「えっ、神奈川の?

 埼玉のおじいちゃんちじゃなくて?」

 一年生の冬休み、お兄ちゃんの高校受験の勉強の追いこみのじゃまにならないようにって、初日から最終日まで、埼玉にあるお母さんの実家に連れていかれた。

 それ以来、春休みと夏休みは、ずっと埼玉のおじいちゃんちにあずけられるようになった。

 神奈川にあるお父さんの実家には、お正月に日帰りで行くぐらいで、泊まりで行ったことはなかったのに。

 でも、埼玉でも神奈川でも、この家で気まずく暮らすよりは、いいかな。

 今回もそうだろうと思って、用意はしてあったし。

「わかった」

「ありがとう」

 お父さんは、なんだか悲しそうな顔で笑って、頭をなでてくれた。



 次の日、終業式から帰った後、学校で渡された夏休みの宿題をバッグに詰めこんで、お父さんと出発した。

 途中の車中や、遅めの昼ごはんを食べながら、お父さんがいない時の家の様子とか、お母さんに言われて悲しかったこととかを聞かれた。

 なんでそんなこと知りたいのか、わからなかったけど、がんばって思い出しながら話した。

 長い休みのたびに、『お兄ちゃんの邪魔しないで』ってお母さんに言われて、埼玉のおじいちゃん家に連れてかれる、とか。

 三人での外食やデリバリーのメニューは、お兄ちゃんは好きなものいろいろ頼むけど、ぼくの分はいつもお母さんが決めちゃって、自分の好きなものを頼んだことはない、とか。

 お兄ちゃんにするみたいに、優しい声で話したり、笑いかけたり、抱きしめたり、してくれない、とか。

 お母さんに『優ちゃんが、弟がほしいって言ったから、あんたを作ったのよ。私はもう妊娠も出産もしたくなかったのに。あんたは優ちゃんのオマケなんだから、優ちゃんの言うこと聞かなきゃダメよ』って、すごく冷たい顔と声で言われた、とか。

 お兄ちゃんの血液型の話以来、ごはんの時も同じ部屋にいても、お兄ちゃんはぼくを無視してるけど、でも前からそうだったな、とか。

 話せば話すほど、お父さんの顔が悲しそうになっていった。

 そんなことを聞かれた理由は、おばあちゃん家についてから、教えてくれた。



 髪の毛でわかる検査で、親子の確認をした。

 ぼくは、お父さんとお母さんの子だった。

 お兄ちゃんは、誰かとお母さんの子だった。

 お母さんに聞いても、『知らない、わからない』としか言わなくて、それ以上聞くと泣いちゃって話ができない。

 でも、それじゃあ、今までどおりには暮らせない。

 これからどうするか、ぼくが家にいない間に相談するから、さみしい思いをさせて申し訳ないけど、ここにいてほしい。



 お父さんが教えてくれたことは、びっくり半分、納得半分だった。

 お母さんがお兄ちゃんを大好きで、ぼくを嫌いなのは、お父さんが違うからだったんだ。

 三軒隣のたつき兄ちゃんが、前に言ってた。

 お母さんが離婚して、新しいお父さんが来て、新しい弟ができたら、お母さんは弟ばっかりかわいがってるって。

 『オレと弟は父ちゃん似だから、顔見るのいやなんだって。前の父ちゃんは、酔っぱらうたびに母ちゃんをいじめてたから、優しい新しい父ちゃん似の弟のほうがかわいくても、しかたねえよな』って、さみしそうに言ってた。

 ぼくのお父さんは、お母さんをいじめてなかったけど、でもお母さんにとっては、前のお父さんのほうが好きだったから、前のお父さんのこどものお兄ちゃんをかわいがってたんだ。

 ……あれ、でも。



「お母さんは、お父さんと結婚する前にも結婚してて、お兄ちゃんはその人のこども、ってことなんだよね?

 なのに、どうして『知らない、わからない』なの?」

 ぼくの質問に、お父さんはなぜか泣きそうな顔になる。

「……お母さんは、僕としか結婚してないし、優一は結婚三年目に生まれたんだ。

 なのにわからないのは、……どうしてだろうね……」

 お父さんはそっと手を伸ばして、やさしく頭をなでてくれる。 

「ごめんね、誠二。

 仕事が忙しいことを口実に、家のことをお母さんに任せきりにしたせいで、誠二がつらい思いをしていることに気づかなかった。

 ……これから、なるべく家族みんなが幸せでいられるように考えて、お母さんと話しあいをするから、ここで待っててくれるかな」

「うん」



 毎日電話するからって言って、お父さんは帰っていった。

 神奈川のおばあちゃんは、好きにしてていいって言ってくれたから、のんびり暮らせた。

 学校の宿題をしたり、去年死んだおじいちゃんがためこんでたナニカの片付けを手伝ったり、近くの図書館で借りてきた本を読んだり、猫のミーナさんをなでさせてもらったりした。

 ミーナさんは、三毛猫で、人間だと百歳こえてるぐらいのおばあちゃんで、ほとんど寝てばかりだったけど、ぼくが本を読んでると隣に来て、くっついて寝てくれる。

 起こさないように指先でそおっとなでると、幸せなきもちになる。

 でも、夜になると、またさみしくなった。

 お父さんは、毎日電話するって言ったのに、一日おきになり、三日おきになっていって、話す時間もどんどん短くなっていった。

 声がすごくつかれてて、お母さんとの話しあいがうまくいってないみたいだったから、文句は言えなかった。



 お盆をすぎたころ、いきなりお母さんがやってきた。

「長い間誠二をあずかってもらってありがとうございました。

 連れて帰りますね。

 誠二、荷物まとめてらっしゃい」

 笑顔でぎろっとにらまれて、あわてて荷造りする。

 おばあちゃんが何か言ってたけど、お母さんは全部聞き流して、ぼくの手をつかんで家を出た。

 電車で帰る間、お母さんは優しいけどぞわぞわする声で、ずっとぼくに言い続けた。

「誠ちゃんは、お母さんが好きよね。

 お母さんとずっと一緒にいたいわよね。

 お母さんと一緒がいいわよね」

「……うん」

 ぼくは、うなずくしかできなかった。



 夕方に家についたら、リビングもキッチンもなんだか散らかってた。

 スーパーで買ってきたオカズでばんごはんを食べて、自分の部屋に行こうとしたら、お母さんに止められた。

「もうすぐお父さんが帰ってくるから、そこで待ってて」

「……うん」

 リビングのソファで待ってるように言われて、隅っこに膝を抱えて座る。

 しばらくしてお父さんが帰ってきたら、お母さんに呼ばれて、一緒に玄関に出迎えにいく。

「おかえりなさい」

「……誠二、どうして」

 お父さんはびっくりしたようにぼくを見る。

「お母さんと一緒がいいって、帰ってきたのよ。

 ねえ誠ちゃん、そうよね。

 お母さんと一緒が、いいのよね」

 ぼくの肩をつかんだお母さんの手に、ぎゅっと力が入る。

 お母さんより、お父さんと一緒にいたいけど。

 自分で帰ってきたわけじゃないけど。

「……うん」

 でも、やっぱりぼくには、うなずくことしかできなかった。

「そうよね!

 さあ、部屋に行ってらっしゃい」

「……うん」

 背中を押されて、玄関のすぐ横の部屋に入る。

 お兄ちゃんは机に座って、大きなヘッドホンをつけてスマホでゲームしてた。

 ふりむいて、ぼくを一瞬だけにらんで、すぐにまたスマホを見る。

 なんにも言われなかったから、そおっと二段ベッドのハシゴをのぼって、布団にころがる。

 なんだかカビくさいにおいがして、涙が出た。

 


 それからしばらくして、お父さんとお母さんは離婚した。

 ぼくは、お父さんと一緒がよかったけど、お母さんと一緒に暮らしてほしいって、言われた。

「……あの時、舞子に言わされてるだけだって、わかっていたよ。

 それでも、……なんだか、心が折れてしまったんだ。

 もう彼女に関わりたくないと、思ってしまった。

 誠二を見ると、彼女を思い出してしまって、つらくなるから。

 誠二が高校を卒業するまでの養育費を渡しておいたし、舞子も働くだろうから、生活は問題ないと思う。

 ……勝手なお父さんでごめんね。

 元気でね」

 イヤだって、お父さんと一緒にいたいって、言いたかった。

 でも、お父さんが泣きそうな顔をしてたから、もうダメなんだって、わかってしまった。



 九月のはじめ、ぼくとお兄ちゃんとお母さんは、栃木に引っ越した。

 元はおじいちゃんのお兄さん夫婦が住んでたマンションで、二人とも死んじゃって空き家になってたところを、貸してもらったらしい。

 地元の小学校に転校になったけど、友達はできなかった。

 ぼくたちが借りたマンションは、古い団地の一角で、五階建てで三十室あるのに半分ぐらいは空き家で、住んでるのはお年寄りがほとんどで、この棟で小学生はぼくだけだった。

 他の棟には何人か小学生がいたけど、なかよしグループがもうできてたし、学校のクラスも同じで、そこに混ぜてもらうのは、ぼくにはむずかしかった。

 黙って授業を受けて、ひとりで家に帰って、掃除や洗濯ものの取りこみをする。

 やることがあると気がまぎれるから、家事の手伝いは、いやじゃなかった。



 お母さんは、最初はずっと家にいて、テレビを見てた。

 ぼくの養育費を生活費にしてたらしいけど、ぼくひとりぶんのお金で三人が暮らしてたから、すぐにへっちゃったらしい。

 半年ぐらいすぎたころに、 『お父さんに電話して、もっとお金ちょうだいっておねだりしなさい』ってお母さんに言われて、言われたとおりにした。

 そしたら、お父さんに『誠二のための金を自分たちの生活費として使ってるなら、離婚までにおまえが使いこんでた生活費と合わせて損害賠償請求するぞ』って怒られて、お母さんはあわてて電話を切った。

 その後、お母さんは近くのスーパーで働きだした。

 最初は、しんどいとか、指導係がウザいとか、文句ばかりだったけど、賞味期限切れのオカズとか、ちょっといたんで売場に出せない野菜とかを捨てる前にこっそりもらえるようになったら、機嫌が良くなった。

 なかよくなった人もいて、時々夜に飲みにいってる。

 家では話し相手がぼくしかいないから、お母さんの気が済むまで話を聞かなきゃいけない。

 ぼんやり聞いてたら、会ったことないスーパーのお客さんやスタッフさんの失敗談とかイヤミとかに、すごく詳しくなってしまった。



 お兄ちゃんは、部屋から出てこなくなった。

 ぼくと同じように近所の高校に転校したのに、一度も行ってないっぽい。

 今の家は、キッチンとリビングのほかに部屋が二つしかないのに、お兄ちゃんはベランダ側の大きい部屋を取って『ここを一人で使う』って言った。

 お母さんは反対しなかったから、ぼくはお母さんと一緒の外廊下側の部屋になった。

 ちょっと気まずいけど、お兄ちゃんと一緒よりは気楽だった。

 お兄ちゃんは自分の部屋にこもったまま、ずうっとスマホやパソコンでゲームをしてるみたいだった。

 ごはんは、お母さんが用意してトレイにのせて、部屋のドアの前に置いとくと、いつの間にか食べてる。

 お風呂は、ぼくたちが寝た後に使ってる。

 夜中に時々コンビニとかにでかけてるみたい。

 スマホ料金と一緒に払う形でゲームの課金をしてるらしくて、お母さんがよくぐちってるけど、止めはしないんだから、まだお兄ちゃんが好きなままみたいだった。



 小学校五年生になって、栃木で暮らして一年すぎたころの秋の夜に、お兄ちゃんとお母さんがケンカした。

 ゲームに課金しすぎて、スマホ代が10万こえてたらしい。

 お母さんがさすがに文句言って、もう少しひかえてって言ったら、お兄ちゃんが何かどなり返して、しばらく言いあいしてた。

 それ以来、時々お兄ちゃんが壁とか床をけったりたたいたりしてる音が聞こえるようになった。

 壁がうすいから、ドンって音がするたび、びくっとしてしまう。

 同じ部屋だったら、もっとこわかっただろうから、別の部屋でよかった。

 


 小学校五年生の終わりごろ、学校から帰ってくると、マンションの前あたりで、どこかから猫の声が聞こえた。

 思わずあたりを見回したけど、猫は見当たらなかった。

 このあたりは建物が近くて、音がひびくから、どこからなのかわからない物音が、しょっちゅう聞こえる。

 ペットは禁止だから、誰かの家からじゃないはずだけど、野良猫が迷いこんだのかもしれない。

 どこかにエサおいといたら、出てこないかな。

 神奈川のおばあちゃん家のミーナさんを思いだしながら家について、自分でカギを開けて入ると、また猫の声がした。

 お兄ちゃんが部屋で動画見てるのかと思ったけど、やけにはっきり聞こえるし、悲鳴っていうか、苦しそうな声だ。

 きょろきょろ見回して、ベランダのほうから声が聞こえることに気づく。

 もしかして、さっき下で聞こえた猫かな。

 どこかでケガして、ベランダに隠れてるのかもしれない。

 ここは四階だけど、猫なら入れるはず。

 猫をおどろかさないように、そおっとベランダに出るガラス戸を開ける。

 首だけ出して見回してみると、隅のほうに、ふくらんだ洗濯ネットがあって、動いてた。

「……え?」

 その時、何かが飛んできて、その洗濯ネットに当たる。

 みぎゃって、苦しそうな声が聞こえた。

「ははっ、イイ声で鳴くじゃねえか」

 お兄ちゃんの楽しそうな声が聞こえて、びくっとする。

 さらにそおっとガラス戸を開けてベランダに出ると、隣のお兄ちゃんの部屋のガラス戸が半分開いてて、その前にお兄ちゃんが座りこんでるのが見えた。

 Y字型のヒモがついた道具みたいなのを持ってて、それを洗濯ネットに向けて、くっついてるヒモをひっぱって、放す。

 また何かが飛んで、また悲鳴があがった。

「……ぁ……」

 洗濯ネットの手前に、コロンとビー玉が落ちる。

 やっとわかった。

 洗濯ネットの中にいる猫に、お兄ちゃんがビー玉を当てて、いじめてるんだ。



「なん、で……」

 どうしたらいいかわからなくて、でもまた猫の悲鳴が聞こえて、がまんできなくなる。

「や、やめてっ」

「ぁあ?」

 ふるえる足で飛びだして、お兄ちゃんと猫の間に入る。

「なんだよ、ジャマすんな」

 冷たい声で言ってにらまれて、びくっとしたけど、がんばって声を出す。

「猫、いじめないで」

「おまえには関係ねえだろ。ジャマすんな」

「でも、……猫、かわいそうだから……っ」

「……はぁ?」

 またにらまれて、恐くなったから、背を向けてしゃがみこむ。

「猫さん、だいじょぶ……?」

 洗濯ネットのところどころが赤くなってたけど、まだ動いてた。

 そおっと洗濯ネットに手を伸ばしたら、バシっと手に何かが当たった。

「いたっ」

 思わずふりむくと、お兄ちゃんがY字の道具をぼくに向けてた。

「何勝手にさわろうとしてんだよ。

 俺のオモチャに手ぇ出すな」

「で、でも……あっ」

 また何かが飛んできて、今度は足に当たる。

 下に落ちたビー玉が、コロコロ転がっていく。

 なんで、こんなことするんだろ。

 こわくて痛くてわけがわからなくて、涙が出てくる。



「ああ、おまえがそいつのかわりになるっていうなら、そいつ、逃がしてやってもいいぜ」

 ふいにお兄ちゃんが楽しそうに言う。

「えっ」

 びっくりしてる間に飛んできたビー玉が、今度は肩に当たった。

「ほら、どうする?」

「……っ」

 痛いのは、いやだ。

「かわりにならねえっていうなら、どけよ偽善者」

 また飛んできたビー玉が洗濯ネットに当たって、猫がかすれた悲鳴をあげる。

「ダメ……っ」

 痛いのは、いやだけど。

 猫がいじめられるのも、いやだ。

 とっさに洗濯ネットを抱えると、バシンと背中に痛みがくる。

「じゃあおまえが的な!

 逃げんなよ!」

 お兄ちゃんは楽しそうに言いながら、次々ビー玉を飛ばしてくる。

 ひとつずつは、我慢できないほど痛いわけじゃないけど、でも、ここからどうしたらいいかわからない。



「誠ちゃんっ」

 猫を抱えたまま体を丸めて、次々来る痛みに耐えてると、どこからか小さな声が聞こえた。

 そおっと顔を上げると、ベランダの仕切りの向こうから、隣の太田さんのおばあちゃんが顔を出してた。

 ダンナさんが足腰弱って施設に入ってヒマだからって、外廊下とかマンションの前とか生垣とか、いろんなとこをおそうじしてる。

 顔を見るたびに、いつも優しく声をかけてくれたり、おやつをくれたりして、こっちに引越してきてから唯一なかよくなれた人だ。

「太田さん……」

 おばあちゃんは、ぼくと目が合うと大きく手招きする。

「誠ちゃん、こっち、この仕切り壊せるから、こっち来てっ」

「……っ」

 ふるえる足に力を入れて、なんとか立ちあがる。

「ああん? どこ逃げる気だ?

 いっそそこから飛びおりるか?

 おまえみてえなグズが、半分とはいえ血がつながってて、オレの弟だなんて、許せねえしな。

 そうだな、死んじまえよ!」

 笑いながら、お兄ちゃんが言う。

 右手でベランダの手すりを握って、左手で猫を抱えて、一歩進んだ時、飛んできたビー玉が頭に当たった。

「あ……っ」

 くらっとめまいがして、上半身が外側、ベランダの向こうにかたむく。

「おら、トドメっ!」

「!」

 ビー玉が肩に当たって、つきとばされたみたいに、ぼくの腰ぐらいまでしかない手すりをこえて、落ちた。

「ハハハハハっ、ザマーミロ!!」

「誠ちゃんっ!」

 お兄ちゃんの笑い声と、太田さんのおばあちゃんの悲鳴が重なる。



 せめて、このこ、だけでも……っ。



 ありったけの力をふりしぼって、バスケのパスみたいに、洗濯ネットの猫を両手で投げ飛ばす。

「あ、ぁあ……っ!」

 太田さんのおばあちゃんが、手すりから身を乗りだして必死に手を伸ばして、空中で洗濯ネットをつかんでくれた。

 よか、った……。

 そう思ったと同時に、ドンっと全身が痛くなって、目の前がまっくらになった。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ