図書館:司書エルマーとの静かな遭遇
学院中央棟――扉を押し開けると、涼やかな魔力の流れが頬を撫でた。
大図書館は、まるでひとつの巨大な生き物のように静かに呼吸している。
幾層にも積み上がった本棚は天井近くまでそびえ、古代語で刻まれた背表紙がぎっしりと並ぶ。
棚を満たす古書からは、長い年月を閉じ込めた魔力がほのかに揺れ、ページをめくった生徒の手元で淡い光がふるふると震えた。
魔力粒子が漂う空気は、わずかに金色を帯びて見える。
読書席に座った生徒たちは、魔法書の式を確かめるために小さな魔法陣を展開し、その光が机の上に柔らかい影を落とす。
——静謐で、どこか厳かな世界。
しかしその中心に立つヴィオラだけは、そこに“揺らぎ”が一切なかった。
魔力がないというだけではない。
彼女の立つ空間だけが、まるで湖面がぴたりと止まったように、動きも光も吸い込まれているかのように静かだった。
その静寂が、魔力に満ちた図書館の中で逆に異様な目立ち方をしていた。
棚に囲まれた静寂の回廊を、ひとつの影が音もなく歩いていた。
司書エルマー――紺のローブを羽織り、白髪をきちんと後ろへ束ねた老紳士。
いつもは生徒の気配や魔力の揺れで来訪者を察する彼だが、今回は違った。
気配が、まったく“揺れない”。
魔力の流れが、ひとつの場所だけぽっかりと澄んでいる。
風も、光も、魔力粒子の舞いさえも、その一点を避けるように静まり返っていた。
エルマーは本棚の影からそっと覗いた。
そこに立つのは、ひとりの少女――ヴィオラ。
古書の列の前で背筋を正し、無駄のない動作で一冊の魔法書を手に取ろうとしている。
魔力を持たぬ者なら、魔書に触れると微かに反応が起きるはずだ。
だが、彼女の周囲では何も起きない。ただ、静寂が深まるだけ。
老司書は細い眉をわずかに上げた。
(……魔力が“流れておらん”のではない。
むしろ、あの子の周りだけ整いすぎておる……?)
魔力の奔流を半世紀以上見続けた者にしか分からぬ違和感。
未知を前にしたとき特有の、おだやかな好奇心が胸の奥で灯る。
エルマーは本棚の陰から静かに歩み寄り、声をかけた。
その声音は囁きに近かったが、図書館全体に染み渡るように響いた。
「……ふむ。あの立ち姿――やはり“武”の人、ですな」
ヴィオラが背表紙を撫で、古い魔法理論書をそっと棚から引き抜いた瞬間――
静寂を破らぬような柔らかい声が、背後から届いた。
「……その立ち姿……“武の人”ですな」
振り返ると、灰色の長衣をまとった老紳士が立っていた。
司書エルマー――学院随一の「魔書の番人」と呼ばれる人物だ。
彼の瞳は、好奇の色を帯びつつも穏やかだ。
だがその観察は鋭く、長年魔力の奔流を見続けてきた者特有の洞察があった。
エルマーはヴィオラの姿勢を一瞥し、静かに続ける。
「魔法使いの立ち方ではありません。
どちらかといえば……剣豪か、拳士の構えに近い」
優雅な図書館の空気の中で、その言葉だけが妙に生々しく響く。
まるでヴィオラの中にある“何か”を、正確に言い当ててしまったように。
老紳士は、手を胸に当てて微笑んだ。
「学院では、実に珍しいタイプですよ」
その声音に、批判の影は一切ない。
あるのはただ、純粋な興味と敬意だけだった。
ヴィオラは手にしていた分厚い魔獣学の文献を静かに閉じた。
ページが収まる音すら、図書館の静寂に自然に溶けていく。
エルマーの視線を受けて振り向くと、彼女はごく自然に――しかしどこか研ぎ澄まされた所作で一礼した。
動きに余分な揺れは一つもない。
背筋は真っ直ぐ、顎の角度、指先の添え方まですべてが「型」として完成している。
武道場の畳の上で何百回と繰り返してきたそれを、そのまま図書館でしているだけ。
けれどその礼は、魔力の揺らぎが渦巻くこの空間ではあまりにも異質だった。
「礼は尽くしているつもりですが……気になりますか?」
声は静かで落ち着いている。
だが、その静けさが逆に“武の緊張感”を帯びて、周囲の魔力をさらに凪がせた。
棚の上に座っていた魔法猫が、ぱちりと目を瞬かせて固まる。
魔導書の周囲に漂っていた光の粒子が、呼吸を止めたように静止する。
エルマーは、微笑むような、感嘆するような表情で小さくうなずいた。
(――やはり。礼法まで、整いすぎておりますな)
魔力はない。
だが、立ち姿も、礼の角度も、目の奥の静寂も――
すべてが美しいほど研ぎ澄まされている。
魔法使いではない。
剣豪のようでもある。
いや、もっと深い根にある「武」の気配。
エルマーは確信する。
(この少女……学院でも、いや王都でも見ない“異質”だ)
そして、本人だけがその事実にまったく気づいていなかった。
(――この少女、魔力はない。
だが……“流れ”が整いすぎている)
彼女の周囲の魔力は、自然と道をあけて円を描く。
それは魔法ではない。
魔力量ゼロのはずなのに、魔力持ちよりも“強い何か”が存在していた。
(異質、ではない。
これは……未知の領域ですな)
エルマーの目に、研究者としての光が宿る。
図書館は静寂を取り戻したが――
その中心には、魔力なき少女の“静かな圧”が残っていた。




