第十話 -ミッチィとヒメちゃんの日常-
彼女の第一印象は、ちっさくて騒がしい女、それに尽きる。
しかし、騒がしいと感じたのは、学校での放送をよく聞いていたせいかもしれない、その高い声が印象的だったからかもしれない。この日の彼女は、それほど口数が多い方ではなかったように思う。
服装もあって、彼女は幼く見えた。小学生だと言われても疑いなく信じてしまいそうだが、実年齢はおそらく自分やチルと同じくらい。その小柄で華奢な見た目に反して、目つきは鋭かった。彼女の生意気そうな表情に、どこか既視感を覚える。
その彼女は、チルの陰に隠れて、二人で何かを話している。そんなチル達を横目に、リッコがこちらに話しかけてきた。
「ミッチィも、今日は買い物?」
いや、まぁ……そんなとこ。言葉を濁して答えた。
「一人なの? いつもの相方が見当たらないようだけど」
相方言うな、アレはチルの相方だろ。
「うん、ワタシもそう思ってたんだけど、今日一緒にいたら、なんかヒメちゃんの方がチルの相方っぽい感じがした。あ、でも、二人は愛人関係だって言ってるから、本妻はやっぱりアッチなのかな」
何の話だよ。
いつものようにアイツと約束をしていて、すっぽかされたこと告げる。
「ふーん。まぁ、最近のアイツって、なんか付き合い悪いしね」
授業中とかに体調悪そうにしているのと、何か関係があるのだろうか。
「二人でどこ行くつもりだったの?」
ん、いや、適当に店まわるなり、あと映画に行くつもりで。
期限切れ間近の映画のペアチケットがあり、誘う相手もいないので仕方なくヤツを……
「男二人で? それは残念すぎるわね」
言うな!
話題を誤魔化すように、今度は視線をチル達の方に向けてリッコに尋ねた。
それで、あの子はいったい……?
オレとリッコの視線に気付いたのか、チルに押されるように彼女はおずおずと前に進み出てきた。
「そうそう。この子がいつもチルと一緒に放送やってる、ヒメちゃんだよ」
ヒメちゃん?
こちらを向くと、小さく会釈して一言だけ呟いた。
「よろしく」
自己紹介、終了。
終わりかよ。
こちらが自己紹介すると、彼女は迷いなく「プリンちゃんです」と答えやがった。もうそれ以上話す気はなさそうだったが、こちらには聞きたいことが山ほどある。
キミ、うちの学校の生徒?
「たぶん」
同い年?
「おそらく」
どこか彼女の挙動に不思議なものを感じた。
最初はチルの陰に隠れていて、人見知りの激しい性格なのかと思ったが、それとは決定的に何かが違う。よく考えてみれば、校内放送であれだけ好き放題喋れる女なのだ、こんなに大人しい性格なはずがない。決して合わせようとしないその視線は、怖がっているというよりも戸惑っているようにも感じる。
チルとは仲がいいのか? 長い付き合いだが、こんな友人がいると聞いたのはつい最近のこと。
「そこそこ」
幼馴染か何かか?
「いいえ、愛人です」
「違う!」
真顔で言う彼女に、隣からチルの見事なツッコミが入った。
本当にうちの学校の生徒なのだろうか。全く見覚えも、噂を聞いたこともない。リッコに尋ねてみても「さぁ?」と肩をすくめただけ。
キミの本名は?
「秘密」
なんでうちの校内放送に出てるんだ?
「大臣に呼ばれたから」
本当は、いったいどこの学校の生徒なんだ?
「プリン王国都立第一プリン高等学校」
ようやく気がついた。
この女、言葉が少ないのは話せないのではなく、人見知りがあるのではなく、ただ単に真面目に答える気がないだけなのだ。
カチンときた。
むこうには気はなくとも、こちらに用はある。
キミ、オレとどこかで会ったことないか?
表情の変化は見逃さなかった。ピクリと、ほんの少しだけ彼女は眉を動かした。
「いいえ、はじめてですよ」
初めてオレと目を合わせて、ニコリと微笑んで答えた。
確信した。
間違いない。コイツは、オレのことを知っている。
どこで会っているのかは、全く身に覚えがなかった。
「なになに、ヒメちゃんを口説いてるの?」
ちげーよ。空気読めない発言をするリッコ、オマエにはオレとコイツの間に一瞬だけ散った火花が見えていないのか。ちなみに、リッコは空気を読んだ上で煽る様な発言をするので、なおタチが悪い。
「アイツにドタキャンされて、ペアチケット余ってるんでしょ?」
それは事実。もっとも、このペアチケットも貰い物の招待券なのでオレの懐は全然痛くも痒くもない。リッコ達が二人でいるなら安く売りつけるのも手だが、三人では買ってくれないだろう。
「なら、アンタが行ってあげれば?」
事も無げにチルが言う。リッコも驚いたような顔をする。
差し出された当の本人は、ギョッとしたようにチルへ、貴様何考えてんだ正気か頭腐ってんじゃねーかこのやろうと抗議の視線を送っている。
チルは本気で空気読めない発言するので、なおタチが悪い。
「だって、それはもともとアンタが――」
ヒソヒソ、ヒソヒソ……。また二人で内緒話。どうやら、チルもこの子に何やら恨みがあるらしい。
それに対して、オレは。
それは嬉しいな、良かったら一緒に行きませんか?
紳士な笑みで誘ってやった。
驚いて表情の固まる彼女。
コイツには、まだ聞ききたいことがある。
おかしな女だった。
電波な発言ばかりする女かと思いきや、別にそういうわけでもない。普通に聞けば答えてくれるし、軽い冗談を交えれば普通に笑ってくれる。あのおかしな言動は、チルという相棒がいて初めて成立するものらしい。
「誘ってくれたのは嬉しいけど、今日ワタシ、この後ちょっと用事があるから、途中で抜けることになるかも」
構わないよ。もともとチケットも貰い物だから。
映画館に着くと、まず目的の映画の時間を確認する。次の上映までには、まだ時間があるようだ。時計を指して大丈夫?と聞くと、彼女は「たぶん」と曖昧に頷いた。
見たくもない映画につき合わせちゃって、悪いね。
「ううん、ワタシもちょうど見たかったとこだから」
そもそも、この映画を見たがっていたのは、オレではなくアイツの方なのだ。その本人がばっくれやがって。
と、その瞬間、ある恐るべきことに気がついた。
気づいてしまった。
髪型と服装、パッと見た印象があまりに違うせいで今の今まで気づかなかった。
何気なく見た彼女の横顔が、雰囲気が、口調が、今日来るはずだったアイツにあまりに酷似していた。
嫌な汗が流れる。オレの内心の動揺に、彼女は気づいていない。ばれないよう緊張を押し隠して、何気ない様子でオレは彼女に聞いた。
ひょっとして、アイツの身内か?
彼女はピクリと反応を見せた。
まるで、ヤツを女装させるとこうなるというマネキンモデルのよう。だが、決してヤツ本人ではない。その印象的な高い声と、男の視線を集める胸元の膨らみは、スカートからのぞく足は、彼女の女としての性を強調する。動揺したのは、ヤツ本人かと思ってしまったことではない。
存在しないはずの女の子が、存在してしまったということ。
「うん……実は、いとこ同士なの」
迷ったように、彼女は答えた。
まるで瓜二つ。従兄弟というだけで、これほど似るものなのだろうか。二卵性の双子でも、ここまでそっくりになることはないように思う。
触れてはいけない話題だと感じた。それ以上追求することはしない。
とりあえず、お茶にでもしよう。
彼女を促して、近くのカフェに入った。
プリンちゃんは、コーヒーにする? それとも紅茶?
「……あのね、ミッチィくん。恥ずかしいから、お願いだから、プリンちゃんって呼ばないで」
自分で名乗ったくせに。
じゃあ、名前教えろよ。
「それはヤダ」
それなら、ミルクプリンちゃ―ー
「ごめん、ワタシが悪かった。カンベンしてください」
だったら、本名名乗れよ。
「それはダメ」
わがままなお姫様だ。
なら、オレはいったいなんて呼べばいいんだ?
「……ヒメちゃんでいいよ」
わけが分からん。
やっぱり変な女だ。
オレの方はミッチィでいい、あだ名にクン付けはいらん。それで、ヒメちゃんはコーヒー? 紅茶?
変人でも狂人でも電波でも、これでも女は女。
「紅茶かな」
わかった。オレが買ってくから、ヒメちゃんは先に席を取っててくれ。
「ありがとう」
彼女を見送って、残されたオレは一人苦笑した。
変な会話ではあるが、オレは間違いなくそれを楽しんでいる。この程度のわがまま、ふりまわされるのは慣れている。彼女が名乗れないのには何か理由がありそうだ。誘ったのはこちらの方なのだ、甘いお菓子でも付けて、お姫様の機嫌を取っておくのも悪くない。
レジ待ちの間に、ケイタイでメールをうった。今日の約束をばっくれやがった、今どこで何をしてるか分からないアイツに。
『食券5枚』
オーダー待ちの間に、すぐに返事は送られてきた。あれだけ電話をかけても、全く出ようともしなかったのに。
『ふざけんな!』
いやいや、ふざけんなはこっちのセリフだろ。
と、ふと思い出した。
あの時、約束の時間に電話をかけた時、ヤツのケイタイに出たのは彼女の声ではなかったか?
確信はない。確証もない。あの時、電話の電波状況も悪かったし、映画の時間も迫っていて慌てていたのでオレの手違いという可能性もある。
やはり彼女は何か重大なことを隠しているような気がする。
お茶とスイーツセットを持って、彼女の元へ。
お待たせ。今日付き合ってくれたお礼。
「ありがと」
彼女はニッコリと微笑んだ。
……なんか機嫌が悪くなっているような気がするのは、気のせいか?
性格がつかめない女。
ここで彼女の機嫌に気づいたなら何か気の利いたセリフでも語れればいいのだろうけど、そこまでキザでもないし女の扱いに慣れているわけでもない。何より、何を言えばこの女の機嫌がよくなるのか知る由もない。
彼女は一つため息をつくと、気を取り直してスプーンを手に取った。
そして、その手が止まる。
「……これは、何?」
目の前に盛られたスイーツを見て、彼女の目が点になる。
ん、何って、本日のスペシャルなんとかスイーツ。量的にもちょうど良さそうだったし、目についたからと適当に選んだ。彼女の好みなんて知る由もない。
「真ん中のこれって……」
どう見てもプリンだ。
いや、だから、キミがプリンプリン言うから。
大きいお皿の割に盛られている量は比較的少ない。中央に据えられた極上の抹茶プリンの周囲を彩るのは、最高級の小豆とホイップクリームなどなど、それらの上から零れるような練乳ミルクがわずかに鈍く輝く。
その赤いのは梅干を漬け込んだものらしいぞ。
「キミってやつは……」
言葉もないらしい。
ちなみに、プリンを選んでやったのは意図的にだが、抹茶だったのは偶然だ。
「……ワタシ、本当はプリン嫌いなんですよね」
うそつけ。パクパク食ってんじゃねーか。
「好きだったものなのに、嫌でも食べなくちゃいけないこの苦痛、キミに分かる? あんなにおいしかったのに、どんどん嫌いになっていくこの現実。下手に安いミルクプリンが好きだって口走ったがために、大量に届けられたプリンの山が夢にまで現れて襲って――」
食いすぎだろ。
「好きなものだから、残せないんじゃないですか! 生モノは、足が早いんですよ?!」
その割には、お皿のものはきれいに食べつくしている。
日が保つものに、設定変えればいいじゃねーか。
「設定じゃないです。それに、ワタシは最初からババロアが好きだって」
生モノじゃねーか。
学校での人気は相当なものだが、それはそれで苦労があるらしい。よくここまで正体がバレずにいられるものだ。
もっと他の、無難な食べ物にすればいいんじゃないか。チョコレートとかクッキーとか。
「……チルとか?」
首を傾げながら答えた。生モノなうえに、それは生々し過ぎるから止めとけ。
チルとヒメちゃん、二人の様子を見ていれば分かる。この子は、チルをいじるのが好きなのであってそれ以上でもそれ以下ない。しかし、それがガチな連中を呼び寄せ、男共の飽くなき精神をかき立て揺さぶり続けるので危険なことこの上ない。
少なくともお昼の校内放送で扱うネタじゃねーよ。
「じゃあ、チルをいじるのは止めろと?」
そうじゃない。下手なことを繰り返し強調するなってことだよ。一つ一つのネタを軽く流していけば、聞いてる方もネタとして聞き流してくれる。
「ガチでラブレターまでもらったけど?」
そういう空気読めないやつ、もしくは本気のバカは、さらして吊るし首にするしかない。
「ガチで、チル宛に果たし状まで送られてきたけど?」
……マジか。
「マジマジ。なんかね、前に新しいメイドの募集を言ったことがあったんだけど、ワタシの方が相応しいですって、メイド姿の写真まで付けて」
さらせさらせ。
「ワタシの方が胸が大きいって、胸チラ写真までセットだった」
オレによこせ。
「それはダメ。というか、そんな関係の投稿は、全部チルが燃やしてた」
そんなに送られてきてんのかよ。
「ホントに下品なネタ投稿も多いんですよ。ワタシとチルが絡み合ってるエロい小説が送られてきたり、プリンに白っぽい何か(←練乳)がぶっかけられてる写真が送られてきたり。写真は見えないから使えないって言ってるのに」
あれだけ下ネタ連発しといて、何を今更。
「みんな、ワタシの存在をいったい何だと思ってるんでしょうね。こんな普通の女の子なのに」
普通かどうかはともかく。
「ひどい」
生徒の半分くらいが、存在自体がネタだと思ってるぞ。オレも、今日こうやって会うまで存在を疑ってたからな。写真とかを放送部のHPにアップすればいいんじゃないか。アイツのいとこだってこと説明すれば、みんな理解してくれる。
今の彼女は、噂や都市伝説みたいなものだ。噂や声は聞こえてくるのに、実態が何も存在しない。一番よく知っているはずのチルでさえ、何やらその扱いに困っている様子。
「やだなぁ、曖昧だからこそおもしろいんじゃないですか。自分の同級生と知って、隣で一緒に勉強しているクラスメートの子だと知って、こんな下ネタ送れますか?」
よく分かってんじゃねーか。
……あれ?
んじゃ、やっぱりうちの学校の生徒なのか?
「それは秘密」
また笑顔で誤魔化された。
どれだけ聞いても、何気なく話題をふっても、肝心なことは何一つ答えてくれない。
実態のないお姫様、仮の姿のプリンセス、確かに存在しているのにまるでどこにもいなかったような、性格でさえよく分からない掴みどころのない女の子。
正体を探るのは、すでに諦めている。
しかし、これだけは譲れない。
ねぇ、映画館入る前に、メアドだけ教えてよ。
オレのケイタイの電話番号とメアドをメモった紙を手渡した。
「いいよ」
驚くほど素直に頷いた。
席を立つ直前に手渡された彼女のメモ書き、店を出る時にちらりとそのメアドを確認すると、やはりそれは放送の投稿ボックスのアドレスだった。
先ほどまでお茶を飲んでいたので、飲み物もポップコーンも買わずに館内へと向かう。
この後の用事は、時間は大丈夫か?
「うん、たぶん。最後まで見れればいいけど」
そう答えるが、その目は何かを確信している。
きっと彼女は、映画が終わる頃には消えてしまっているんじゃないか。そんな予感がした。
時間を気にしている割に、彼女は腕時計を持っていない。用事というのも時間が曖昧なことから、ケイタイにでも連絡が来るのだろうけど、ケイタイを確認している姿を一度も見たことがない。
それでも、時間は近づいている。
休日ということもあり、映画館には人が多かった。シートも半分くらいが埋まっている。指定された席は端の方、スクリーンは少し見にくいが、彼女のためにはちょうど良いのかもしれない。
「ワタシ、映画館まで見に来るのって久しぶりなんだ」
今日来るはずだったアイツも同じようなことを言っていたのを思い出した。
それなら、もっと時間に余裕がある時に誘えばよかったか?
「おごってもらえるんだから、こんなに贅沢なことはないよ」
久しぶりの映画で、話のタネにはなるか?
「ミッチィと一緒に見れたことが、ね」
……学校の放送で言うんじゃねーぞ。
「さぁ、どうかな?」
彼女は笑みを浮かべる。
それを見て、オレがよっぽど嫌そうな顔をしていたのか、プッと小さく吹きだして笑うと「たぶんワタシから言うことはないよ」と言った。どこまで信用できるものか。
どうしても聞いておきたいことがあった。
ヒメちゃんは、どうしてあの時……――
次の言葉を言いかけて、館内に上映のブザーが鳴り響いた。照明の明かりが落とされ、辺りが静まり返っていく。
「始まるみたい。最初は他の映画の宣伝ばかりだけど」
そうだね。
暗がりの間に少しだけ見えた、彼女の自然な笑顔。
言いかけた言葉を飲み込んだ。
結局、聞くことはできなかった。
聞こうと思えばいくらでも聞けた。タイミングはあった。きっと彼女なら、何も迷うことなくウソかホントかよくわからない答えを笑って返してくれるだろう。別に意識する必要なんて、どこにもなかったはず。
聞くことができなかったのは、その答えを知ってしまうのが嫌だったから。オレ自身が、彼女の気持ちを知るのが恐かったから。彼女とのささやかな時間を壊したくなかったから。
あの放送での、言葉の真意はいったいどこにあるのか。
映画も終盤に差し掛かった頃、隣に座る彼女はゆっくりと立ち上がった。
タイムリミット。
席から離れる直前、彼女はチラリとこちらを見ていた。彼女の顔はスクリーンからの光の影になっていて見ることはできない。おそらくこちらの顔は見えているだろう、曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
彼女は去った。
誰もいない隣のシートが、ひどく寂しく感じた。
映画の内容なんて頭に入ってこない。
ひょっとしたらトイレに立っただけで、またすぐに戻ってくるんじゃないか、そんな淡い期待が頭をよぎる。
望みを託しながら、そんな希望はないと気づいていながら、それでもオレは彼女を待っていた。
どれだけ待っただろうか。
映画は終盤、最後の盛り上がりを見せていた。お客達は息をひそめてヒーロー、ヒロイン達のハッピーエンドを願う。だが、そんな映画のクライマックスさえ凌ぐ、驚きの出来事があった。
小さな動く人影に、視線は釘付けとなった。
彼女は戻ってきた。
期待していたはずなのに、目を疑うほどに驚いた。こちらの様子を見ることもなく、彼女は静かにシートに着く。その横顔から感情を窺い知ることはできない。
しかし、彼女の様子は映画の上映前と少しだけ変わっていた。
映画が終わった後、オレ達は並んで静かに歩いた。周りには興奮したように映画の感想を言い合うお客達がいる。話のネタがないのではない。オレはどうにか覚えていた話の本筋を、彼女がいなかったところを補足するように説明する。彼女は小さく頷くだけ。先ほどまでと変わらない笑みを浮かべているようだが、その表情にはどこか陰りが見えた。
駅まで送ると言うと、彼女はまたニコッと微笑んだ。
夕方の駅前には人通りが多い。家路を急ぐ人。両手いっぱいの荷物を抱え友人達と笑いながら歩く人。まだまだ休日は終わらないと、腕を組んで駅とは違う方向へと向かう恋人達。
駅から少し離れたところで別れることにした。どこへ向かうのを知られるのも、彼女は嫌いそうだったから。
立ち止まると、彼女は何かを待つようにこちらを振り返った。
今日は付き合ってくれてありがとう、楽しかったよ。
素直にお礼を告げた。
もう少し気の利いた言葉が言えなかったのか、もうこれで別れてしまっていいのか、本当に最後に聞かなくてよかったのか。様々な惜しむ感情と後悔の念が渦巻く。
しかし。
彼女は小さく頭を下げると、何も言わずに、また駅に向かって歩き出した。
それを見つめながら、オレは携帯電話を取り出した。
「ヒメちゃん!」
呼びかけると、彼女は振り返った。
――パシャ!
彼女の写真を撮った。ケイタイの画面には戸惑うように微笑む彼女の姿が映し出されている。不意打ちで写真を撮られたこともあり、彼女は怒ったような、それでいて少し恥ずかしいような顔をして俯いた。
「最後に、キミの本当の名前を、教えてくれないか?」
本気で問いかけた。
今までにないくらい真面目な表情で聞いた。
焦ったように口を開きかけた彼女は、オレの顔を見て、視線を泳がせてまた口を閉ざす。
彼女の返事を待った。いつまで経っても、彼女は決して目を合わせてはくれない。何か言葉を迷っているかのように、喋りたいのに言葉を失ってしまったまるで人魚姫のように、彼女は一言も声を出すことはなかった。
ただ無言でこちらを指差した。
オレの持っている携帯電話を指した。
そして、クルリと背を向けると、さよならと小さく手を振って歩いていく。
呼び止めることはできなかった。その背中が、もう来るなと言っているようで、追いかけることはしなかった。立ち止まり、静かに歩き去る彼女を見送る。
携帯電話には一つの着信履歴が残されていた。映画の上映中、着信の相手は非通知設定。
誰のものか、今更ながら気がついた。
あの時、彼女にかけられていた魔法は、シンデレラの魔法は解けて十二時の鐘が終わりを告げていた。最後まで自分に付き合ってくれたのは、彼女の小さなわがまま、オレに対するささやかなお礼……だったのかもしれない。
歩く彼女の背を遠目に見ながら、留守電に残されたメッセージを再生した。
『……今日は、本当に楽しかった。ありがとう』
もう一度だけ聞きたかった、彼女の暖かな声が聞こえてくる。少しだけ切羽詰ったような、それでもいつもの余裕のある口調で。
『キミの意外な一面が見れてよかった。次がいつ会えるのか、それはワタシにも分からないけど、機会があったら会ってあげてもいいよ。でも……』
小生意気な言葉が、いかにも彼女らしい。
駅構内へと続く大きな階段の中段に、背の低い彼女の姿を見る。行き交う人の中、どれだけ小柄な彼女であっても見失うことはない。振り返って真っ直ぐこちらを見つめている。
ケイタイからは、彼女の最後のメッセージが耳に届けられる。
『でも、名前は絶対に教えてやんない!』
あっかんべーと、彼女は小さく舌を出した。




