学院入学と“静かな不審者”扱い 入学初日:魔法学院の喧噪と、ただ一人だけ異質な静けさ
学院の正門前は、朝だというのにすでに活気の渦だった。
巨大なアーチ状の正門には、幾重にも重なる魔法陣が浮かび、淡い光の糸が空気を縫うように揺れている。虹色にも見える光はひんやりと澄んで、まるで学院そのものの威厳を象徴していた。
門上空では、浮遊する案内板がふわふわと旋回しながら新入生の名前を呼び上げる。
「新入生、寮案内はこちらです」
「《メラ・クトリア》、持参書類を確認します」
声はどれも柔らかく丁寧で、浮遊板の下に近づくとそのまま誘導魔法が発動するらしく、光の矢印が空中にスッと伸びる。
その周囲には、小型の光の鳥が羽ばたき、紙でできた自動記録精霊たちがペラペラと羽音をたてながら飛び交っている。新入生の顔を確認しては、どこかへとメモを届けに急ぐ姿が微笑ましい。
門前の広場では、新入生たちがすでに小さな魔法を試し始めていた。
「見て、見て! 昨日覚えた《小火花》、もう完全に安定してる!」
「わぁ、本当に火が……! 少し熱いけど!」
火花がぱちぱちと散り、色とりどりの光が朝靄の中で弾む。
友人同士で魔道具を交換しては歓声をあげ、寮の話題や新しい授業の噂であちこちが賑わっている。
期待と興奮が渦巻く、まさしく“魔法学院の入学初日”らしい喧噪。
その中心で――ひときわ鮮やかに浮かぶ、異質な静けさがあった。
喧噪の渦のただ中に、ひとつだけ揺れない影があった。
ヴィオラ・エーデルシュタインは、正門前の広場にそっと立ち、まるで風景の一部のように静かだった。
背筋は一本の剣のように真っ直ぐ。
両足は肩幅に開かれ、重心はぶれず、動く気配がない。
武人が礼法の最初の一手を待つときのような、無駄のない立ち姿。
彼女は深く息を吸い込む。
朝の空気が肺へ流れ込み、吐き出される呼吸に合わせて、周囲の空気がすっと澄んだかのように見えた。
――静か。
浮遊案内板の声も、魔法生物のきらめく羽音も、
新入生たちの弾ける声も、
その一瞬だけ背景のざわめきへと押しやられた。
ただ立っているだけ。
ヴィオラ本人にとっては、いつもの“精神を整えるための深呼吸”に過ぎない。
だが魔力が飛び交う魔法学院の朝の中では、
その凛とした静止は、逆に異様なほどの存在感を放っていた。
ざわめきの絶えない正門前で、ひときわ“動かない一点”として際立つ影があった。
ヴィオラが深く呼吸を整えるそのたびに、周囲の空気だけが静謐へと沈む。
その異質な静けさは、むしろ周りの喧騒を強調するように滲み出ていた。
新入生たちは、気づけば彼女を中心に弧を描くように距離を取っている。
「……ねぇ、あの人見て。何か……空気が重くない?」
小声なのに、なぜか耳に残るひそひそ声。
「ただ立ってるだけ、なんだよね……? でも、背筋が……怖いくらい真っ直ぐ」
「魔力ゼロの人でしょ? あれ、ほんとなんだ……近寄っちゃまずいんじゃ……」
「いま、目が合いかけた。いや……違う。見られてないのに、視線だけで睨まれた気がした……魂抜かれるかと思った……」
ひそひそ声はどこか怯えを帯びていたが、当のヴィオラに届くことはない。
彼女はただ、試合前の精神統一のように深い呼吸をしているだけだ。
しかし、魔法と喧騒に満ちた新入生の列の中で——
その静けさは、かえって圧倒的な存在感として立ち上がっていた。
喧噪の中心で、ヴィオラはただ静かに呼吸していた。
周囲の視線が向けられていることなど、露ほども気づいていない。
むしろ——
「ふむ……深呼吸すると気分が整うな」
胸の奥で空気が広がり、背骨が一本すっと通る感覚。
人が多い場所のざわつきは、武道の大会会場に似ている。
ならばすることは同じだ、と彼女は自然に結論していた。
「人が多い場所は気が散る。呼吸法で落ち着かねば」
その考えは完全に実戦の延長だった。
精神統一。
気の集中。
身体の軸を確かめる呼吸。
——しかし、ここは魔法学院。
魔力が渦巻き、浮遊する案内板や光の鳥たちが飛び交う世界で、
ただ一人だけ「武の世界の静けさ」を持ち込んでいる。
ヴィオラは目を閉じ、ゆっくり吐息を漏らした。
魔力ゼロの令嬢が整えているのは“気”ではなく、
あくまで純粋な呼吸法なのだが——
その静けさは、この場所ではあまりに異質だった。
浮遊する案内板が、ふわりとヴィオラの前へ滑ってきた。
新入生の名前を読み上げる澄んだ声が、ほかの学生には快活に響くはずだった。
だが――
案内板は、ヴィオラの目前でピタリと動きを鈍らせた。
まるで見えない壁に触れたかのように揺れ、すぐに方向を変えて距離を取る。
「……?」
ヴィオラは眉も動かさず、ただゆっくり呼吸を続ける。
案内板が逃げた理由など、まったく思いもよらない。
次いで、光の羽根を持つ小鳥型の魔法生物が、周囲の新入生の頭上を旋回しながら飛び回る。
興奮した学生たちが「きれい!」と手を伸ばすたび、鳥は楽しげに輪を描く。
しかしヴィオラの近くへ進んだ瞬間――
光の鳥たちは、まるで敏感に何かを感じ取ったかのように翼を震わせ、
弧を描くように大きく進路を変えた。
ゆるやかに漂っていた魔力の流れまでもが、彼女を中心に“避けるように”湾曲し、
人間には見えない細い風の帯が、そっとルートを外れていく。
周囲の喧騒のなか、その微妙な違和感に気づく者はほとんどいない。
だが 読者だけははっきりと理解する。
――魔力ゼロのはずの少女を、魔力そのものが避けている。
ただ一人、無風の中心のように立つヴィオラ。
その静けさこそが、誰より異質で、誰より強烈だった。
当の本人は、静かに息を整えながら思うだけ。
「……ふむ。やはり深呼吸は落ち着く。」
入学式の開始時刻が近づき、門前の喧噪はさらに熱を帯びていく。
そんな中で――ヴィオラは静かに歩き出した。
足音は驚くほど軽い。
騒がしいはずの周囲の音が、彼女の周囲だけ薄い膜に包まれたように遠のく。
すると、奇妙な現象が起きた。
彼女が一歩踏み出すたび、人々が左右へ自然に分かれていくのだ。
最初は偶然のようだった。
しかし、彼女が進むほど、その“道”は綺麗に開かれ、
結果としてヴィオラの前には一本の静かな通路が続いていく。
学生たちは顔を見合わせ、小声で囁き合った。
「……今、なんで道が……」
「避けちゃった……勝手に足が……」
「こ、怖いとかじゃなくて……なんだろう、圧というか……」
しかしヴィオラには、その戸惑いの声はまったく届いていない。
彼女は穏やかな表情で、静かに感心していた。
「魔法学院の者は礼儀正しいのだな。
こうまでして道を譲ってくれるとは……ありがたい」
そう言いながら軽く会釈すると、左右の学生が一斉に肩を震わせ、道がさらに広がる。
彼女の歩みは変わらず静かで、落ち着いていた。
学院の喧噪の中、ただ一人だけ“揺らがぬ静寂”の中心にいるように――。
こうして、
“魔力ゼロなのに何か怖い新入生”
“静かに圧がすごい不審者”
という、噂の種が静かに芽を出し始めるのだった。




