廊下での“道が開く現象”
学院の廊下は、朝の光と魔力灯が交互に揺らめき、白石の床が淡く輝いていた。
天井は高く、音が柔らかく反響する構造になっているため、学生たちの談笑や魔力のきらめきが、ひとつの大きな流れとなって廊下を満たしていた。
通常であれば、絶えず人の行き交う賑やかな空間。
だが、その喧騒の中を――ヴィオラは、まるで別の世界の住人のように歩いていた。
背筋は一本の糸で吊られたように真っ直ぐ。
歩幅は乱れず、足音もほとんど響かない。
呼吸は深く静かで、胸の上下すら目立たない。
武道場の木の床を歩く時と、何ひとつ変わらない。
ただそれだけなのに――周囲の生徒には妙な錯覚を起こさせた。
すれ違った者は、一瞬、風が抜けたような錯覚に肩をすくめる。
魔力が揺れたわけでもないのに、不可視の圧が通り過ぎたように感じてしまう。
「……何か、来た……?」
「いや、ただの新入生だろ……の、はず……」
そう呟く声さえ、ヴィオラには届かない。
白石の床に影を落としながら進むその姿は、
華やかな魔法学院の中で、ただひとりだけ“異質な静けさ”をまとっていた。
廊下の空気が、ほんのわずかに張りつめた。
最初にヴィオラの存在に気づいたのは、廊下の端で談笑していた男子学生だった。
彼はふと顔を上げ、歩いてくる影に気づいた瞬間、肩をびくりと震わせる。
「……おい、ちょっと。来る、来る……」
袖を引かれた友人が振り向くと、静かに歩くヴィオラの姿が視界に入る。
ただ歩いているだけ。
だが、その歩みには無駄がなく、均整が取れすぎていて、学院の喧噪には不釣り合いだった。
ざわ……と、小さなさざ波のように視線が集まり始める。
「……足音、しないよな?」
「え、でも近づいてくるのは分かる……なんか、空気が押される感じしない?」
耳に届く足音は一つもない。
なのに“来る”と分かってしまう、妙な圧。
「目が怖い……こっち見てなくても、視線が刺さる気がするんだけど……」
「気配が薄いのに、重いって何……矛盾してない……?」
生徒たちは小声で囁き合いながらも、誰もが距離を取りたくてそっと一歩下がる。
彼らにとってヴィオラは――
見た目は影のように薄い。
だが、近づけば皮膚に“武の気迫”のようなものが触れる。
魔力が流れる世界の者ほど、その異質さを敏感に察してしまうのだった。
学院の白い廊下は、朝の始業前でありながらすでににぎやかだった。
魔力灯が天井に並び、規則的に淡い光を落とす。
談笑する生徒たち、魔法の小火花、浮遊ノートがひらひらと漂い、
いつもの学院らしい混雑とざわつきが広がっている。
その中央を、ヴィオラは淡々と歩いていた。
背筋は弦のように伸び、歩幅は一分の狂いもなく一定。
足音はほとんど響かず、呼吸は水面のように静か。
ただ前を見て歩いているだけなのに、周囲には奇妙な緊張が生まれる。
前方で、数人の生徒が立ち止まって談笑していた。
魔道具の話だろう、笑い声が上がり、肩を揺らしている。
その背後から、音もなく“気配”が近づく。
最初に気づいたのは、談笑していた三人のうちのひとりだった。
ふと振り返り、目が合った瞬間――彼の表情が引きつる。
「……あ、来た……!」
その小声は、まるで雷撃のように周囲へ伝播した。
「え、ちょっ……避けろ避けろ避けろ!」
「立ち姿が軍の教官みたいなんだよ……!」
「いや、あれ絶対“武器を持ってる時の動き”だって!」
「ぶつかったら骨折じゃ済まないぞ……!」
小声のはずなのに、妙に通る。
気づけば数人の生徒が左右へ散り、
さらにその動きに釣られて他の生徒も雪崩のように避け始めた。
結果、ヴィオラの進行方向には――
まるで見えない王族が通るかのように、ぴたりと“道”が開いていた。
天井の魔力灯がわずかに揺れ、
彼女の周囲の魔力の流れがふっと薄くなる。
生徒たちはそれを敏感に察知し、
「威圧だ……!」
と勝手に震えている。
だが、当の本人は何も気づいていない。
ヴィオラは、きれいに開けられた廊下を見て、
小さく頷いた。
「……ふむ。歩きやすい」
それは純粋な感想だった。
自分が“避けられている”という発想は、かけらもない。
ただ、礼儀正しく道を譲られている――
そう、彼女は本気で思っているのだった。
長い廊下を歩くヴィオラの足取りは、武術の稽古場と何ひとつ変わらぬ静けさだった。
まわりで生徒たちがざわつき、さっと左右に避けて道を開いていっても——彼女の意識には届かない。
視界の端で学生たちの姿が散っていくのは見えた。
しかしヴィオラは、それを当然の礼儀だと思い込んでいた。
(……ふむ。歩きやすい)
廊下の真ん中を、何の障害もなく進める。
学院というものは規律が整っているのだな、と淡く感心しながら。
(魔法学院の者は礼儀があるのだな。狭い場所でも自然と道を譲るとは……)
心には一片の疑念もない。
周囲の生徒たちが怯えた視線で背を丸める理由も、魔力灯がほんのわずか揺らぐ理由も、彼女には分からない。
ただ淡々と、静かに、武人のような整った呼吸で歩いていく。
その姿は、気配が薄いのに——近づくと、得体の知れない気迫が肌を刺すようで。
生徒たちが勝手に道を開ける原因になっているとは、ヴィオラ自身だけが気づいていなかった。
そして、この無自覚な静謐さは。
のちに彼女へ向けられる
“静かな不審者”
“近寄り難い悪役令嬢”
という妙な噂の、確かな始まりでもあった。




